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古代の潮騒

恋愛や同性愛について、文学者はいつも認められないもの、人から嫌がられるものとか嫌悪されるものとか、除け者にされるものの中に純粋さを見つけ出して、そこに人間の本当の姿ってのを探す。
愛の形は公認されちゃうと純粋でなくなる。
社会と愛は対立する形のときに美しいんでね。
(三島由紀夫のインタビューより)

潮騒は、社会(舞台である歌島【現在の神島】)の中で地域・親・家族からつつまれたうつくしい愛があるかどうか。若くて健康な漁師の新治と初江の恋愛が、歌島の人々に認められた中で公明正大な恋愛として成就するかどうかが描かれています。
三島の小説は、断崖絶壁につれていかれたような気分を味わうことが多かったですが、『豊饒の海 - 春の雪』のような社会から弾き出されたような話が多いですが、潮騒は例外的です。潮騒はふたりが結ばれることを願い、歌島の人たちと家族が協力して新治と初江をつつみ込んでいきます。

潮騒の元となるおはなしは古代ギリシャの「ダフニスとクロエ」という恋愛物語で、構想のきっかけとなるギリシャを訪れた三島は、その後ギリシャ熱が高かったそうで、ギリシャと潮騒の舞台を重ねて見ていたそうです。
現実にはありえないような古代の素朴な人情があり青空の美しい島を。

"「潮騒」を書くに当つて、その藍本(らんぽん)は「ダフニスとクロエ」であるから、私は文明から隔絶した人情の素朴な美しい小島を探してゐた。(中略)
やはり私は、気候の温暖な、そして歌枕に富んだ地方を選びたかつた。
(中略)
当時は、前年ギリシアを訪れたためもあつて、私のギリシア熱の絶頂に達した時期であつた。何を見ても、ギリシアの幻影と二重映しに見えたのである。
(中略)
神島の風景は、一本一本の松、人のゐない浜、断崖、小さな入江、そのどれにも、無名のつつましい美しさがこもつてゐて、誰か別の人間の余計な解釈が垢をつけてゐないのだつた。(「『潮騒』のこと」《婦人公論》 昭31・9)"
『三島由紀夫全集 第四巻』(2001年 新潮社)p.662

潮騒を書くため神島を調査した三島は、川端康成宛の手紙でこう書いています。

"昭和二十八年三月十日付
(略)人口千二、三百、戸数二百戸、映画館もパチンコ屋も、呑屋も、喫茶店も、すべて「よごれた」ものは何もありません。この僕まで忽ち浄化されて、毎朝六時半に起きてゐる始末です。ここには本当の人間の生活がありさうです。たとへ一週間でも、本当の人間の生活をまねして暮らすのは、快適でした。(中略)
明朝ここを発つて、三重賢島の志摩観光ホテルへまゐります。そこで僕はまた、乙りきにすまして、フォークとナイフで、ごはんをたべるだらうと想像すると、自分で自分にゲッソリします。(略)"
『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』(1997年 新潮社)p.74

神島は潮騒の舞台として理想的な島だったのではないでしょうか。
作中、台風に襲われる船で困難を切り抜けるときの新治の生と死の場面や、ラストの新治と初江の心情の一文は、純愛ものだけで終わらせない三島由紀夫らしさを感じます。
更に、発売当時の旧仮名遣いで読むと余計に味わい深く感じます。
(そして、潮騒を読んだ人なら分かってくれるはず。海女同士が、ある場面で「あるもの」を比べ合いする時のあの牧歌的な美しさを!)

台風に襲われる船のシーンや歌島の自然の臨場感は、文字だけなのに、まるで映画館で映画を見ているような感覚でした。過去何度も実写映画化(吉永小百合主演の1964年版など)されていますが、今こそ私的にはスタジオジブリの絵柄と雰囲気でアニメ映画を作ってほしい。
(二八歳でこの文章を書けるのはすげーや。)

初めて三島の小説を読むなら、入りやすい『潮騒』がおすすめですが、美しく牧歌的な潮騒から三島の世界に入ってしまうと、他の作品と比べてかけ離れいる印象を抱くかもしれません。
本来、三島の小説は、知らず知らずのうちに断崖絶壁に連れて行かれて置き去りにされる文学だと思っています。

……神島に滞在して潮騒を読んでみたい、一生に一度でもよいから、ギリシアのレスボス島に滞在して、エーゲ海を見ながら潮騒を読みたうございます。

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