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王のまなざし


 ひまができたので、多摩動物公園を訪った。めあては園内マップ最北端のオオカミだ。実家で柴犬と暮らしていたこともあり、かねてより会ってみたかった。

 閉園まであと一時間、季節外れの暑気で汗だくになりながら早足で坂をふうふう登る。野面の階段を上がったら、いよいよ看板が見えてきた。

「ガシャガシャガシャガシャ」

 とたん耳ざわりな音がした。看板の矢印の先に洞穴みたいな下り坂が伸びている、その奥からだ。

「ガシャガシャ──」

 き立てられるように順路を抜けたら、やんだ。人気ひとけなく風もない敷地のすみっこで、ぽっかり開いた岩窟のようなおりの鉄格子を挟んで、そんじょそこらの成人男性の座高より大きな立派な体躯が、じっと鎮座おすわりしていた。

「…………」

 これがオオカミか。陸生哺乳類ではヒトの次に世界中に分布しているという、ヒトには敵と見なされ狩られてきた一方で文化の祖と崇められてもきた、各地で古くから「王」を冠され「獣の中の獣」と称される、オオカミか。

 四畳半ほどの個室が2列かける3の計6ある粗末な造りで、カラの右奥を除いて一頭ずつ入っている。それぞれの檻の隅にむき出しの道管から水がちょろちょろ流れ出る音が響くのみ、奥に事務所らしきが見えるも無人で、各室すみずみまで照らす蛍光灯がまぶしい。

 左奥の一頭は地べたにアンモナイトのように丸まっていて、眠っているらしい。まさしく柴犬が眠る格好だ。ほか四頭は立っていたり壁に打ちつけられた寝台に伏せたりして、みなこちらを見ていた。

 目前に鎮座しているのはロキ、となりで佇むのはロミだそう。2列めはロトにロイだったか、左奥で寝ているのと合わせて忘れてしまった。みんな「タイリクオオカミ」なる種で灰をかぶったような毛色だが、だれもが首まわりが病的なまでに毛ぶくれしている。

 ロキのそばに肉塊が落ちている。ロミの足もとにも同じものが転がっていて、ふたりとも口をつけていない。

 ふとロミが動きだした。狭すぎる室内をぐるぐるぐるぐる歩き回っている。地に鼻を擦りつけんばかりに下向いて、さながら柴犬につきものの老年性認知症のような軌道で──

「ロミ」

 思わず名を呼んだ。見向きもされない代わりに、ロキが口を開け分厚い舌を垂らしてハッハッと笑った。唾液がぼとぼと落ちる。瞳孔の開いたような丸い瞳が、獣たちの頂点で睥睨すべき威厳ある目が、まばたきひとつせず見返してくる。

 鳥肌がやまない。なぜか、なんだか、おやつがほしいときの、川べりを散歩したいときの、雷が鳴っているときの、地震が来たときの、ストーヴを点けてほしいときの、息を引き取る間際のときの、柴犬の目を思い出していた。

「ごめんなあ」

 えずくように口をついて出た。太ましい前足を喉に突っこまれ引き出されたような、いがいがしい感覚が腹の底にあった。ぴくりと右耳をはたき閉口したロキは、くっと顎を引いた。

「──め」

 なにか聞こえた気がするや、ロキはするりと立ち上がり、徘徊しつづけるロミの歩調に合わせて、時計まわりに歩きだした。鼻面を地面すれすれに、右、左、と今にもこけそうに弱々しげに──

「ロキ、こっちおいで、ロキ」

 咳き込むように呼びかけたら、方向転換したところで立ち止まった。横ざまの胴体はこの両手を広げたくらい、それが後ろ足を曲げて、ちょっと屈んだ。

 ふわりと空気がゆらいだ瞬間、巨体が宙を舞っていた。反対の壁に打ち付けてある、自らの座位より高い寝台に、飛び乗ったのである。音ひとつ塵ひとつ立てない、見事な跳躍だった。

「ガシャガシャガシャガシャ」

 2列目にいるロトだかロイが、鋼鉄の扉を引っ掻きだした。後ろ足で立ち、前足で交互に建てつけの悪いかんぬきを揺らしている。出かけるとき庭から門扉をひっかく格好、台所でつまみ食いをしているとき窓をひっかく格好、涼しい納戸のふすまをひっかく格好、「開けろ」という意思──

「ガシャガシャガシャガシャ」

 2列目のもう片方は、床に落ちている黒ずんだ固形物に鼻を寄せている。あれはウンチだ。イヌ属の糞を毎日つかんでいた手には遠目にもわかる。奥の長老は寝相ひとつとっていない。ロミは依然ぐるぐる室を徘徊している。すぐそこに、岩場のような寝台から見下ろしてくるまなざしがある。

「偽善者め」

 確かにそう言っていた。

「また来るから、ちゃんとメシ食べな。な」

 音割れした「蛍の光」がどこからか流れてきて、言いたいことは山ほどあったのに、それしか言えなかった。するとロキはハッハッハッとふたたびニンマリ笑った。

「…………」

 もう何も聞こえなかった。

「ガシャガシャガシャガシャ」

 一歩一歩と後じさるたび、ひっかくペースが早くなる。毛並み悪しき巨体がのそのそ歩き回っている。ひとりはそろそろ食糞にかかりそうだ。昼寝は、本当に眠っているのかわからない。刺さりつづけるまなざしが、それらすべてを「背負え」と言っているようだった。




私は肉と水をそばに置いたが、王は見向きもしなかった。

シートン


表紙は本書から借用した
誤字脱字は目立つが良書







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