映画「アメリカン・ビューティ」をもう一度澄んだ気持ちで観たかった。
第72回アカデミー賞作品賞受賞。
この作品は私にとってオールタイムベストテンに入る思い入れがある作品であるが、非道なセクハラの一件で完全に業界から干されたケビン・スペイシーが主演であり、本作の役柄としても彼への嫌悪感で作品本来の価値が著しく損なわれた作品です。
彼が行ってきたことは権力を濫用した恥ずべき所業でその一番の被害者は彼に損なわれてきた方々に間違いないですし、今も苦しんでいるかと思いますので1日も早く安息の日々を送られることを改めてお祈り申し上げます。
この作品はある意味その象徴のようで、今改めて語るには不適切な映画かもしれません。
ただし、この作品をオリジナルで生み出したサムメンデス監督もまた大きな被害者の1人。作品は自分の分身ですから。
私もこの作品は大好きだからこそ、正直今はこの作品を観ることができません。あと10年観ないかもしれません。
でも、この作品の本質はかなり深く、今の世の中と深く通底しています。それを表現したサム・メンデス監督の才能は突出していると思っています。
そして今年の初頭、新たに彼の代表作がアカデミー作品賞にノミネートされた「1917」を携えて戻ってきました。受賞は大好きな「パラサイト 半地下の家族」でポンジュノ監督がアジア人初のアカデミー賞作品受賞で大いに感動しましたが、ある意味「アメリカンビューティ」はサムメンデス流のパラサイトのような作品です。
今作は英国人のサム・メンデス監督が冷徹にハリウッドとアメリカ社会に叩きつけた挑戦状であり、映画作家としての源泉であるので、、いつかまた真っさらな気持ちで観られることに願いを込めて、、
ではシネマエッセイをお届けします。
この作品はアメリカ社会を皮肉ったブラックコメディと見せつつ、深いテーマを内包した傑作だと私は思っている。
公開当時、この作品を観た時はこんなに完璧な映画を観たのはいつぶりかと衝撃を受けた。
「卒業」や「サンセット大通り」を思い起こしたが、冒頭の独白から最後の場面まで考え尽された構成と細部に宿る美しさで表現されている。
この作品はアメリカを外側から眺めたイギリスの劇作家のサム・メンデス(奥さんはケイト・ウィンスレット)だからこそ、ここまで冷徹に描くことができたと私は思う。
アメリカン・ビューティ。妻のアネット・ベニングが庭で栽培する米国産の赤いバラの品種と「アメリカの美」を掛け合わせている見事なタイトル。
そしてこの作品は、自身の人生にとってのビューティ(美)とは何だろうか、という普遍的な問いかけを宿している。
そのテーマの深遠さをあますことなく描き切った天才劇作家サム・メンデスの脚本と美のモーメントを映し出す映像美と心揺さぶり引き込まれる音楽で唯一無二の世界観を創り上げている。
アカデミー賞作品賞も納得の非常に完成度の高い映画だと思う。
私たちがこの日常を生きていく中で人は皆、自分の中のビューティ(美)を探している。
この作品で印象的なのは、乾いた寒風の中、ふわふわと風に揺られて、まるでダンスをしているような空のビニール袋。
そこに人生の美を見出す瞬間だ。
そんな美の瞬間は、日常の中でふとした瞬間に私たちの前にも表れる瞬間だ。
広告会社に勤めるケヴィン・スペイシー。不動産業を営む妻のアネット・ベニング。その娘、娘の友人の美少女、近所の退役軍人、その息子、、
皆、心の真ん中に空虚感を抱えてその空虚を埋めようと必死にあがいている。でもあがけばあがく程にまるで砂地獄のように陥っていく。それが20世紀には通用したアメリカンビューティの終焉ともいえる中流階級家庭のある一つの真実の姿を現していると思う。
その点、サム・メンデスが後に撮るレオ&奥さんコンビの「レボリューショナリー・ロード」のテーマにも連なっている。
主人公のケビン・スペイシーもまたサラリーマンとしての鬱屈や妻の冷たい目線で縮こまりながら生きているが、ある美少女との出逢いから自分の観念と常識のタガを外していき自分の中のビューティに突き進んでいく。
そして、結果、事件は起こる。
娘の友達の美少女の気を引こうとマリファナをしながら筋トレに励む滑稽な姿は傍から見れば、少女にとりつかれた愚かな気持ち悪い親父、以上。であろう。
