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プーシキン伝記第3章 南方 1820-1824⑮

1821年から1823年におけるプーシキンは、このテーマに対して皮肉な態度を取ることなど毛頭なかった。むしろ、彼はきわめて積極的に、自分の叙情性や、光輪輝く人格の神秘性や、秘められた情熱をほのめかす内容の創作に取り組んだ。この時期の彼は読者との皮肉な戯れに、また時には、あからさまに人を煙に巻くことに関心がないわけではなかった。
秘められた愛のテーマは 《クリミア》を起源あるいは色調とする叙情的な一連の詩を統合し、物語詩《バフチサライの泉》に響いている。しかしながらそのテーマが一段と強く現れているのは詩そのものではなく、当時の文学サークルを一定の感受タイプに方向づけている、それらの詩についての作者自身の解説においてである。
 1823年12月ペテルブルクにてА.ベストゥージェフК.ルイレーエフの文芸誌《北極星》が出版された。ベストゥージェフはそれをプーシキンに送った。文芸誌に掲載されたプーシキンの一連の詩のなかには、エレジー《たなびき飛びゆく雲がまばらになる…》が含まれていた。エレジーは余すところなく印刷されたのだが、プーシキンが文芸誌を受け取るとすぐにベストゥージェフに送った怒りの手紙によると、明らかに、彼は最後の3行を省略するよう編集者たちに頼んでいた:
 
   百姓小屋に夜の影がおりてきたとき、―
   若い乙女が宵闇のなかできみを探していた
   そして自分の女友達にきみの名前をおしえていた(II,1,157)
 
プーシキンは大いに憤慨した。ベストゥージェフへの別の手紙にはこう書いてある:《神よ君を許したまえ!だが今年の北極星で君は私を傷つけた ― 私のエレジーの最後の3行を印刷したね。そこで私はついうっかりバフチサライの泉に関するなにか感傷的なことを書いて、私のエレジーの美女を思い出しているのだ。それらが印刷されているのを目にした時の私の絶望を想像してみたまえ ― 雑誌は彼女の手に届くだろう。いかに喜んでペテルブルクの私の友人のうちの一人と彼女のことを話しているのを知って、いったい彼女はどう思うだろうか¹。
   ¹プーシキンによって強調されているのは ― 1824年刊《文学新聞》No.4に公表されたブルガーリンの記事《文学情報》からの不正確な引用文である。
彼女は私に名を挙げられなかったこと、ブルガーリンに手紙の封を切られて印刷されたこと ― 忌まわしいエレジーが誰かの手で君に届けられたこと ― そしてだれのせいでもないことを知って、感謝するだろうか。正直なところ、この女性のただ一つの思いを私は大切にしているのだ、世の中の全ての雑誌と我々の全読者の意見よりも。私はへとへとに疲れた》(XIII,100-101)。この引用文から、おそらく、プーシキンはエレジー《たなびき飛びゆく雲がまばらになる…》を恋に落ちた女性に捧げた、まさに彼女について語っていた手紙が、偶然ブルガーリンの手に届き、彼が秘密にしておきたかったごく私的な数行が一部公表されてしまった、ということが分かる。また、この女性の名前を挙げるのを彼は懸命に避けたことから、研究者たちは、エレジーは ― 詩人の不本意な告白、秘められた愛の証言という結論を導き出した。
 しかしながら、注意深く事実を検討することは、一連の疑問点を提起する。
 まず第一に、エレジーはルイレーエフとベストゥージェフに《誰からなのか分からないが》届けられ、明らかに、友人の間でそれは広められたのだが、そのとき指導的読者の中心グループの間にも同様に広まり、作者自身にも広まった。彼の意志でエレジーはとにかく隠された。さらに、ベストゥージェフがエレジーを出版する準備をしていることを知りながら、プーシキンはそれを禁じなかったが、ただ最後の3行を拒否していた。これによって彼は、何よりも、その3行には作者にとって重要な秘密が書かれていると思わせつつ、3行に注意をひきよせたのである(テキストそのものからはそれがどういうものなのか、まったく分からないが)。もしプーシキンの目的が、エレジーを取り巻く神秘的な雰囲気を創り出すことではなく、秘密を守ることにあるならば、なぜ作者は最後の2行ではなく、3行を印刷しないように求めたのだろうか(《百姓小屋に夜の影がおりてきたとき》の行は印刷されることで統語の完全性を容易に与えられる)?もしベストゥージェフがプーシキンの要求を実行していたら、その詩は、最後の行がその対の行に韻をふませることができずに急に途切れることで好奇心をそそる、未完成の断片という形で出版されただろう。彼の私事(とはいえ、この事情は一定の読者グループには財産となったのだが)が原因で最後が掲載されなかった場合についての口伝の知らせと組み合わせると、その刊行物はエレジーを秘密で取り囲み、エレジーを伝記的な伝統と緊密に結びつけたであろう。


  
           *          (草鹿外吉訳)
 
   つらなり飛びゆく雲たちが まばらになる。
   悲しげな星よ 夕べの星よ
   きみの光は銀色にきらめかす 枯れ果てた平原を
   まどろむ入江をも 黒い岩山のいただきをも。
   ぼくは愛する 大空の高みのきみのほのかな明かりを。
   それは 眠りこんでしまったさまざまなぼくの想いを呼びさます。
   ぼくは思いだす なつかしい星よ きみが
   ものみな心に慕わしいおだやかな故郷の上に輝きはじめる時を、
   そこには 谷間谷間にすんなりしたポプラたちがそびえたっている、
   そこでは やさしいミルトや鬱蒼とした糸杉がまどろんでいる、
   そして 南国の海の波が甘やかにざわめいている。
   かつて その海にのぞむ山あいに ぼくは
   胸いっぱいの想いをいだきながら なすこともない愁いの時をすごし
   ていた。
   すると 山家山家に夜の影がおりてきて、
   うら若い娘が 夕もやのうちにきみをさがしもとめ
   自分の友だちに きみの名をおしえていた。
                           (1820)



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