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映画『トムボーイ』感想

予告編
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PG-12指定



制作は2011年。日本での公開は一昨年(2021年)の初秋。


随分経ってはおりますが、そんな『トムボーイ』の感想文です。



性の認識


 本作は2011年に制作された映画。白状すると、映画館(新宿シネマカリテ)の上映スケジュール表にタイトルが記載されるまで、本作のことは知らなかった。どうやら日本で劇場公開されるのは今回が初めてらしい。なぜ制作から10年経った今になって劇場公開となったかの理由については知る由は無いものの、なんとなくの想像はつく。去年公開の同監督作の映画『燃ゆる女の肖像』が世界中の様々な映画賞で受賞・ノミネートとなり話題となったことが大きいんじゃないかな。(日本ではあまり話題にならなかった気がするけど)。

そして何より、今、こういう作品を上映することに意味がある。”時代が漸く追いついた” なんて言い方は大仰な気もしますが、うろ覚えながらも、約10年前の日本を思い出した時に、本作はとてもじゃないが話題になるような作品だったとは思えない。

うっかり予告編を目にしちゃったけど、本音を言えば事前情報無しで観たかったなぁ……。とはいえ、本作はネタバレがどうこうとか、あらすじを知っているだの何だので左右される程度の作品ではありません。



 タイトルバックの字を彩る赤色と青色。一昔前のカスタネットも同じような理由で色付けされていたけど、この ”赤色と青色=女の子と男の子” という色の違いによる認識は、元はと言えば社会や大人に刷り込まれただけの偏見みたいなもので、実のところ、その根拠は酷く曖昧。赤色じゃなきゃいけない理由も、青色ではダメな理由も、いまいちピンと来ない。だから、興味のある色を手に取ってみる——本作は、そんな物語。



 主人公のロール/ミカエル(ゾエ・エラン)と、その周りの子供たちは、自分たちの性別を知っている。しかしそれはあくまでも身体的性差。異性への興味や関心が薄かったり、第二次性徴を迎える前の彼らにあるのは、「そういうものだ」という認識だけの性自認。性自認と呼べるかどうかもあやふやな認識。

その幼さ故、ジェンダーやアイデンティティというものが曖昧な齢。それはある種の純粋さで、その純粋な心が、ほんのちょっとの興味本位にスイッチを入れてしまう。



 ある時、台詞も無く突然提示される事実。事前情報無しで観たかったのはこの瞬間のため。知っていたからこそ「そうか、なるほど」ぐらいで流せたけれど、何も知らずに観ていたら「え?!」となっていたこと請け合いだ。

このシーンを境に、登場する子供たち全員の一挙手一投足その全てが意味を持ち出すようにすら感じられるのが不思議です。けれどやはり、ついつい主人公の目線としてシーンを眺めてしまう。


 サッカーをする男子たち。次第に暑くなってきて、シャツを脱ぎ捨て上半身裸で遊び出す……。こんな些細なことですら、社会における男女の違いを意識させられる。

――「けれどそんなこと、別に自分にだって出来る」——

口にこそしないが、まるでそうとでも言わんばかりに、男子特有の行為の一つ一つを見つめては模倣していく主人公。しかしある時、一人の男の子がコートから外れ、原っぱで立ち小便をし出す。こんなもん出来ようが出来まいがどっちでも良い(っていうか本当はやっちゃダメだぞ)けれど、重要なのは「男と女は違う」という身体的性差の現実を突き付けられたこと。

こういったシーンで、何度か主人公がポケットに手を突っ込む描写があったのも良い。例えば立ち小便でも何でも良いけど、自分にはできない行為へのもどかしさを、ポケットに手を突っ込むという男子っぽい行為で埋め合わせているように見えるし、もっと言うと、〈手を隠す〉という動きが、〈本音を隠す〉という意味合いにも見えてくるから、尚効果的に映る気がします。

その他にも、湖で泳いだあとに寒くて震えているのがリザと主人公の二人だけというのも印象的だった。立ち小便のような生殖器の違いではなく、基礎体温が高いとかそういう身体的性差をも描いていたように思います。



 これらの面白いところが、初めは興味本位で動き出したように見える物語なのに、どこか男子たちに対する憧れのようにも見えてしまうところ。たかが子供だけのグループだけど、女子の方が少数派で、数的に男子の方が強いかのように錯覚して見えてくるし、先述した ”上半身裸で遊ぶ”、”立ち小便” などは、どこか男だけに許された自由な部分にも見えてきてしまう。

学校すら描かれない、子供が遊んでいるだけの空間しか映されないにも関わらず、何故か現実社会における、男性のズルさというか、女性の不自由さみたいなものまでをも想起させられる気分。



 キスシーンは……ありゃ一体どっちなんでしょうね。キスの後に主人公が見せた笑みは、男になれた(男として認識してもらった)という喜びの笑みなのか、リザへの好意もしくはリザからの好意に嬉しくなってこぼれた笑みなのか、等々。その辺りを明示しないからこそ、考えさせられる。

こういったことも含め本作には、いつかこの嘘が崩壊してしまうかもしれないという不安感が常に漂っている。しかし観客には、いつかは終わらせるべきなのに、崩壊しない限りは終われないということもわかってしまう。だからこそ、崩壊後のフォローは優しいものであって欲しかった……。

 親が言うような〈正しさ〉だけでは救えない。受け入れるための猶予がなければ、きっと本人は立ち直れないのだ。なんとなく、ここでの母親の存在は、まるで実社会みたいな存在にも見えてくる節があります。正当性を突き付けられるばかりで、救われるわけではない。
だからこそ、その後に改めて顔を合わせるリザの存在がとても大きい。あんなことがあったのに、友達という繋がりをくれた。親(=今、見えている社会)の正しさが全てではないと教えてくれたようなラスト。



 制作されたのは10年ほど前ですが、描かれている内容に古臭さは一切感じません。それは、世の風潮だとかそんなことだけではないんじゃないかな。時代を問わず多くの人が経験していたり、見聞きしてきた、子供だからこその小さな世界、感覚というものが、とても丁寧に描かれていた印象の作品です。セリフだけに頼らず、登場人物たちの目線や間、ちょっとした表情さえも見逃せない映画だったと思います。


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