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アメリカン・イデオロギーの教科書

 言わずと知れた『シートン動物記』の一編で、北米カランパ渓谷に棲むオオカミの首領「ロボ」の生き様を描いた感動作、という美辞麗句を取っ払ってみれば、なんのことはないただのプロパガンダである。

 作者アーネスト・シートンはイギリス出身で、動物に関する専門教育を受けていない、王立協会ロイヤルアカデミー(ものすごい権威)の奨学金を得たほど有望な画学生だった。本人も「アーティスト」と自称していた。

1860-1946

 成人してから父親との仲違いにより渡米し、野生動物の観察記録をつけだした。それをまとめたのが『動物記』である。わが国でも小学中学図書室にしこたま所蔵され、中でもこの「狼王ロボ」は全国学校図書館協議会という図書室の親玉みたいなところに勅許状を貰ってもいる。

 「動物対人間」とか「気高く」とか、いかにも現代日本の教育業界が好みそうな文句が並んでいるが、いかにも現代日本の教育業界らしく浅い。

原作挿絵

 舞台はオオカミに牧畜や酪農を脅かされている19世紀末アメリカの一地方である。賢く勇敢な「ロボ」に率いられた群れは毒薬や罠にかかることなく住民は手をこまねくばかり、高額の賞金を賭けて名うてのハンター集めるも捕えることはできず、当初シートンもまったく歯が立たない。

 試行錯誤の末、ロボの伴侶である美しい白毛のブランカラテン語で「白」を罠にかける。身動きの取れなくなったその首にいくつも投げ縄をかけ、それらをくくりつけた馬たちを走らせ、八つ裂きのようにくびらせる。

 ロボが仇討ちにやってくるだろうと見越して、シートンは罠をばらまく。ついでにブランカの足を切り落とし、それで付近に足跡をつけておく。

 案の定ロボを生け捕りにしたシートン、そのまま殺しかけて「素晴らしい毛皮を傷つけたくない」と思い直し、捕虜にする。ロボは一度だけ遠吠えしたきり水も食べ物も口にせず、そのまま息絶える。

 死んだロボの首から鎖を外し、納屋に隠していたブランカの死骸と並べて寝かせたら、手伝いのカウボーイが一言、

「ほら、奥さんのために来たんだろ。またいっしょになれたな」

gutenberg.orgから拙訳

 これにておしまい。クソだ。

 魂の闘い? 縄張りの中で生きているだけのオオカミが、後からやってきたホモ・サピエンスの都合に合わないから殺された。オオカミの方は人間に決して手を出していないのに。それのどこが魂の闘いなのだろう。

 ロボのように生きられたなら? 妻を殺されその死体まで利用され、わが子や仲間と引き離されて最期は孤独に餓死させられる、ロボのように?

 愛の物語? その愛を奪った側がどの口で言うか。死体を並べてあげたから? 吐き気を催すグロテスクでしかない。

 ご都合主義の美化にまみれた物語から一歩引いて見てみれば、それがただの虐殺であることは火を見るよりも明らかだろう。

 人間社会の産物でしかない「law」で野生動物を裁く、これこそ独善と言わずしてなんと言おう。「ならず者アウトロー」って、いやいやそれが「野生」ということでしょうよ、なにイキってんのトンシーさん。

第二次セミノール戦争

 アメリカという国は、ヨーロッパにルーツを持つ人種WASPが先住民のネイティヴ・アメリカン(アジア人と同じルーツ)を蹂躙して成り立った国だ。

 先祖代々の地で穏やかに暮らす人々を迫害し、掠奪し、虐殺することを「フロンティア・スピリット開拓精神」と名付けて英雄視してきた国である。それは大衆映画ハリウッドにも一目瞭然だろう、彼らはいつだって正しく美しいのだ。

 そんなアメリカン・イデオロギーが『狼王ロボ』には透けている。こちとら「全米が泣いた」なんて妄言に惑わされるほどウブじゃないぜ。

 清川あさみさんのグラフィックは、同じ版元の『銀河鉄道の夜』や『グスコーブドリの伝記』に劣らず素敵である。その美しいわざは、こんな拙劣あからさまな感傷のオブラートで包んだアメリカニズムのプロパガンダに使われるべきではない。

 無知と無感と無能は、これを日本人の子供の必読書に掲げつづけて臆面もない教育業界だけでじゅうぶんだ。この程度の欺瞞に何十年も気づけないこの国の教育に、未来などあるはずはない。

 洋の東西トンシー人間中心主義アンスロポセントリズムに虐げられる物語、人一倍多感で無知だった幼いころ読まなくて本当によかった。




『狼王ロボ』 金原瑞人・新良太・清川あさみ リトルモア、2015年。






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