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茶でもスベる

深夜講義の準備をしていると、

イントロなどで学生に興味を惹かせるような比喩や、退屈しのぎや眠気覚しにというエピソードなど小ネタを要所要所で挟み込んでいるのですが、

リハーサルしてスライドチェックやアニメーション確認など行っているうちに、「これ面白いのかな?」、「リアクションないかもな」などと、ふと不安に駆られたりします。

「かしこまった緊張感をこちら側からときほぐしたい」、でも実は翻って「自分自身をリラックスさせたい」というのが本意なのかもしれません。

とはいえ、演者にとって適度な緊張感は必要ですが、過度な緊張は最大のパフォーマンスには悪影響となります。

『ゾーンに入る』といえば言い過ぎかもしれませんが、演者と聴衆の間に緊張感が立ちはだかっているならば、それは無い方が、そして場に一体感がある方が一方通行のプレゼンテーションとならず、インタラクティブな空間となり得ます。

そうなるならば最高です。

ともあれ、過度な期待は禁物です。

何もお笑いを一席披露するという噺家でも芸人でもないのですから。

だからといってテキストを読み続けるだけの講義はつまんない。

そもそも私自身が1コマ(90分)という途方もなく長い、ともすれば『永遠』とすら感じられる講義時間をフルで起きていられること自体が皆無だったからが故、なるだけ眠気が訪れない講義にしたいと思うのです。

かつての大師匠にあたる教授は「寝るのも礼儀」と仰っていました。

眠くなるということは、演者の話が退屈だからだ。それを相手に伝えるためにも眠くなるのなら眠っていることを伝えることが大切だ。

とうのが理由でした。

さもありなん

です。

私自身、高校生の頃から授業は寝てばかりで、物理の先生には自由落下よろしく鉄の細い棒でコツンと起こされたりしていましたが、失礼を承知で言えば、聴いていて身につく手応えが無かったのです。「今眠っておいて、家で勉強した方がいい」生意気ながらも当時の私はそう思っていました。

でも今でも後悔も反省もありません。事実として眠くなったことが確かなのですから。その自分の感覚まで否定する必要はありません。

やはり授業する側に責任があるといえます。それを棒で叩いて起こすなど言語道断です。むしろ感謝されたいぐらいなのに。

それは話す側になって本当に思います。

「聴いてもらって当然」

「生徒は、学生は、先生の話を聴くべきだ。聴いていて当然だ」

なんて考えは甚だ「おこがましい」のです。

話す側が「話すプロ」だとしたら、相手は「聴くプロ」です。

木戸銭(=授業料)払って朝早くから聴きに来てるんです。

我々は落語でも漫才でもつまらなかったら寝ます。帰ります。チャンネル変えます。もう観ません。

話す側は謙虚でなければなりません。その聴衆から発せられる態度に敏感に対応しなければなりません。

もちろん、自身の芸(=プレゼンテーション)を向上、アップデートしたいならばですが。何度でもいいますが、それを逆上したりするのはあり得ない。

そんな昼下がり、子供が『8時だよ!全員集合』のDVDで1人爆笑しています。

70年代、80年代のコントで笑い転げています。

昭和の笑いを令和の時代の幼児が笑う。

この普遍さに、そして、

ドリフの偉大さとともに、平和と幸せを感じる瞬間でした。

そのコントのなか、ふと気付きました。

当時、志村けんさんと人気を2分していた加藤茶さんは、自身の話すシーンで当時の流行していた歌や番組、コマーシャルなどのパロディなど、ギャグを大量投下して笑いをさらっているのです。

ただそこでは、打率10割ではなく、反応のないネタもあるのです。

つまり加藤茶さんでも『スベっている』のです。

あれだけ綿密に作り込まれていたネタですから、勿論、計算の上でしょうし、生放送という場面であえてスベる覚悟も含めて試していたのかも知れません。

天下のドリフの加藤茶さんと比べるのはそれこそ「おこがましい」のですが、

「加藤茶でもスベる」

これは大いなる希望です。安心です。

胸を張って講義に赴きたい。

そう思って緊張で昂ぶる神経によって、安眠出来ない自分に言い聞かせている私です。

(端々に落語の要素が登場するのは、何度も高座へとも足を運び敬愛し大好きであった小三治師匠への想いもあります。本当に残念でなりません、師匠、ありがとうございました。)


おしまい


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