蒼い空に抱かれて(短編小説)

僕たちはあの頃、互いの体温がないと生きていけなかった。
焼けつくような気持ちを触れあわせていた。
あの頃の僕たちのことは、まるで映画のワンシーンのように、ひとつ残らず心の奥に刻まれている。

1.青空に飛ぶ

2019年8月 
僕が再び“姫”のことを考えるようになったのは、1通のメールがきっかけだった。

【横浜市立●●中学校同窓会のご案内】

仕事の合間にプライベートのスマホをチェックしたら、この件名のメール が届いていることに気づいた。
中学の同窓会のお知らせを受け取るのは初めてだった。
開催日は10月某日、土曜日の18時から。会場は横浜駅近くのホテルの宴会場。自宅がある最寄り駅から1時間ちょっとの距離だ。
参加すれば、姫に会えるかもしれない。
僕の心はそわそわと浮き立ち始めた。

◆◆◆

仕事を終えて帰宅すると、パートナーであるカナが1通の往復ハガキを手に持ち、ヒラヒラと振りながら僕に渡した。
「中学の同窓会のお知らせがきてたわよ」
「あぁ、カナちゃんありがとう。…親が転送手続きをしてくれたのか」
横浜に住んでいたのは中学卒業までだった。父親の転勤で高校からは関西へ。大学卒業まで、そこで暮らした。
就職のために上京。今年、結婚して都内に居を構えた僕のために、両親が中学校の同窓会事務局に転送手続きをしてくれていたとは知らなかった。

「行くの? 同窓会」
カナが僕の目を見ながら尋ねる。
「そうだね、会場もそんなに遠くないし行こうかな。…懐かしいな」
知らず知らずに最後はひとりごとを言っていた。そんな僕を見て、カナは「ふうん」と言う。
その唇がやや尖っているのが気になったので、
「どうした?」
カナの頬をつつきながら聞いた。

「…あなたの中学生の頃の話って聞いたことなかったから、意外だなって」
「そうだっけ? まぁ、特に話すような思い出がないからな」
僕が言うと、カナは首をかしげた。
「そうなの? 実は大恋愛してた過去を言いたくないだけだったりして」
「…まさか。だって中学生だよ?大恋愛する年じゃないだろ」
僕はそう言って、カナの言葉を笑い飛ばした。手のひらににじんだ汗を悟られないように、ギュッと握って隠しながら。

2009年6月 
「中学の思い出」というと、姫のことしか頭に浮かばない。親しくしていたのはたった1年ほど。だけどそれは、深く濃密な時間だった。

姫と出会ったのは、中学3年の春。同じクラスになったのがきっかけだった。

名字が「姫野」だから、姫と呼ばれていた。そのあだ名にふさわしく、折れそうなほど細い体と、透けるように白い肌の持ち主だった。姫を見ていると、その周りだけ空気が澄んでいるような、不思議な感じがした。よく笑う人だったけれど、笑顔がどことなく儚げなのが気になっていた。

席が近いこともあって、僕は姫と話をするようになった。すると、読んできた本やマンガ、ゲームなどの嗜好が似ていることが分かった。
僕たちは放課後、たわいもない話題で盛り上がり、その流れでお互いの家に立ち寄って一緒にゲームをしたり、話し込むことが増えていった。

◆◆◆

「なるようにしかならないから。なんでもね」
姫は、人生を達観したような言葉をサラリと言った。

当時、僕は進路について悩んでいた。高校進学をスポーツ推薦にするか否か。勉強もスポーツもどちらも好きで、どちらも極めたいと考えていた。

「スポーツ推薦で高校に入ってさ、今部活でやってるバドミントンをもっとレベルアップさせたいんだ。でも、怪我で挫折する可能性もあるだろ? だったら学業優先で公立の進学校に選んだ方がいいかなって」
放課後、僕の家に遊びにきた姫に打ち明けた。姫はうなずきながら聞き、先ほどの言葉を述べたのだった。

「多分ね、どんな道を選んでも挫折しない人生なんてないと思う。だから、どちらの高校に進んでも、なるようになるって考えた方がいいよ」
「…なるようになる、かぁ。それって要は、自分の気持ち次第で目の前の状況も変わる、ってこと?」
そう聞くと、姫は僕のベッドの上に置いてあったミュウの等身大のぬいぐるみを手にとり、ギュッと抱きしめながら言う。
「そう。この子みたいに柔軟な気持ちで、今どうしたらいいか考える」
僕にぬいぐるみを渡しながら、
「ミュウも、そうだね、って言ってるよ」
と笑う。

僕はぬいぐるみを受け取り、その柔らかい体を片手で握りながらひとりごちる。
「どっちがいいかな?スポーツ推薦の××高校か、進学校の○○高校か」
「…○○高校だったら、多分一緒に通えるね」
姫は僕から目をそらし、コミックスを手にとってパラパラとめくりながら小さな声で言った。
「そっか。姫も○○高校を受験するのか。じゃ、僕も勉強を頑張ろうかな」
胸の高鳴りを抑え、何気なさを装って答えた。
「…うん」
姫はマンガに目を落としたまま言う。

自分の方を向いてほしくて、姫のサラサラした髪の毛にそっと触れる。なに?と言いたげな目で姫が僕を見た。
「いや、糸くずがついていたから」
糸くずを丁寧に取り除く仕草を、僕はする。

姫と話していると、なぜかその髪に、肌に触れたくなった。そのたびに僕は、ありもしないゴミを取ったり、脇腹をくすぐったり、手相を見たり、さまざまな理由をつけて姫とじゃれあった。姫はいつも、穏やかに笑いながら、必ず僕の手をそっと握り返した。

