音楽の花嫁_表紙

【長編小説】音楽の花嫁 8/19

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召集令状の楽譜を読むとこれは『牧神の午後への前奏曲』、つまり午後の方角、南と西の間だろうと見当をつけて歩き始めた。
 棺はもう十分身体に馴染んでいた。というよりもう背中の一部となっていた。自分の背中を外して見られないように、棺の中の自分は見られないということが、背中に染む棺の感触で分かった。
 しばらく歩くと、椅子が沢山並ぶ広場に辿りついた。人が一人立てる程度の小さな壇を囲むように椅子が半円の同心円状に配置されている。何だか見覚えがある、と思ってぼおっと見ていると、どこからかラッパのファンファーレが威勢良く鳴らされ、どこからともなくカーキ色の揃いの服を身につけた男達がやって来てめいめいの椅子に座り、弓に松脂を塗ったり、リードをくわえたり、楽器の準備をし始めた。つまり、これは、オーケストラじゃないか。
 ヒュー! と誰かが口笛を鳴らした。それを聞きつけていくつもの目が私の方を向き、露骨にじろじろ眺め回してくる。
「お嬢ちゃん、生娘かい?」
「度胸あるな!」
「早く俺に抱かれに来いよ!」
 口笛や拍手があちこちから飛んで来る。トロンボーン奏者がスライドを伸ばしてスカートをめくろうとする。背中の棺に小石が当たったような音がコツンとしたので振り向くと、クラリネット奏者がにやにやしながらこっちを見ていた。リードを投げてきたのだった。
 男達に構わず、召集令状と同じ赤い文字で「新兵はこちら」と書いてある看板の方へ進むと、受付の女性が制服姿の私を見てぎょっとした。私は召集令状を見せて
「兵隊になりに来ました」
と言うと
「女性は兵士になれませんよ」
「え?! そうなんですか?!」
 どうしよう。男の子にはあんなに胸を張って出てきてしまったのに。
「あなた、知らないで来たの?」
 敬語を崩した女性は私の召集令状を読み取り、まるで雨に濡れた子犬を憐れむような目つきで私を見ると
「説明します」
と言って私を受付の奥の部屋に促した。中は応接間になっており、ちゃんとした客のようにソファに座らせお茶を出してくれた。棺がつかえるので身体をねじらせて変な格好で座った。
「さっき外でオケを見たでしょ。みんな男性だったでしょう?」
「ああ、まあ……」
 私は露骨に男性的だったオケの人々を思い出した。
「え、ちょっと待って下さい、てことは、あれが軍隊なんですか?」
「そこから話さないといけないの? というかあなた、『お客さん』なのね」
「客?」
「ああ、こっちの話。何にせよ全部話さないとね」
 女性が教えてくれたのはこんなことだった。
 この世界では音楽によって戦争を行っている。こちらの軍はオーケストラである。職人の技術の粋を集めて作られた楽器を、熟練された技巧を身につけた何十人もの団員が、極度の集中力をもって、一度に鳴らす。そうして紡ぎ出された天国のような音楽は本当に人間を天国へさらっていくのだと言う。楽器を扱う兵士は男しかなれない。というのも音楽がもたらす快楽への耐性が女の方が低くすぐ死んでしまうのだと言う。
 そう言えば私は男の子のフルートを聴いてあやうく気を失いかけたことを思い出した。そのことを話すと
「ということは、その男の子はフルートを吹いていたのね?」
「ええ。今そう言ったじゃないですか」
「……この世界では戦場以外で音楽を禁じられているのよ」
「え?!」
「女王がそう決めたの。音楽によって死んだ者や気が違った人があまりに増えたから」
 あの時男の子を叱った母親の剣幕が思い出された。そういうことだったのか、とやっと腑に落ちた。
「でも、女性でも戦争に貢献する方法はあるの」
「何ですか? それをやります。それであの子の兵役が無しになるなら」
 私は身を乗り出した。
「……楽器になることなの」
 女性はなぜか言いにくそうに言った。
「ご覧に入れた方が早いと思う」
 そう言って女性は立ち上がり建物の奥に私を促した。
 幾重にも扉をかいくぐって行くと、最後にまるで金庫のような分厚い扉が立ちはだかった。音漏れを防ぐためのようだが、それでも恐竜の唸り声のようなぼやぼやした低音が漏れてくる。女性が
「技師、入るよ」
と大声で言うと、おう、と声がしてその音が止んだ。

中に入ると妙に温かくて甘い空気が顔をふんわりと包んできた。女子更衣室のような匂いだと思ったのもつかの間、視界を埋め尽くす肌色の群れに圧倒され、息が詰まった。
 まるでビーチで日焼けをする人々のように、ほとんど何も身につけていない女の人が何十人もずらっとベンチに横たわっている。皆手足をだらんと投げ出しており、眠っているのか、目を開けている人も瞳はとろとろとしており時折「ううっ」とか「ああ」とか言って身を捩じらせたりしている。何よりその光景を異様にしているのは、どの人にも首輪が嵌められておりベンチの端に鎖でつながれていることだった。
「これは……」
 まるで精神科の隔離病棟じゃないか。それとも人体を使った秘密の実験だろうか。これが楽器になるということなのだろうか?
