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#80 「勝手にしなさい」

僕はかつて強い「見捨てられ不安」を抱えていたことがある。
最近、自分が依存体質だったことを書いたけれど、裏を返せば見捨てられるのが怖いということでもある。

自分の不安を解消するべく、何が原因だったのか過去を探ることが多い。
原因となる経験は確かにいくつもあった。
いじめ、塾講師からの強い叱責、先輩からの強い圧力……
9歳から13歳の4年間の、苦々しい経験である。

しかし、それよりも前のこと。
幼少期に、母親から言われたことが傷となって残っている。
それがもしかしたら「見捨てられ不安」に繋がっているのかもしれない。

それは、「勝手にしなさい」という言葉である。

「見捨てられ不安」とは

まず「見捨てられ不安」は何かというのを確認しておきたい。

見捨てられ不安とは、分離不安とも呼ばれており、ある人から見捨てられることに対する過剰な不安をいいます。元々はオーストリア・ハンガリー帝国生まれの児童精神科医であるマーガレット・S・マーラーにより1975年に提唱された用語です。

コグラボ様より引用|https://www.awarefy.com/coglabo/post/abandonment_anxiety

この原因は精神疾患などもあるとのことだが、一番に挙がってくるのは母親との絆である愛着形成が不十分であるということだ。

現在、僕と母親の関係性というのは良好である。
幼少の頃も愛情深く育てられていたとは思う。
だが一方で思い浮かんでくるのは、僕から離れていく母の背中と、「勝手にしなさい」の言葉だ。

わがままを言えば突き放された

母の話を聞くと、幼少の頃の僕はあまりわがままを言わない子どもだったのだという。
子である僕から言わせれば、それは半分正解で、半分不正解だ。

わがままを言えば突き放されるから、言わなかっただけである。

上記の記事で、スーパーファミコンを買ってもらえなかった話を書いた。
この話には続きがある。
買ってもらえないことに苛立ち、僕はその場で強く地団駄を踏んだ。
一向に、その場を離れようとしない僕に対して母親は、

「じゃあもう、勝手にしなさい!」

と怒気を露にし、僕に背中を向け歩いていってしまったのである。

親子ではよくある光景かもしれない。
だけど、僕にとってこの経験は、とても強く傷跡として残った。

自分の希望を言えば、突き離されてしまうのか。
自分の思い通りにしたいと思えば、見捨てられるのか。

子どもながらにそう思った結果、僕は親にわがままを言わなくなった。
僕の希望を伝えれば、母親に見捨てられるかもしれない。
もう安心して生きることができなくなるかもしれない。

その不安が、年を経ても心に強く残り、依存体質や見捨てられ不安として昇華してしまったのだろう。
生きづらさの完成である。

言葉は、その人の深い傷になることもある

今現在、見捨てられ不安を抱えているかというとだいぶ克服できた。
一人でも楽しく生きていける自信が多少身に着いたからかもしれない。
そして、僕の記事で一貫して書いていることだが、「好きなこと」に邁進することができているからかもしれない。
もちろん、心の底から信じられる友人の存在もとてもとても大きい。

僕にはパートナーもいないし、子どももいない。
けれど、もし将来できたとしても、絶対に突き放すような言葉は使わないと肝に銘じている。

カッとなって使った言葉が、その人の心に治ることのない傷を作ることだってある。

少なくとも僕にとって「勝手にしなさい」は、深い心の傷である。
母親にはとてもとても感謝しているけれど、その言葉の面については反面教師としている。

何がその人を傷つけるかというのはとても難しい。
けれど、極力人を傷つけない人間として、人生を真っ当したい。

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今日から三日間、「血縁」をテーマに記事を書きたいと思います。
本日の記事のテーマは、「母親」
明日の記事のテーマは、「父親」
明後日の記事のテーマは、「血縁を超える絆」
を予定しております。

親に対し、少々毒づく文章も出てくると思いますがご容赦下さい。
明日もよろしくお願い致します。







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