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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824㉒

オルロフの妻、エカテリーナ・ニコラエヴナは1821年11月23日、弟А.Н.ラエーフスキイに書いている:《私たちは非常にしばしばプーシキンに会います、彼はありとあらゆる事柄について夫と議論をするためにやって来ます。彼の今のお気に入りの話題は ― サン=ピエール師の永久平和についてです。彼は確信しています、政府は、より完全なものになりつつ、だんだんと永久不変的な世界を確立する、その時には、強い意志と情熱、進取の気性をもつ人々の血だけは流されないだろう、彼らを今私たちは偉大なる人々と呼んでいるが、その時には、ただ社会の秩序を乱す者たちとみなされるだろう、ということを》。¹
  ¹ゲルシェンゾーン М.О. 若いロシアの歴史.モスクワ-ペトログラード,1923,p.34. 同じ宛名の人物へのЕ.Н.オルロヴァの手紙の中間部:《私たちの家では絶え間なく、哲学的、政治的、文学的などのにぎやかな議論が行われています。それは遠くの部屋から私のところまで聞こえてきます》(同上)
 
プーシキンはこの当時、ルソー(概してプーシキンは当時、ジュネーブの思想家の作品に多大なる関心を寄せていた)の論述のなかのサン=ピエール師の永久平和論を繰り返し読んでいた。この読み物は、人間の生まれ持った自由の問題、国民主権(国民の最高の権利)の問題、国民の法の問題に言及しているかぎりにおいて、差し迫った焦眉の特質をもっていた。
 プーシキンとオルロフの議論(グネジーチへの手紙:《オルロフと議論している、ほとんど飲まずに》(II,1,170)は対立していなかった。²
  ²参照:アレクセーエフ М.П. プーシキンと《永久平和》の問題. ‐出典:アレクセーエフ М.П. プーシキン. レニングラード,1972
 プーシキンの《永久平和》の問題に対する関心の政治的文脈は、ナポレオンとの戦争において勝利者となった国々の反動的な同盟国家は、ヨーロッパの和解というスローガンのもとに実現していった、ということに関連していた。ウィーン会議はナポレオンを戦争の悪魔と宣告し、厳粛に永久平和を宣言した。このスローガンは、1815年にある種の自由主義の色合いを失わず、のちに革命的勢力に対抗する反動的な秩序を擁護する計画に変わった;プーシキンの言葉によれば、和解の理念は
 
     …世界に贈り物として静かな束縛をもたらした (II,1,310)
 
 従って革命的意識の持ち主たちはこの時期、概して、好戦的な気分をもっていた。西ヨーロッパの自由主義者たちの共感はいっそうしばしばナポレオンに向けられるようになり、また、革命と革命的戦争の理念は、緊密に絡み合っていることが明らかになった。
 この状態において、戦争は国内で自由が確立したのちに自国の国家利益を保護する手段とみなされていた。国家間の関係は倫理の範囲外にある(《自然法》を論拠とする限りにおいて)ということに関する知識は、(ぺステリの)革命後のロシアの外交政策に攻撃的な観念を引き起こした、例えば、オルロフの友人ドミトリエフ‐マモーノフの観念は、明らかに攻撃的な性格を持ち始めた。マモーノフの観念のなかで革命的なロシア政府は ― ナポレオンの伝統において ― 自国の政治の大国主義の段階を受け入れ、非常に強国となった(マモーノフは北、中央、南ヨーロッパにおける広大な領土の占拠を計画した、《ペルシア人に対する有利な戦争とインドへの侵入の構想の著作》¹)。ロシア騎士団の勲章をもつマモーノフの古くからの戦友であるオルロフは、おそらく、自分の友と理念を部分的に分かち合った。
  ¹デカブリストたちの手紙と証言より. サンクトペテルブルク.1906,p.147.
 オルロフと議論し、その日々に永久平和の問題を取り上げた原稿を執筆したプーシキンは、別のアプローチをした点で特徴的だった。彼は君主たちの同盟の成果である平和を拒否し、ルソーの権威に基づいて、永久平和を革命政府の同盟の結果として提議した。自分の草案で、平和への道はただ《人類にとって無慈悲でむごたらしい手段》を明らかにする、というルソーの言葉を引用しつつ、彼はこう結んだ:《彼が言ったこのむごたらしい手段とは、 ― 革命であることは明らかだ。いまこそ革命の時が到来した》(XII,189 i 480)²。
  ²プーシキンの草案はオルロフとの議論の生き生きとした調子が残されている。結びの言葉:《これらすべての論拠は非常に弱いことは分かっている、こんな若僧の証言は、ルソーのように、一つも勝利を得られず、いかなる影響力も持たないのだから(XII,480)、 ― もちろん、別の人《いかなる勝利も得られなかった若僧》、 ― プーシキン自身に向けられた、オルロフの言葉の皮肉まじりの言い換えである。参照:アレクセーエフ М.П. プーシキンと《永久平和》の問題. ― 出典:アレクセーエフ М.П. プーシキン. レニングラード,1972.


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