 猫がさかったような声を上げて身体を反らした女の人の元に、技師と呼ばれた男の人がビーカーとスポイトらしき実験器具を持って駆け寄った。一滴も洩らすまいとする神経質な手つきで、口元に垂れた涎を採取している。その手つきを見ていると、身体に黒い虫がびっしりと貼りついたような不快感が肌を走った。
「あの人、何してるんですか」
 隣の女性に聞くと、
「あれで松脂を作るの」
「松脂!」
 よく聞き馴染んだ単語が別の世界から出て来たので違和感があった。ヴァイオリンの弓に塗る、飴色の樹脂だ。
「それから、髪は弦楽器の弓に、舌は木管楽器のリードに。全て絞り取った後は腕と脚の筋を弦に張るのよ」
 女の人の淡々とした言葉は私の骨をひとつひとつハンマーで砕くような衝撃を与えた。意識も粉々に散ってしまい、今言われたことの意味を考えようとしても混乱のうちにまとまらない。
 涎を取られている女の人は、頭を切られた魚がまな板でのたうちまわるように勢い良く二三度跳ね、そして静かになった。その隣の女の人は不満があるようにうーと唸りながら技師を睨みつけている。何十人も横たわる人達にもそれが数秒で伝播したかのように、寝返りをうったり首をもたげたりし始める。天変地異を察知した動物の群れのように、私の視界を埋め尽くす肌色の肢体の群が蠢く。
「まっずいなー。そろそろエサを再開しないと。それとも仲間に加わってく?」
 同僚に悪い冗談を言うような口調で技師がそう言うと、女性はきっと技師を睨み、私の手をひいてつかつかと扉の外へ連れ出した。まるで子供を悪い大人から遠ざけようとする母親のようだった。
 扉の外に戻るとひんやりとしており、あの部屋が蒸し風呂のように暑かったことに気付いた。
「なんなんですか、あれ?! あの人たちは、自分の意思でああなったんですか?!」
 私の混乱は訳の分からない怒りに変わっていた。
「自分の意思……そうね。働き手の長男の代わりに、とか、借金に追い立てられて、とか、いろんな理由で来る人がいるけれどこちらから強制して召集した人はいないわ。ただ単に自暴自棄になった人や、快楽を求めに来た人も実際いるし。どっちにしろ自分の意思ね」
 女性の声からは自分の四方にきれいな壁を立てて、扉の向こうから遮断しようとするような潔癖さを感じた。
「快楽……?」
「そう。技師がエサと言っていたのは音楽なの。あの扉の中では一日中オケを鳴らしている。さっき音楽を聴くと女は死ぬと言ったけど、限界まで音楽を聞かせると、厳密には、マルタと呼ばれるあの状態になるの」
 女性があごをしゃくって扉を示した。身のこなしのきれいなこの人がそんな動作をするのは不似合いであり、よほどあの中に横たわる女の人達を蔑んでいるのではないかと思った。
「まあ死んだも同然ね。あの状態では長くは生きられないし。意思も思考も溶かされて、ただ肉の袋として横たわることしかできなくなるの。唯一感じられるのは快楽だけ、だからひたすらそれだけを求めて音楽が無いと生きられない身体になる。スフォルツァンドという、さっき女の人が跳ねたのを見たと思うけれど、快楽の頂点であれが来ると髪も舌も伸びるから技師がそれを採取するのよ」
「楽器になるって言ってませんでしたか?」
「楽器になるのは棺の中身」
 女性は私の背中を一瞥した。
「意思が消えたと同時に棺は背中から剥がれる。分身が金属製であればそれを炉に放り込んでトランペットやホルンを鋳造する。あなたみたいな木製からはオーボエやファゴットやヴァイオリンを削り出すの」
「私、木製なんですか?」
 私が棺を見ようとして自分の背中と追いかけっこすると、
「死ぬまで見れないわよ」
と笑われた。