ないはずの糸くずを、自分の傍らにあったゴミ入れに捨てる振りをする。姫は僕の手を柔らかく握って、「ありがとう」と言った。

ひやっとした姫の指を感じながら思う。このままいったら、多分僕は、姫を自分のものにしたくなる。
いつか、ポンと背中を押される出来事があれば。


2009年8月 
夏休みに入ると、僕は忙しくなった。バドミントン部の引退試合となる市大会のシングルで勝ち進んだのだ。受験勉強もあったけれど、中学の部活動の集大成となる試合を全うしようと決め、思う存分楽しんだ。

気がかりだったのは、姫に会えないことだった。
“試合を見に来ない?”
とメールしても、
“暑いから出かけたくない”
と、そっけない返信がかえってくるだけ。

姫は気まぐれ屋で、学校や塾を連絡なしに休む癖があった。大抵、次の日にはケロッとした顔で現れたから追求はしなかったけれど、気になっていた。
周囲への気配りに長けている姫は、学校でも塾でも常に明るく振る舞っていた。自己主張をしない分、自分の中に何かを溜め込みすぎて耐えられなくなり、休むのではないか。姫の儚げな笑顔を思い出して、僕は不安になった。

塾の夏期講習にはちゃんと行っているだろうか。
姫と同じ塾だけれど、試合が続いたこともあり、僕はしばらく塾を休んでいた。
お盆休みが明けたら、塾で姫に会えるのが待ち遠しかった。

◆◆◆

お盆休み明け。
僕たちは塾の入り口で待ち合わせをした。自宅から塾まで自転車を走らせる。
朝から気温が上昇してカンカン照り。街路樹のセミ達が、命を燃やすように先を争って鳴いていた。
約束の時間より少し遅れて姫が現れた。その姿を見て僕は言葉を失う。体はふらつき、顔色が青白い。
「どうした?体調悪いのか?」
「うん…立ちくらみしちゃって」
僕は持参していた水筒を渡す。
「これ飲んで」
被っていたキャップを姫の頭にのせ、駐輪場に停めていた自転車を引っ張りだした。
「後ろに乗れよ」
「え?塾は?」
「勉強より体調が大事だろ。とりあえず僕の家で休もう」

◆◆◆

両親とも仕事に出掛けた後の家は、セミの脱け殻のように空っぽで、しんと静まり返っていた。姫を2階にある僕の部屋のベッドに寝かせて冷房をいれ、階下に降りた。飲み物や水で濡らしたタオルを準備して部屋に戻る。
姫は目を閉じてうとうとしていた。顔色はだいぶ元に戻っている。そっとタオルをおでこにのせると、目を開けて薄く笑った。
「気持ちいい。ありがとう」
「暑いんだから無理すんなよ」
「うん。ずっと引きこもってたからかな。久しぶりに外出たら日差しに耐えられなかった」
あはは、と姫は声をあげて笑う。僕は、姫の腕をなでながら言う。
「だいたい、こんなに暑いのに何で長袖Tシャツを着てるわけ?」
「腕を見せるのが嫌だから」
「変な奴」
僕が言うと、姫は静かに尋ねた。

「ねぇ。どうしてそんなに優しいの?」
半分開いた姫の唇は、やけに赤かった。そこから小さな舌が出て唇を舐める。誘うように艶やかさを増す姫の口元。あぁ、もう駄目だ。限界だ。
「姫が好きだから」
「…え?」
怪訝そうに出した声をふさぐように、唇を重ねた。そのまま姫に覆い被さり、抱き寄せる。

姫を抱きしめていないと、どこか遠くに行ってしまう気がした。お願いだから僕のそばにいてくれ。

少したって唇を離すと、姫は大きく息をついた。
「…ごめん」
思わず謝る。
「姫の気持ちも考えずに暴走した。体調も悪いのに。悪かった。この事は忘れて」
矢継ぎ早に言って、僕は体を起こし、姫から離れようとした。
その時。
「やだ」
姫の手が伸び、僕の左腕をつかんだ。
「離れないで」
「姫」
僕は姫のおでこにのったタオルを取り、前髪を両手で払う。長い睫毛に覆われた黒目がちの瞳が眩しそうに僕を見つめ、瞬きをする。
「…そんなことを言うと、またキスするよ?」
僕の言葉を待っていたかのように、姫の両方の瞳がキュッと閉じた。代わりに、赤い唇がゆっくり開く。
「いいよ」

再びキスをしたら、もうとまらなかった。姫の着ている長袖Tシャツをめくり、すべすべとした肌に触れる。腕も胸も、もっちりしていながら滑らかで、しっとりと僕の手に吸いつく。心地よい。僕は姫の体を夢中でなでさすり、舌を這わせる。

「あっ…」
姫が細くて高い声をあげた。語尾の甘さで、気持ち良さに堪えかねて出た声だと分かった。
「姫…」
僕は顔を上げて姫を見た。姫も僕をじっと見る。姫の、陶器のように青白かった頬が上気して、かすかに息をはずませていた。常に冷静な姫らしからぬ表情。心の奥に秘めた情熱を、僕にだけ見せてくれたような気がした。

もっと、悦ばせたい。
「いい?」
姫の履いているデニムパンツのウエストに手をかけ、恐る恐る尋ねる。コクン、と姫が頷くのを待ってから、脱がせにかかった。

◆◆◆

僕らは、空中飛行をしていたらしい。

「空が、青い」
仰向けになった姫が、頭上の窓に広がった、雲ひとつない晴れた空を見て呟く。
「…さっき。あの空を2人で飛んだね」
とろんととろけそうな目で隣で寝転ぶ僕を見て、そう言った。
「飛んだの?」
僕もぼんやりとした頭のまま、尋ねる。
「うん。少なくともそんな気持ちがした」
姫はそう言うと、僕に向かって両手を広げた。
「きて」
僕は弾みをつけて姫に覆い被さった。「きゃあ」と声をあげ、姫が僕をギュッと抱きしめる。
「重いよ」
そう言って、僕の背中をトントン、と優しく叩く。

