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坂の上のソウルと、年下の後輩からの10年ぶりの電話

 ソウルは坂の街。1日歩くと足がくたびれる。大の男が4人ソウルを歩いて、1日目の夕方でふたりが悲鳴をあげた。坂道に加え地下鉄の段差。ひざ下がボロボロでもう歩けないというのだ。明洞の北の外れの薬局で湿布を買い、ひとりだけ無事だった自衛隊員の友人は、目ざとくも薬局の娘さんがかわいいと満足気で、かようにぼくたちはてんでばらばらに過ごしていた。

 鍾路に乙支路。ソウルの街の仕組みがわかると歩武にも力がこもる。この加減がわからず3人には悪いことをした。

 坂の街といえばタルトンネ。月の村と訳せばいいだろうか。丘のぎりぎりまで低層住宅が並ぶ貧民街をそう呼んだ。車が通れないような細い路地を汗をかきかきぼくは上り、途中の万屋でサイダーを買った。

 2001年のソウルの夏はゲリラ豪雨の夏として記録されるべきだろう。街に出ると毎日のように必ず雷鳴と共に大雨が降った。雲ひとつない青空に油断して、ちょっと地下鉄に乗って、駅を降りたら天井をひっくり返したような雨。地上の出口で愕然とした。ぼくは当時、学校を終え大学路の小劇場にいるか、わずかに残っていたタルトンネ、金湖洞の辺りを歩いていた。荒木経惟が「小説ソウル」で撮った街も開発が迫っていた。数年後ここも高層マンションが立ち、タルトンネは消えた。

 サイダーを飲み丘の上に立つとはるか向こうに雨雲が見えた。雷がソウルのあちこちに空襲のように落ちていた。一方でこちらは晴れており、冷たいサイダーの泡がのどを潤した。けれど湿気だけはしっかり残っていて、サイダーは汗へとかわり、シャツは濡れた。それが2001年のぼくの夏。ぼくは25歳になろうとしていた。丘の上で、よく来し方行く末についてぼくは考えていた。答えは出なかった。

 数日後、大学路の公園で先輩のインタビューを取った。先輩と言っても、高校を出たばかりの彼女は、まだぼくの妹と同じ年齢だった。その日も雨だった。ぼくたちは喫茶店で何杯もコーヒーを飲みながら雨が止むのを待ち(当時、韓国の喫茶店ではコーヒーがおかわりし放題だった)、数時間の間彼女はアンニュイにたばこを吸い、ぼくは恨めし気に空を見て、何人かの同級生の噂話をした。話は尽き、灰皿に吸い殻は積もった。何だか気まずい時間だったが、青春っていうのはこういう時間を指すのかも知れないなと思った。

  その時まだぼくは、この後5回も平壌に行くとは思っていなかった。行きたかったけれど。ちょっとまだ、平壌に行きたいと日本語で話せるほと、ソウルの空気は柔らかくなかった。

 数時間後ようやく嘘のように空は晴れ、水たまりを陽光が眩しく照らした。彼女のスナップショットを何枚かとり、当時連載していたホームページ用にインタビューを取った。ぼくは帰国の忙しさの中、草稿をまとめたフロッピーディスクと彼女の写真をどこかに失くしてしまう。彼女のことばはうやむやに、ソウルの雨雲のように消えた。

「ゆう氏~」。1週間ほど見知らぬ携帯電話の着歴にリダイヤルすると、若い女性の声が聴こえてきてどきりとした。心当たりはない。たぶん、ない。ぼくのことを名前で呼ぶ若い女性のことなんて。どぎまぎしながら、たずねると大学路の先輩で、そういえば彼女はいつもぼくのことを「ゆう氏~」と甘ったるく呼ぶのだった。女性に慣れていないぼくには、くすぐったかった。からかいが成功した彼女は実に愉快そうで、10年ぶりくらいに話す口ぶりは昔と変わらない。けれどぼくの妹と同じくもうすぐ40代を迎えようとしている彼女は経営者になっていて、いくつかの人生の紆余曲折を経ていた。

 SNSではたまに写真を見るけれど、彼女の姿は20年前の小生意気な?年下の先輩のままだ。

 だが、ソウルからタルトンネが消えたように彼女も変わっている。今もぼくは取り残された様にソウルの丘の上に立っていて、ソウルの街に落ちる稲光を見ている。そんな錯覚を10年ぶりの電話で感じた。

■ 北のHow to その93
 ゲリラ豪雨ということばはまだありませんでしたが、とかく2001年のソウルの夏は雨と雷の連続でした。
 ソウルの街は水回りが弱いので、替えの靴下とスニーカーを乾かすための新聞紙は用意しておきたいところ。平壌では豪雨の経験はありません。

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