ただ私には、彼を気持ち悪い親父と断罪して突き放すことができなかった。
自身を解放して、欲望に突き進んで、普段まとわりついて離れない常識も、観念も、虚飾も、そして、当初求めていた欲望さえも全てを超えて、削ぎ落されて、真実に辿りつく。
そのプロセスは人を問わず、人生を通して、生まれてから死ぬまでに避けることのできない共通のプロセスなのではないか。
彼が彼自身を発掘するために、彼が彼自身の人生を生きるためにどうしても必要な彼なりの美の探求の旅路だったのだろう。この男を完璧に演じ切ったケビン・スペイシーは絶品というしかない。
妻のキャロリンを演じたアネット・ベニングも素晴らしい。夫との愛は冷め切り、上昇志向と自己啓発にとりつかれ、不動産で成功した男と不倫する。
彼女がクライマックス、車で「私は犠牲者にならない、犠牲者にならない」と何度も呟く鬼気迫るシーンも見事。
見苦しさと痛々しさをさらけ出して演じているが彼女もまたこの現代を生きる以上、避けて通れない虚飾と成功の圧迫感にあえぐ姿を誇張して見せてくれる。
私たちの心にも社会で生きる中でそんな目に見えないプレッシャーを心の中にどこかに抱いているはずだ。
娘ジェーンのソーラ・バーチも両親を軽蔑しつつも自分の望むものが分からず、豊胸手術を受けようか悩み、不安なまま必死に生きている。
そして、レスターが惚れる美少女役のミーナ・スバーリも(アメリカン・パイにも出てる)彼の妄想とアメリカンビューティの象徴としての彼女として、強がり粋がりつつも繊細な少女の両方の顔を鮮烈に演じてきっている。
彼女が薔薇に囲まれてレスターの中に表れる妄想はこの作品の象徴であり、こうした外見の美の至上主義は現在のInstagram社会に至るまで誰の観念にもべったり張り付いて、皆、脱却することはできない。
また、人間の弱さを嫌う退役軍人の父親のクリス・クーパーの鬱屈さと高圧感も凄いが、その息子を演じたウェス・ベントレーが何よりも素晴らしい。
父親に従うふりして、麻薬を売りさばくしたたかさと共に宙に漂うビニール袋のような無機質な美に心静かにフォーカスし自分の美意識で生きている少年を見事に演じている。
そんな彼に「俺の師匠」と心酔するケビン・スペイシーも笑えるが、それが笑えない悲劇の引き金になっていく。
この映画が心揺さぶられるのは
みんな幸せになろうと自分の美を見出そうと必死だからだ。
もちろん、笑ったり、バカにしたり、気持ち悪いと突き放すことはできる。
でも、ここに出てくる登場人物のどこかに自分を重ねることはできないだろうか。
自分にとって‘本当に美しいもの’ って何だろうか。
それは、生まれてから死ぬまでの、永遠のテーマ。
自分がこの生き方が美しいと思えば、その生き方をすればいい。
自分がこれが美しいと思えば、それを思い切り愛せればいい。
でもこの虚飾と欲望と人目の乱反射の中で、そんな自分の中の美しさを見出し、貫くことは簡単なことではない。
何かを捨てないと、何かを超えないと、普段心に抱え込んでいる思い込みや、常識や、観念や、評価や、人目や、外的な刺激に振り回される欲望を超えていかないと、その姿は見えてはこない。
だからこそ彼らの必死にあがいてあがいて、醜悪な姿を見せ切っている姿に胸を打つ。
自分だけが感じている美を追い求める姿に私は決して蔑むことも、ただ笑うこともできない。
むしろ何度か見ているうちに、泣きたくなる瞬間がたくさんあった。
映画の最後の最後で彼は人生の真実と美にようやくたどり着く彼の表情と姿、、それは脳裏に焼き付いて、永遠に離れないだろう。
この映画は舞台劇と映画的ダイナミズムと人生の深淵に迫るテーマを完璧に融合させた傑作だと、私は思う。
私にとってのビューティ(美しさ)は何なのだろう。
そう思ってこの映画を観始めると全く違うものが見えてくる。
そんな不思議な力が宿る映画だ。
また澄んだ気持ちでこの映画を観れる日を待ちたい。
世界に愛を届けるシネマエッセイストのクワン Q-Oneです。皆さまにとって、心に火が灯るような、ほっこりするような、ドキドキするような、勇気が出るような、そんな様々な色のシネマエッセイをこれからもお届けします。今年中に出版を目指しています。どうぞ末長くよろしくお願いします✨☺️✨