しばらくして顔をあげると、姫は、柔らかい笑顔をこちらに向けていた。
窓ガラス越しの光が姫の体を包んでいる。うだるような暑さをはらんだ真夏の光は、冷房のきいたこの部屋から眺めると違う世界のように感じた。
ここには灼熱の太陽とは無縁の、僕たちだけの空がある。

「綺麗だな」
僕はそう言うと、ついばむように姫に何度も口づける。姫は、ケラケラと笑いながら僕に応える。自由に飛び回る鳥になった気分だった。

きっと2人で、どこまでもいける。

2019年10月 
あれからもう、10年の月日が経つ。
僕たちは、25歳の秋を迎えていた。

同窓会の出席ハガキを投函した頃から、当時の友人たちからポツポツとメールやLINEが届いていた。部活仲間の○○も来るらしい、怖かったあの先輩も出席だってさ…。
でも、姫からの連絡はなかった。僕からも連絡をしなかった。メールに書く言葉が思いつかなかったのだ。

僕は、姫がきっと出席するだろうと思っていた。姫も同じことを考えているに違いない。
だってこういう機会がなければ、僕たちが再会するチャンスはないのだから。

◆◆◆

同窓会当日。
久しぶりに降り立った横浜駅は、相変わらず工事中だった。幼い頃からの慣れすぎた光景を眺めると、心の奥にしまわれていた記憶のカケラが疼きだす。

同窓会の会場は想像よりも広く、参加者も多かった。なんでも、中学校の創立50周年を記念して開催されたらしい。
立食パーティー形式だから、点在する丸テーブルを中心に人の輪が広がっている。僕も懐かしい顔を幾人か見つけ、輪に入り話しかける。「いつこっちに戻ってきたんだよ!」みんな満面の笑みを浮かべている。LINEの交換が始まる。

姫は、来るだろうか。

同窓会開始から30分以上経った頃。何気なく入り口に目をやった僕は、そのまま体が強ばったように動けなくなった。
サラサラの短い黒髪に細身の体型、落ち着いたブラウンの服に身を包んだ姫が、ゆっくりと会場内を見回していた。あの頃より背が伸びて、大人びた顔つきになっている。けれど、儚げな佇まいは全く変わっていなかった。

「姫」
大きな声は出さなかったけど、姫の耳にはしっかりと届いたらしい。
大きな瞳が僕の姿を捉える。口角がキュッとあがる。

「久しぶりだね」
“姫”こと姫野裕太郎は、屈託のない笑顔を僕に向け、小走りでこちらに駆け寄ってきた。


2.嘘と嫉妬

2019年10月
「やっぱり来たね」
駆け寄った姫に言うと、彼もニッコリと笑って答える。
「やっと会えたな」
無意識の内に、姫の髪の毛に触れていた。彼は、ふふっ、と微笑むと、すっと一歩さがって僕の手を避けてから言う。
「相変わらずだなぁ」
「ん?」
「人の心の奥にスルッと入ってくるところが」

◆◆◆

僕たちは、人気のない丸テーブルを選び、そこでビールの入ったグラスを掲げ、乾杯の仕草をする。
「酒、飲めるの?」
僕の質問に、姫は頷く。
「俺、結構強いよ。ビールも大好きだし。最近は飲んでばっかりだな」
お互いの近況に花が咲く。姫は一浪一留で大学をなんとか卒業し、今春就職したものの、4ヶ月で退職してしまったという。
「今は、ちょっと長めの休暇中かな」
クスクスと笑いながら姫はビールを飲み干す。
中学の頃から変わらない。なんでもそつなくこなしながら、心に別の嵐が吹き荒れてしまい、大学も職場も中途半端に投げ出したのでは、と思う。

姫は、僕が既婚者だと知るや、顔を曇らせた。分かりやすいくらいに。でもすぐに満面の笑みを浮かべて言った。
「おめでとう。じゃあ今、幸せなんだな」

◆◆◆

トイレから出て会場に戻ると、姫が1人の女性と談笑していた。僕が近づくのを待っていたかのように、すらりとした体に鮮やかなブルーのワンピースをまとったその人は、姫に小さく手を振り、少し離れたところにできていた人の輪の中へと駆けていった。
「今の人は?」
姫に聞くと、彼はホッとしたような顔で僕を見て言った。
「河嶋小夜子だよ。覚えてる?」
「…あぁ」
知らず知らずの内に、苦虫をかみつぶしたような表情になっていたらしい。姫は、
「大丈夫?」
と、心配そうに眉をひそめて僕を見る。

周囲に甘い香りが漂っていた。河嶋小夜子の香水だ。むせかえりそうなバニラの芳香に目まいを覚える。女性特有の香りは苦手だ。外に出て新鮮な空気を吸いたい。
なにより、もっと落ち着いた店で姫とゆっくり話したかった。
僕は大分ぬるくなったビールを飲み、喉を潤してから彼に声をかける。

「なあ、ここを抜け出して、2人で飲みに行こう」

◆◆◆

大人になってから初めて来る横浜の繁華街は、勝手が分からなかった。「俺の知っている店に行く?」姫がよく飲むというそこは、座り心地のいいソファータイプの椅子があり、寛げる所だった。
「吸っていい?」
姫が煙草のパッケージを持ち、いたずらっぽい笑顔を向ける。「いいよ」僕が言うと、慣れた手つきで吸い、同窓会会場での話を振った。

