大根を切る話
「大根を半分に切った絵を描いてください。」
これは私が授業のなかでもよく使うネタ。
情報としてはこれだけしか伝えないので、ほとんどの生徒は困惑した顔を見せる。
この記事を読んでいる人は、いったいどんな絵を思い浮かべるだろう。
正解はないが、そもそも答えがたくさんある。ざっと思いつくパターンを描くと、こんな感じ。
どれが自分の想像したものと近かっただろう?
もしかしたらこの中にはないものを想像した人もいるかもしれない。
これは私が学生の時ゼミの先生から教えてもらったもの。どこかの美大の入試で、ちょっと変わった人を探すため(?)の入試に使われたらしい(うろ覚え)。ちなみに私は⑨だった。
しつこいようだが、大根の絵には正解がない。そして、伝えることを目的としているものではない。
大根を切る向きでそもそも想像しているものが違ってくるだろうし、切った後の大根をどこから捉えたかによっても、また違ってくるだろう。大根の葉は長いままなのか切ってあるのか、とか。
そもそも鉛筆で描くのかペンで書くのか、色を塗るのか、なども。
でも、伝えることを目的とするならば、つまり自分の想像と全く同じものを相手にも想像してもらうには、
「大根を半分に切った絵を描いてください。」
だけでは情報が足りないことは明らかだ。
私はふだん、作文添削指導をしているのだが、なかには「わかりやすく伝える」ことを苦手としている生徒もいる。
もちろん様々な要因がある。その中でも「これは当たり前のことだから、わざわざ書かなくても大丈夫」と思い込み、情報が不足しているケースが多くある。
でもその「当たり前」の認識に書き手と読み手との間でズレがあれば、そもそもその説明は破綻してしまう。
子どもだけでなくおとなも、相手が自分と同じ認識でいる前提で会話をしていくと、話が噛み合わないことがあるだろう。自分と相手は違う人間だとわかっていても、同じ前提の上で理解してくれることを期待する節がある。
何かを伝えるときには、どんな方法であれ丁寧さが必要なのだ。
作文は自分の思いや考えを文章にして伝えるものだが、「作文が苦手」という子の多くは、作文を書くことに自信がない。
それは裏を返すと、「正解に近づきたい」という気持ちのあらわれだ。
生徒に「大根を半分に切った絵を描いてください。」と問いかけて困惑した表情になるのは、「正解を描きたい」「間違っていたらと思うと不安」という気持ちが少なからず頭をよぎるからではないか。作文と同じように。
でも、大根の絵も作文も、決まった正解はない。
作文には書き方の決まりがあるけれど、それは答えではない。
伝え方にもスタンダードはあるけれど、正解はない。