「どう? 志願って、こういうことなの。私はあなたのようなこんなに若い子が楽器になるのはとても見ていられないけれど……でも技師はあなたを気に入ったようね。若い子ほど良い楽器が出来るから。そして棺はいつ消えてしまうとも限らないから、立場上、私はあなたを是非とも勧誘するべきではあるのだけれど……、でも、結局はあなたの意思なのよ。そこまで人生に絶望していないのなら、まだ現世を楽しんでいて欲しいとも思う」
 女性はそう言った。
 私はまだ、あの中で見た光景の衝撃から逃れられずにいた。何をする権利をも奪われてあそこに横たわるのは、生きながら墓場に埋められるような恐ろしさを感じた、でも「恐ろしい」と感じる意識も無いのだ。ただ快楽だけを感じて音楽を浴びる――そうなってしまいたいと思ったことがいつぞやにあったことを思い出した。
「親御さんにはちゃんと言って来た? もう会えないどころか、骨も返ってこないのだけれど」
 その言葉に私ははっとした。まるで、一歩後ろに落とし穴があるのを教えられたようだった。そう、帰る家など無いのだ。母からも「もう死んだと思う」と宣言されたところだ。むしろこの草原をあてどなく彷徨う方が、よっぽど「意思が無い」ように思われた。
 そう言えば母は「戻って来ても他人だと思うよ」と言っていた。
「あの、戻って来れることもあるんですか?」
「……」
 女の人はしばし黙った。
「それは、とても可能性の低いことだと思って。稀に、ごく稀に、男性以上に音楽に耐える人がいるけれど、それがどういう人だかは分かっていないの」
 その時私が握り締めていた召集令状がぽろりと落ちた。先ほど血のような真っ赤だった紙は今はなぜか桜色に変わっていた。
「この紙……さっきもっと赤かったと思うんだけど」
 紙を拾いながらぽろっと洩らすと、女性が
「あなた、色が分かるの?!」
「え、はい」
 女の人が慌てて「技師! 技師!」と呼び付けながら扉を叩いた。現れた技師は、白衣の上に何十個もポケットがついたベストという不思議な重ね着の中のどこかから視力検査のように色が塗られた板を出して「これは?」「これは?」と聞くので私は「緑」「赤」「黄色」と答えた。
 女性が言う。
「そう言えばさっき、フルートを聴いたと言っていたわね」
「はい。その直後に色が見えるようになりました。でも、だんだん見える色が薄くなっている気がします」
 技師と女性は顔を見合わせる。
「それはね、音楽を聴いたからなんだよ」
 メガネの奥から覗き込むように技師が私を見た。あまりにもレンズが厚いので、その奥に並んだ二つの目は小さく、福笑いのように輪郭と合ってない。近付いた技師からはツンと機械油の匂いがする。
「やっぱりそうなんですか。じゃあ音楽を聴かないと、また元に戻っちゃうんですか」
 技師は頷いた。
「でも、普通なら女は色を見る前に耐えかねてしまうのだけど……」
「そうなんですか」
 あの白い世界に戻るくらいなら、あの、ひどく奥行きも質感も分からない不自由な世界に戻るなら、前に進んだ方がいいと思った。
「私にもう一度音楽を聴かせてみてください」
 きっぱりと私は言った。女の人が何度も、マルタになってしまうかもしれないと念を押したが、技師が強い口調で「この子は生き残る」と言った。私は技師に手を引っ張られて来た道をぐいぐい戻り、オーケストラのいた広場に再びやって来た。オーケストラは準備万端という様子で、私を見るなり皆ヒュー! と声を上げ、拍手の代わりに両足をどたどたと踏み鳴らした。それが楽器で手が塞がっているオーケストラの団員式の拍手なのは知っていたが、まるで部族の祭のようで、生贄に捧げられる気持ちになる。





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