「みんな結構参加してたね。でも、女の子は顔が変わっちゃっててよく分からなかった。メイクのせいかな」
「あぁ、確かにな」
本当は、姫にしか眼中になかったから他の人の顔なんてロクに見てなかったけれど、話を合わせておく。
「そういえば河嶋小夜子は変わってなかった。昔から色気があるっていうか、大人っぽかったから」
姫はひとりごとのように呟いた。
「河嶋小夜子の事だけどさ…」
僕が言いよどむと、姫はその場の空気を和ませるかのようにニッコリと笑った。
「言わなくてもいいよ。俺だって忘れたいことたくさんある。言わなければ、なかったことに出来るから」
姫は中学生の時と変わらない、透明感のある目で僕をじっと見る。その美しさは時おり、僕を苦しくさせる。
「いや。なかったことには出来ない。元はといえば、全部僕がいけないんだから」
僕は姫から目をそらし、卓上のカクテルを見つめながら言う。

姫が僕の手を優しく握った。白くて小さくて、少し冷たい指。
誰よりも僕の心を捉えて離さなかった、彼の懐かしい感触。

2009年10月
隣のクラスの河嶋小夜子が僕の教室にやってきたのは、姫が学校を欠席した日の昼休みだった。彼女とは一時期親しくしていたが仲違いをし、今では滅多に話すことがなかった。
「今日、姫は休みなんだね」
河嶋小夜子は僕の前の席の椅子に座り、こちらを見ながら言う。
「あぁ。また無断欠席だな」
このところ、なんとなく元気がないと思ったら、やはり家に引きこもってしまった。学校帰りに会いに行かないと。
そう考えていると、不意に河嶋小夜子が口を開いた。

「あたし、この前姫とキスしたんだ」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。僕はぼんやりと河嶋小夜子の顔を見る。
「どういうこと?」
「姫から何も聞いてないの?」
河嶋小夜子は探るような目つきで僕を見る。
「ああ。いつだよ?」
「えー、1週間くらい前かなぁー」
わざと語尾を伸ばした、人を小馬鹿にしたような口調で彼女が答える。
「なんで?」
思わず語気を強めて言葉を発していた。
「なんでって、好きだから」
挑戦的な目つきで河嶋小夜子が僕を見る。
「姫ってさ、見た目は中性的だけど、ちゃんと“男”なのよね」
ふふっ、と思い出し笑いをしながら話す河嶋小夜子に吐き気を覚えた。
「あいつに何を言った?」
「別になにも。言われたらまずいことでもあるわけ?」
彼女は勝ち誇ったような顔で僕に言う。“女”の部分を最大限に使い、僕の好きな人を誘惑するのがそんなに楽しいのだろうか。

僕は机の足を蹴り、椅子から立ち上がった。河嶋小夜子がビクッと体をこわばらせて僕を見上げる。僕は声を振り絞った。
「姫につきまとうのはやめろよ。なんであいつを巻き込むんだよ」
「…ちょっと、なんで泣いてんのよ」
河嶋小夜子がたじろぐ。
「あんたが泣くと調子狂うじゃない。…泣きたいのはこっちよ」

河嶋小夜子が制服のスカートの裾をひるがえし、足早に教室から立ち去る。僕は一人、教室の真ん中で立ち尽くす。
クラスメイトたちが遠巻きにして僕を見ていたのが分かった。それでも僕は、そこから動けなかった。

◆◆◆

中2の時、僕と河嶋小夜子は1度だけキスをした。

僕は彼女に「好きだ」と言い、彼女は「あたしも」と答えた。でも、あの行為のあと、彼女は僕を避けるようになった。
メールをしても返事が返ってこない。学校で顔を会わせても話しかけてこない。
僕との関係を自然消滅に持ちこもうとしていると思った。
だから、もう近づくのをやめた。

ほとぼりが冷めた頃から、河嶋小夜子は僕にちょっかいをかけるようになった。僕の友達に僕の悪口を言ったり、かと思うとわざと誘惑するような事をしたり。
当時は河嶋小夜子の行動が理解できず、何かをされるたびに心の中で彼女を蔑んだ。

今思えばあの行為の時、もっと彼女の気持ちを考えれば良かったのだ。見た目は大人っぽくても彼女は子どもだった。全然気持ちが追いついていなかったのだろう。

突然求められて戸惑ったのかもしれない。気持ちが落ち着いた頃には、もう僕は彼女から離れていたから、どうすればいいのか分からず、僕に嘘と嫉妬をぶつけるしかなかったのかもしれない。

僕はとにかく、河嶋小夜子を傷つけた。
そして彼女は、姫を傷つけることで僕に報復をした。

◆◆◆

その日の放課後、僕は姫の家に行った。姫の部屋にあるベッドに並んで腰を下ろす。
「大丈夫?風邪でも引いた?」
抱き枕を抱えてちょこんとベッドに座った姫の肩を抱き寄せた。
「ううん、大丈夫」
姫は笑いながら僕の肩に頭をのせる。

授業のノートを渡し、学校であったことをポツポツと話した後、僕は思いきって姫に尋ねた。
「そういえばさ、隣のクラスの河嶋小夜子って知ってる?」
「うん、分かるよ」
「あいつと何かあった?」
聞くと、彼は戸惑うように目を泳がせた。
「…別に」
河嶋小夜子はどこまで姫に言ったのだろうか。本当に彼女と姫はキスをしたのだろうか。僕は不安と嫉妬で、頭が爆発しそうだった。
「怒らないから、あいつとなにがあったか教えて」
「なんでお前に言わなきゃいけないの?」
思いがけず、強い口調で返された。
「なんでって…姫が心配だから。どうせあることないこと言われたんだろ?お前が傷つくようなことを」
「俺のことなら心配しないでよ」
「どうして?」
「だって…俺たち、ただの友達だろ?」
「は?姫、お前なに言ってるの?」
僕は思わず姫を睨む。
「僕のこと、ただの友達だと思ってるわけ?」
「だって」
口答えしようとする姫を遮り、一気に言った。
「河嶋小夜子に言われたからか。僕が姫をもてあそんでいるって。どうせあんたも捨てられるだけだって。さっさと友達に戻れって」
知らず知らずに、以前、彼女の親友に言われた言葉を繰り返していた。

