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不倫を告発された女性と出会ったイエス(ヨハネ 7:53-8:11)

私は今アメリカの神学校のオンラインコースで勉強しています。私の指導教官は女性なのですが、この先生が紹介する参考文献は、その多くが女性の神学者が書いたものです。

今回もこの箇所を学ぶために何冊かの解説書を読みました。そうすると分かったことは、男性の神学者と女性の神学者では、注目するポイントが違うということです。私は一人の男性、日本人、50代の人間として、聖書を読むときに、私自身のレンズを通して、聖書を読むことになります。しかし、そのレンズはいつも不十分で、著者のメッセージのすべてを理解できるわけではありません。そして、今回、私は女性の神学者が書いた解説書から、多くのことを学びました。余談になりますが、しばしば、クリスチャンの中には、「聖書をきちんと読めば」とか「素直に読めば」、自動的に聖書に書かれていることが分かるようになると考える人がいますが、ある言葉を理解し解釈することは、そんなに単純ではありません。

ヨハネの福音書の著者は、「イエスは不倫を告発された女性と出会った」というエピソードを通して、私たちにメッセージを送ります。私たちはこの著者のメッセージを理解しようとします。これが読書というものです。著者は読者に理解してほしいメッセージがあります。福音書では、メッセージはエピソードを通して語られます。読者は、著者のメッセージを推測しなければなりません。聖書では、メッセージというのは、情報を得ることではありません。ストーリーの中に書かれた情報から、読者はメッセージを受け取り、自分の人生に反映させることが求められます。それは、意図的に自分の生き方や考え方を変えることでもあります。それが著者の意図だからです。著者とは、これはヨハネの福音書ですから、イエスの弟子のヨハネだと考えられますが、究極的には神であると言えます。それは、著者のメッセージを受け取り、読者の人生に反映させるということは、読者がイエス・キリストの似姿に変えられるということだからです。

今日の箇所から著者が語っている2つのメッセージをお話ししたいと思います。

①   最初は、イエスは、私たちが憐れみ、慈しみの心を持ち、実行に移すことに招いておられます。

7節を見てみましょう。イエスは言います。
「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」
律法学者とパリサイ人は、ただイエスを告発したいがために、不倫をした女性を人前に引きずり出し、ユダヤ人の律法をたてにして、イエスを罠にはめようとします。そして、イエスが発した言葉は、律法学者とパリサイ人、そして、読者の私たちも戦慄させます。イエスは私たちに最も大切なことを思い出させます。それは、憐れみ、慈しみです。

芸能人が不倫をすると何カ月も週刊誌やテレビが取り上げます。多くの場合、女性の芸能人が叩かれ、それまでの言動が、いかに酷かったかというエピソードが語られます。それは、不倫の是非というよりは、ある女性が、私たちの歪んだ正義感を満たすための人身御供とさせられるということです。
クリスチャンは「不倫」「不貞行為」「性的放縦」を罪だと考えます。私も「不倫」が正しいこととは思いません。もし牧師が不倫をしたとしたら、もはや説教をする資格は失ってしまうでしょう。しかし、ここで起こっていることは、「姦淫の現場」から引きずり出されたという女性を、律法学者とパリサイ人は、いわばイエスを罠にかける道具として扱っているということです。相手の男性はどこに行ったのでしょうか。そして、このように一人の人を非人間化して道具のように扱うことが許されるでしょうか。この女性を目の前にした時に、自分ならどう反応するでしょうか。

LGBTQの方々は、今も人身御供としてヘイトスピーチの対象となっています。LGBTQ理解増進法が可決されると、特にMtFの人々がトイレや公衆浴場でシス女性の安全をおびやかすモンスターのように扱われています。クリスチャンはこういうMtFの人たちにどのように接するでしょうか。もう一度言いますが、このストーリーを通して、イエスは私たちに最も大切なことを思い出させます。それは、憐れみ、慈しみです。このストーリーを通して、神は私たちにチャレンジしています。自分をよく見極め、憐れみ深くなるように招いています。

「憐れみ深くある」とは、「優しい気持ちがある」とか、「思いやりがある」ということを超えたところにある状態です。今日の聖書の個所で、「姦淫の場で捕らえられた女性」に「憐れみ深くある」とは、この女性と同じく、恥辱を受け、人に責められることを受け入れるということでもあります。それは、この女性を守ることにもなるでしょうし、私たちがこれからの人生で、「村島は不倫を罪とは考えていない」というようなことを言われ続ける人生を選ぶことでもあります。イエスは、そのような人生を受け入れ、私たちを招いていらっしゃいます。

②   2つ目は、すべての人を命の喜びに溢れる人生へと招いておられるということです
 
11節にあるイエスの最後の言葉です。
「これからは、決して罪を犯してはなりません。」

私たちは、こう考えます。
「イエスが愛であり、憐れみ深い方だけれども、『罪』をそのままにはしておかない。女性に罪を指摘し、悔い改めに導いている。」
そうかもしれません。しかし、この女性に告げられた「これからは、決して罪を犯してはなりません」というフレーズを、「悪いことしたんやから、自分の罪を認めて、神様にごめんなさいとお詫びしなさい」という意味で理解する必要はありません。この段落で、イエスがこの女性にしたことは断罪ではありません。誤解してはいけないのは、イエスは「『不倫』は罪ではないと言った」ということではありません。イエスは、イエスを罠にはめる道具として利用され、人前に引きずり出され、恥辱を受けている女性に本当に必要なものを与えたということです。

「これからは、決して罪を犯してはなりません」というフレーズは、女性に対し、また律法学者、パリサイ人に、古い生き方を捨て、新しい生き方に入るように招いていることばです。人を利用して、自分の歪んだ正義感を満たす生き方から、神に仕える者として、愛と慈しみに生きる生き方へ招いています。女性が何故不倫をしたのか分かりません。しかし、不倫の中に人生の幸せを探し出すよりは、神を愛し、神に愛され、命の喜びに溢れる人生に溢れる人生に招いておられます。

このライブをご覧の皆さんは、どのような人生に招かれているでしょうか。世界の悪に苦しむ人を目の前にして、その人々とどのように関わればよいでしょうか。聖書的ではないと言って、断罪するでしょうか。知らないふりをするでしょうか。「よくわからない」からと、悪に苦しむ人から目を背けるでしょうか。

キリスト教会は、「姦淫の場で捕らえられた女」にどんな反応をするでしょうか。

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