プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑭
プーシキンはキシニョフに疲れた。オルロフとВ.Ф.ラエーフスキイのサークルの崩壊の後、キシニョフは彼にとって特に耐え難くなっていた。しかし、それでもやはりキシニョフは牢獄ではなかった、一方オデッサは ― 解放されていなかった。しかしながら、ロマン主義的主人公の人物像(この場合 ― 有名なジュネーブの囚われ人ボニヴァル)を通して自分自身を見る必要性があまりに差し迫っていたため、名宛人には十分理解できる手紙からの引用という一つの方法で、彼はほとんどすべての自分の体験を描写した:
そして両目からあらたな涙が
こぼれた、するとあらたな悲しみが
私の胸をしめつけた…私は悲しくなった
捨てた私の鎖と離れるのが…
プーシキンによって作り出された詩的人格のタイプに、本質的な部分として、永遠に、秘められた、答えの得られない愛のモチーフが加わった。後にプーシキンはロマン主義的世界の相も変らぬ属性の一つとして、それを《大げさな夢想》と呼んで皮肉まじりに言及した:
この時 私に必要だと思われたのは
砂漠、波打ち際の真珠、
そして 海のざわめき、積み重なる岩々、
そして 誇り高き乙女の理想、
そして 名も知れぬ苦しみ。 (VI,200)
この相も変らぬ、1840年代にはすでに低俗化された、ロマン主義的モチーフをレールモントフも言及していた:
群衆をすべての詩人たちが罵っていた、
すべての家族たちが称賛していた、
天上のものすべてが魂となって伝わった、
秘密の願いをこめて呼びかけた、
NNに、未知の美にむかって、―
そして皆 おそろしくうんざりさせられた¹。
¹急速に低俗化したロマン主義的紋切り型のこの強制力はあまりに強かったため、プーシキンの叔父В.Л.プーシキンでさえ、そのような秘密の、分かち合えない激情を自分が持っていると思っていた。
愛している、…だれもそれを知らない、
なぜなら秘密のいとしい人を私の胸の内に隠している。
私ひとり それを知っている…心がさんざん苦しんで、
昼も、夜も、私は彼女のことを想いこがれているけれども;
それでも私の苦しみは私にはいとしい、
そして私は誓った 希望をもたず彼女を愛することを…
このような詩にもとづいて、ロマンチックに彩られた伝記を構成することは、いかにも軽率である。この詩の作者についての同時代人たちの証言が、それを証明している:《彼の詩作品の対象だったのは、まだ短い少女服を脱いだばかりの平凡な小娘たちだった〈…〉背が低く、小太りで、歯が無く、禿げ頭で、わずかに残った髪を整髪剤でしょっちゅう入念に撫でつけていた彼は、ひどく感傷的で、非常に若い頃から子供っぽくふるまっていた。彼が恋をしたのは10代の娘たちで、はなはだ滑稽なことにその娘たちに焼きもちをやいていた。彼の崇拝の対象についてこのように私に語ったのは、今では中年を過ぎた夫人や乙女たちである。》(セメフスキー М. 「プーシキンの伝記に」‐《ロシア報知》,1869,84号,11月,p.86-87)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?