”小夜子の気持ちをもてあそんで楽しい?どうして好き勝手ばかりしてあの子を捨てたの? 最低。あんたなんか人の事を好きになる資格がないよ”

正義感に燃えた眼差しの幼さを思い出し、苛立った。なぜ僕が人を好きになったらいけないんだ。どうして好きな人と一緒にいると責められるんだ。

僕は言い聞かせるように言う。
「僕は姫を本気で好きなんだよ」
「じゃあ聞くけど、どうして俺のことを好きなの?」
「どうしてって…」
僕が言いよどむと、姫は僕をじっと見つめた後、ゆっくりと目を伏せて言う。
「だっておかしいじゃん、こんな関係。普通に考えたら」
「普通ってなんだよ。僕はただ、姫と一緒にいたい。姫を喜ばせたい。2人で笑っていたい。そう思っちゃいけないわけ?僕が姫を好きなのは、そんなにいけないこと?」
僕は一気に言葉を吐き出した。今度こそ自分の気持ちを言わなければ、失ってしまう。

「逆にさ、姫は僕のことをどう思ってるの?」
「…困ってるんだよ」
姫は、消え入りそうな声で呟いた。
「え?」
僕が聞き返すと、姫は声を荒らげて言った。
「困ってんだよ!俺、頭の中がお前のことばっかりになって」
「姫」
「理由なんてないんだ。好きで仕方ないんだ。でもさ、こんなのおかしいじゃん。俺とお前の関係って何なんだって思ってた。お前を好きになっちゃいけないって。だから小夜子の誘いに乗ったんだよ。お前から離れるために」
「…それって」
「だけど無理だった。誰に何を言われても、何をされても結局お前の事ばかり考えてた。…ねぇ、どうしたらいい? このままいったら俺、お前なしじゃいられなくなる」
僕はたまらなくなって、姫のサラサラの髪の毛をクシャっとかき回して言った。
「いいじゃんそれで。恋人として、ずっと僕の隣にいろよ」
そのまま、姫をギュッと抱きしめて、耳元で囁く。
「それじゃ駄目なの?」
「…駄目じゃないよ」
姫が僕の腕の中で、小さく呟いた。

2019年10月 
「あれさ、一世一代の愛の告白だったよな」
僕が言うと、姫は手で口を覆い、クスクスと笑いながら頷く。
「ああ、そうだったね、俺もお前も。あの頃は子どもだったから、みんなで疑心暗鬼になって変な駆け引きしてたけど…俺、あの時だけは素直に自分の気持ちを言えた」
「そうだったな。初めて、僕のことを好きって言った」
姫を見つめながら言うと、彼も僕を見る。
「…俺さ、あんとき、お前の告白を聞いて感動したんだよね」
「そう?」
「うん。今までさ、人にそこまで求められたことがなかったから」
姫はゆるやかな笑みを浮かべて言う。
「すごく嬉しかったんだ」

◆◆◆

嬉しかったのは僕の方だ。あのあと姫は、河嶋小夜子から僕を守ってくれた。河嶋小夜子にされたことを僕に言わず、ただ自分の胸におさめ、いつの間にか河嶋小夜子や彼女の友達と友好な関係を築いていた。

僕が気づいたときには、彼女たちの僕と姫を見る視線が明らかに変化していた。河嶋小夜子は、あれ以来僕にちょっかいをかけてこなくなった。

僕のために動いてくれた彼が、ただ愛しかった。僕も彼の繊細な心を守っていこうと決めた。

◆◆◆

そのことを姫に伝えると、彼はうなずいて言う。
「心が通じ合うって凄いことだよね。…俺はもしかしたら、あの喜びをもう一度見つけたくて、色々な人を求めるのかもな」
「そうなのか?」
「うん。俺、それまで変な常識にとらわれてた。でも、“好き”っていう気持ちが通じ合うだけで幸せだし、相手のために何でも出来るって気づかされた」
カクテルを飲み干し、空になったグラスを見ながら笑う彼は、どこか淋しげだった。僕と別れた後、そういう相手と出会わなかったのだろうか。
「姫、今付き合っている人は?」
「いないよ。俺は好き勝手に生きてるから。お前と違って」
姫はうつむきながら言葉を続ける。
「久し振りに会ったら、もう結婚してるなんてね」
僕は、うかがうように姫の顔を見て、言う。
「…もしかして、僕が迎えに来るのを待ってた?」

◆◆◆

部活や勉強に行き詰まった日。大学生になった頃。成人式。就活で上京した時。就職後。何度も姫に連絡をとろうとした。姫からは連絡しない約束だったけど、僕からしないとは言わなかったから。でもそのたびに、メールを打つ手が止まった。
今さら会って、どうなる? いつまでも中学生のままじゃないんだ。僕の差し出した手を姫が拒んだら、どうする?

自問自答の末、結局連絡せずにいた。あの頃の綺麗な思い出を汚したくない、なんて思ってもいた。

まるで、呪いにかけられたように。

過去の美しさが踏みにじられてもいいから、姫に会って気持ちをぶちまけていたら、2人の止まっていた関係は動いただろうか。15歳のあの頃、姫に告白したように。

◆◆◆

「…自惚れないでよ。俺、結構モテるんだよ?」
姫が煙草をくわえ、ライターで火をつけながら言う。
「分かってる。だから連絡しなかった」
湿っぽい奴だと思われないように、わざと大きな声で返した。
「だよね」
姫も笑って答える。その後、彼の煙草の煙を吐く息がやけに長く感じたのは、多分、僕の気のせいだろう。

3.眠りの森へ

2019年10月  
僕らは店を出て、繁華街をあてどもなく歩いた。
「夜になると、外は冷えるな」
僕が言うと、姫はうなずいた後、何かを思い出したように楽しげに笑った。
「ねぇ、覚えてる?」
「何を?」
「2人で駆け落ちしたじゃん。あの夜のこと」
「あぁ…」
「寒くて、死にそうになったよな」
「うん。あれは忘れられない」
僕の心に楔を打ち込むような出来事だった。当時の心境を姫に聞いてみたかった。
口を開こうとした時。僕の視界に懐かしい場所が現れた。
「このゲーセン、まだあるんだ!」
姫も嬉しそうに答える。
「あぁ。昔よく行ったな。お前はUFOキャッチャーが得意だった」
「うん。ここ入ろうぜ。なんか取ってやるよ」

2009年12月 
関西に引っ越すことを両親から聞かされたのは、12月の始めだった。父が、大阪にある本社に異動になったのだ。
高校入試に間に合うタイミングで辞令が出て良かった。そう喜ぶ両親を前に、僕は何も返せなかった。

年明けから本社勤務の父は年末に引っ越し、僕と母は、僕の中学の卒業式まで横浜で暮らすことになった。
姫と一緒に過ごせるのは、あと3ヶ月もない。

「冬休みは向こうに行くわよ。あっちで塾の冬期講習を受けた方がいいでしょう。高校の見学もできるし」
母の言葉を聞いて、クリスマスと年越しすら、姫と一緒にいれらないのか、と思った。

姫と、クリスマスイブをどこで過ごすか話していた矢先だった。2人の未来が突然消え失せてしまうなんて、あり得なかった。

◆◆◆

引っ越すことを姫に打ち明けたのは、それから1週間後。放課後、彼の家に立ち寄った時だった。

姫は、僕の話をじっと聞いた後、「もう会えないんだね」とポツリと言った。
「同じ高校に行けると思ってたのに」
姫の言葉がズシリと響いた。
「僕はお前に会いに行くよ。バイトして金貯めて、こっちに来るから」
僕は彼の肩をつかんでそう言った。姫は苦笑いをしてうつむき、小さな声で返す。
「果たせそうもない約束は、しない方がいいよ」
「いや、できるって」
「高校に入っても部活をするんでしょう?バイトする時間なんてある?」
「大丈夫だよ」
「俺は、そんな約束をされるよりも」
姫は顔をあげ、僕に抱きついて言う。
「引っ越す日まで、めいいっぱいお前と一緒にいる方がいい」
僕の唇が姫の唇で塞がれ、僕の言葉を呑み込むように舌を絡める。
唇を離すと、彼は僕の目を見て言う。
「そして、会っている間、ずっとお前とこうしていたい」
姫は僕の手を取り、ゆっくりとベッドにいざなう。
「…姫から誘うなんて初めてだな」
姫ははにかむように笑うと、僕が流した涙を猫のように舌で舐めとる。

◆◆◆

「俺らは、なるようになる、のかな」
ベッドに2人で寝転んでいる静かな時間。姫は僕の腕の中でポツリと言った。
「あぁ、なるようにしかならない。元々、姫が言ったんじゃないか」
僕は答えて、彼の髪の毛にそっと口づける。
「そうだったね」姫がくすぐったそうに頭を振って言う。

僕たちは中学を卒業したら、もう会えない。その現実を受け止めて、ただ、目の前の生活を続けるしかない。今感じている彼の温もりを、感触を忘れていくしかないのだ。

でも、最後だけ。ほんの少し、現実に抵抗をしたいと思った。

2010年3月
僕も姫も、希望した高校への合格通知を手に入れた日。僕はずっと言いたかったことを姫に打ち明けた。

「駆け落ちをしよう」
「え?それって…?」
僕の提案に、姫はビックリしたように口ごもる。
「月曜日が卒業式だろ。だから、土日でどこか遠くに行こう。もし帰ってこれなくなっても僕はかまわないけど」
最後の言葉は、小声で言った。姫は頷き、ニッコリと笑って言った。
「夜通し、2人で一緒にいたいな」

僕らは隣の県にある、大きな川が近くを流れる森を目指すことにした。そこに、姫の父方の祖父母が所有していた別荘があるという。
「今はお父さんが受け継いだから、鍵もうちにあるんだ。こっそり拝借してくるから、そこに泊まろう」

友だちの家に泊まってくる。母にそう言って家を出た。
僕らは電車を何回か乗り換えた後、終着駅からバスに乗り込んだ。乗客がいないからか、バスはひんやりとしていた。一番後ろの席に並んで座った。
幅が狭く、くねくねと曲がる道をバスはどんどん進んでいく。所々で霧が立ちこめている。どこか違う世界に連れていかれるような感じがした。

姫は僕の肩にもたれ掛かって寝息をたてている。彼の、規則正しく上下に揺れる胸元をじっと見て思う。

もし僕らが大人だったら、本当に駆け落ちでもして、どこかでひっそりと暮らしたのだろうか。
でも、生活能力のない中学生の今は、そんなことをしても連れ戻されるだけだ。分かりきったことだった。
それでも、2人でどこか遠くに行きたかった。初めての夜を過ごしたかったのだ。

◆◆◆

バスに1時間以上揺られて終点で降りた。そこからさらに数十分歩き、急な坂を下った先に別荘はあった。周囲を大きな木々とうっそうと茂る草木に囲まれたログハウス風の建物で、裏手には川が流れている。

「テラスから川の流れがよく見えるよ」
姫は別荘の窓を開けて、空気を入れ替えながらルームツアーをしてくれる。
「ここには、よく来るの?」
僕が聞くと、彼は首を横に振る。
「最後に来たのは中2の春かな。1人になりたくて、今回みたいに鍵をパクってこっそり泊まった」
「…なんで1人で?なにかあったのか?」
すると、姫は目を泳がせたあとに言った。
「いや…サッカー部を辞めちゃって。時間があったからなんとなくね」
彼が目を泳がせるのは、必ず何かがあった時だ。
何もない場所で孤独と背中合わせで過ごし、何を考えていたのだろうか。
「夜は暗くて怖かっただろうに」
僕が言うと、姫はパッと笑顔になって声をあげた。
「そうだ!その時ね、日の出を見たの。太陽も空も凄く綺麗だったんだ。ねぇ、一晩中起きて、それを見ようよ」

◆◆◆

森の中を探検し、川で遊び、ご飯を食べてお風呂に入る。こっそり買ったビールの味は苦すぎて、「こんなの飲めねー!」と叫びながら交互にあおった。
たくさん喋って、大声で笑った。
楽しい思い出しか残したくなかったから。

「そろそろ、テラスに出ない?」
深夜3時過ぎに姫が言い出し、連れだって外に出る。厚着をして、毛布を被ってもしんしんと冷えた。2人で「さみー!」を連発した。
寒すぎて眠気なんて全く訪れなかった。おかげで、闇夜の黒から徐々に藍色に、そして薄い水色に空が変わっていくさまを見ることができた。あいにくの曇りだったけれど、じんわりと鈍く光る太陽も、見た。

「僕、夜が明けるところを初めて見た。こんなに綺麗な青なんだ」
僕が姫に言うと、彼もニコニコと笑って答える。
「あぁ。朝の誕生に立ち会うって心地いいよな」
「うん。…お前といて、いろんなことを知った」
僕は姫に抱きつき、頬を寄せた。
明け方の冷たい空気の中で、僕らの体温だけが温かい。この広い世界で、僕と姫だけが生きているような、そんな気がした。

◆◆◆

僕たちは寝室に行き、布団に寝転んだ。どちらからともなく腕を絡ませて抱き合う。
僕は姫の耳たぶを甘く噛んだ後、首筋に舌を這わせる。姫が大きく喘ぎながら言う。
「あのさ。お願いがあるんだけど」
「どこを攻めて欲しいの?」
「…ちげーよ。そうじゃなくて」
「なに?」
姫の着ているスウェットと長袖Tシャツを脱がせる。
「もう俺のことは、死んだと思って欲しいんだ」
「なんだそれ」
ゆるく割れた腹筋を舐める。姫はくすぐったそうに体をよじる。
「やめてよ…。いや、つまり、俺のことを忘れて。お前の記憶から消してよ。それがいい」
「姫」
「だって…」
姫が潤んだ目で僕を見る。僕は姫の下着の中に手を入れる。触れるか触れてないか分からないくらいそっと優しく、撫でながら言う。
「姫が死んだら僕も死ぬよ。僕の中から姫の記憶がなくなるなら生きてる意味がないからな」
「どういうこと?っていうか気持ちよすぎて…もっとしてほしい」
「うん」
姫が下着を脱いだので、頭を下げ、ゆっくりと口に含む。
「僕は、もう会えないとしても、一生お前を忘れずにいるから。だから“死んだと思え”なんて言うな」
口に入れながらポツポツと言う。でも、姫の耳にはちゃんと届いたらしい。
「…一生?」
「そうだよ」
姫が僕の下着を降ろし、「足をこっちに向けて」と自分の顔へと導く。姫に攻められると、声を出すのを抑えられない。彼は顔をあげて体を起こし、僕の目を見て、邪気のない顔で笑いながら言う。
「…ねぇ、じゃあさぁ、一緒に死のうよ」
「“一緒にいく”の間違いじゃなくて?」
甘いため息をつきながら僕が問うと、
「それでもいいよ…どうせ似たようなもんだし」
と、姫が答えた。

◆◆◆

僕の腕のなかで、姫がスウスウと健やかな寝息をたてる。
僕は怖かった。姫がいとも簡単に、“一緒に死のう”と言ったことが。
いつからそんなことを考えていたのだろう。ずいぶん前から、心はそのことで埋め尽くされていたのだろうか。

“一緒に死んだ”後、姫は荒い息のまま僕にしがみついた。その腕も、肩も、背中もあまりに細く頼りなくて、なんだかひどく悲しい気持ちになった。

僕たちは一緒に死んだ後、いつか生まれ変わって、再び出会えるのだろうか。
2人で夜明けを迎え、緑あふれるまぶしい蒼空の下で、また抱き合えるのだろうか。

分からない。
コンコンと眠り続ける姫をギュッと抱きしめる。好きだ、大好きだ、とつぶやく。

15歳の僕たちにとって、大切なのは今この瞬間だけなんだ。たとえほんの少し先のことだとしても、“未来”は、来世よりも遠いところにある気がする。

僕たちは眠る。深い森に分け入るように。
手をつないで、2人っきりで。

◆◆◆

夕方近くまで眠ったあと、別荘を後にした。延々と続くように長い道をバスはゆく。僕たちはしっかりと手をつなぎ、一言も話さず、バスに揺られた。

お互いの自宅の最寄り駅に着いたのは夜もかなり更けた頃だった。
どうしても別れがたくて、駅前のファミレスに入る。

向かい合って食事を済ませた後、黙りこくっていた姫が、ようやく口を開いた。
「俺からは、もう連絡しないよ」
そのままテーブルにうつ伏せる。
「だって、声を聞いたら会いたくなる。でも実際は会えないじゃん。そんなの耐えられないよ、きっと。だからもう連絡しない」
ファミレス独特の、煌々と光る照明の下で。顔を伏せたまま、姫は淡々と言葉を重ねた。
「姫」
僕は彼の前髪にそっと触れ、かき分ける。どんな表情をしているか知りたかった。
「触らないで」
姫が右手を伸ばし、僕の手を振り払う。声と肩が震えていて、彼が泣いているのが分かった。

◆◆◆

そのまま、どのくらい時間が経ったろう。
姫は顔をあげると「帰ろう」と言った。

僕たちは手をつないで歩く。考えたら、外で手をつなぐのは初めてだった。
10分足らずで姫の家に着く。

僕らはつないだ手を離せずにいた。しばらく姫の家の前で、向かい合ったまま立ち尽くす。
月明かりに照らされて、姫の顔がよく見えた。長い睫毛も、黒目がちの大きな瞳も、高い鼻も、口角がキュッとあがった唇も。ぼうっとした蒼い光に包まれて、美しく輝いていた。

「さよなら」
突然姫は言って、僕にキスをした。時が止まったように長いキスだった。
その後、彼は身をひるがして玄関のドアを開け、するりと中に入ってしまった。
僕はじっとその姿を目で追っていた。

もう永遠に、彼の心の奥に入ることはできないんだな、と思いながら。

◆◆◆

明日は卒業式だ。
僕は多分、なにかを失うんだ。もやもやした曖昧なものを。それはなんなのか、今は分からない。
でもとにかく、失うんだ。

それを失ったまま、彼のいない日常を過ごしていくんだ。

2019年10月
10年前、一緒に死んだ恋人は、あの頃のようにミュウのぬいぐるみを抱きしめて笑っていた。

久しぶりにやったUFOキャッチャーだったけれど、一発で大きめのミュウを捕らえることができた。
「懐かしいね、ミュウのぬいぐるみ。お前の家にでっかいのがあったよな」
「あぁ。あれ、まだ実家にあるよ」
姫は無邪気な笑顔でミュウを見ている。
「それ、姫にあげるよ」
「ありがとう。でも俺、今日カバン持ってないよ。こいつを手に持って帰んなきゃ」
「ぬいぐるみを持って電車に乗る25歳男子ってシュールだな」
「ちょっと怖いよな。まぁ気にしないけど」

◆◆◆

その後、なんとなく挑戦したパンチングマシーンで、姫は謎のハイスコアを連発した。
「楽しい」とはしゃぐ姫の腕をつかみ、「この細い腕のどこにそんな力があるんだ?」と僕は言う。
「俺、才能あるのかも。ボクシングでも始めようかな」
笑い続ける姫が可愛くて我慢できなかった。つかんでいた腕を強引にこちらに引き寄せる。彼がフラッと揺れる。その細い体を、ぎゅっと強く抱き締めた。
「…やめて」
僕の耳元で彼が小さく呟くと、緩んだ僕の腕をするりと抜け出して言葉を重ねる。
「そういうことしないで。…戻れなくなっちゃうから」
胸が疼く。もう一度、彼の心の奥に分け入りたかった。一瞬、そのためなら何もかも捨てていいと思った。
「ごめん」
僕は誰に謝っているんだろう。

「…あ、占いがある!」
姫が取り繕うかのように、僕の後ろを指差して言った。
「ねぇこれやっていい?。俺の未来の運勢でも占おうぜ」

◆◆◆

「は?わかんねぇよ」「この選択肢以外の回答なんだけど」などとブツブツ言いながら、占い機が出してくる質問に答えた姫は、プリントアウトされた、自分の運勢が書かれた用紙をじっと読んでいる。

「どう?恋愛運は」
僕が尋ねると、「心配ありません。いずれ良縁あり、だって。本当かよ」
と毒づいた。
「姫なら、すぐいい人に巡り会えるよ」
「とてもそうとは思えないなぁ」
「どうして?」
「だって俺…お前が思ってるような人じゃないよ。汚いことも色々やってる。だから幸せなんて、俺にはこなさそう」
姫が自嘲気味に笑う。僕はかまわずに言葉を続ける。
「姫はさ、たとえ汚いことをやってたとしても、心の奥には、自分を犠牲にしても好きな人を守ろうとする純粋さがあるだろ? そんな姫が幸せにならないわけがない」
「…うん」
「僕が保証する。姫には、じきにいい人が現れる。それは運命の出会いといっても過言ではない。その人は、姫の全てを肯定してくれる優しい人だ」
姫は目を大きく見開いてしばらくじっと僕を見つめた後、ゆっくりと笑った。
「そんなことを言われたら、本当に出会える気がしてきた」
「出会えるさ、きっと」

◆◆◆

「そろそろ終電じゃない?」
姫に促されて、ゲームセンターを後にした。あっという間に横浜駅に着く。ここから姫は私鉄に、僕はJRに乗る。
「暗いから気をつけて帰れよ」
「うん。…ねぇ、見て」
姫は、空を指差してニコッと笑った。あどけなささえ残る、邪気のない表情を見るとまた揺らぐ。
「どうした?」
気持ちを抑えて、何気なく聞いた。
「空の色が、藍色から黒へグラデーションになっていて綺麗だよ」

僕はそこに佇み、姫の背中が見えなくなるまで見送った。
鮮やかな若草のような蒼色はとうに消え、空には、闇にのまれかけた藍色が広がっている。そこに向かって歩く彼は、まるで、深い深い森の中に入っていくようだった。

藍色の空に、にじむように光る照明が幾重にも重なって、彼とその周辺を優しく彩っている。
それは僕が、涙をこぼすまいと目の淵ギリギリでこらえているせいでもあった。

◆◆◆

ー今から帰る
横浜駅からJRに乗り込み、カナにLINEをする。すぐに既読がつき、返信がきた。
ー楽しかった?
ーうん、楽しかったよ
-良かったね
笑顔の絵文字つきの返信だった。
続いて、
ーあ、そうだ。駅前のファミマで明日の朝食用のパンを買ってきてね
かわいらしいウサギがお辞儀をするスタンプと一緒にメッセージが届いた。
ー了解
僕はそう返すと、LINEを閉じた。

電車が最寄り駅に着いたら、コンビニに立ち寄って食パンを買う。15歳の時のようなドキドキも、焼けつくような情熱もないけれど、穏やかな愛情に包まれた、いつもの生活を続けるために。

空はもう、見上げない。

◆◆◆

僕の蒼い幻燈はこれでおしまいだ。

帰るんだ、日常の物語へ。


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