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夏八木 秋成
2024年5月26日 01:41
(1)① その名前を見た瞬間、世界は時間を止めてしまった。 同姓同名も考えられたけど、プランナーの由佳ちゃんの言葉がその可能性を0%に変えた。「カメラマンのリスト見てたらさ、なんか新郎さんが彩花のこともしかしたら友達かもって。すごい盛り上がっちゃってあんたに即決だった。知ってる?この人。」 数秒、変な間が空いてから私は「あぁ」と腑抜けた空気を口から漏らした。「…あ、わかったかも。
2024年5月29日 23:04
前回の話はこちら(2)② 打ち合わせまでは二時間ほど時間が空いていたけれど、私はそのまま事務所で待機していた。 自宅までの距離は自転車で十分くらいなので、いつもの私なら一旦帰宅をして仮眠するか、どこかに写真を撮りに行ったりする。 そのせいで大体少し遅刻をしてしまって毎回由佳ちゃんに怒られるのだけど、今日はそんな気分になれず、資料として置いてある過去の式場写真集を茫洋とした目で眺めていた
2024年6月1日 01:50
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(3)③ 控室に入ると、そこには三崎奈津子が座っていた。彼女をひと目見るなり、私は意気消沈選手権優勝が確実となった。 三崎奈津子の前髪は眉毛のすぐ上で揃えられていて、緩くウェーブの掛かった黒いロングヘアは胸を隠すように前に垂らされていた。テーブルに置かれた手には左薬指に小ぶりな婚約指輪がはめられていて、手のひらの半分を隠すくらい長いブラウスの袖のレ
2024年6月28日 19:44
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(4)④ 休日のほとんどは、家の中か公園で過ごすことにしている。 式場カメラマンという仕事が決して嫌いなわけではないけれど、私にもそれなりに撮りたい写真というものがある。 もちろん、写真家として活動を続けている高校時代の写真部の同級生なんかとは違って、私の中に芸術家気質というか、何某かの拘りや譲れないものというものがあるわけではないのだけど、仕事
2024年6月29日 02:09
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(5)⑤ ひと通り三崎奈津子の撮影を終え、私はそのままD2控室へと向かった。 甲本は着替えを終えているだろうか。ついに対面の瞬間が訪れるのかと思うと、私の唇はグロスを塗っているにも関わらず急速に渇いていった。 低めのヒールがコツコツと音を立てて、私の心を更に煽ってくる。まるで自分の脚ではないみたいに、スピードが増していくのを制御できずにいた。「
2024年7月1日 13:23
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(6)①「隣、いいすか?」 完全に声変わりを終えた深めの声が、僕の鼓膜を震わせる。「あ、…っす。」 ほとんど吐息みたいな小さな声なのに、周りの同級生とは違って明らかに高さを保ったままの自分の声が頭蓋骨に響き渡る。 この時点で、もう今日という一日がろくでもないものになることを確信した。 朝のこの一瞬を何度も何度も思い出しては一人赤面して
2024年7月5日 22:23
前回のお話第一話とあらすじ(7)② それからほとんど毎朝、河瀬くんは僕の隣の席に座ってきた。 毎回「隣いいっすか?」と聞いてくるので、その度に僕は首を小さく縦に振った。その包み込むような低音とは対照的な自分の高い声で、朝から自己嫌悪に陥るのはもう御免蒙りたかった。 あれ以来、喧しい彼の友人は僕にちょっかいを出してくることはなく、河瀬くんを見掛けるとしばらく通路を塞いで会話をした後、
2024年7月11日 14:23
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(8)③ スクールバスが高校の駐車場へ到着すると、河瀬くんはすぐに立ち上がってバスを降りてしまった。 僕は『はい』と返信をした後、どうすればいいのか分からなくて、ただスマホの画面を眺め続けていた。ボールの投げ合いと考えれば、次は河瀬くんから何か送ってくるのだろうかと待っていたのだけど、結局何も反応はなく、僕は戸惑いながら最後にバスを降りた。 昇降口
2024年7月16日 09:31
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(9)④ 翌日、いつものように河瀬くんが隣に座ってくると、僕は両手で握りしめていた約束の本を渡した。抑えることのできない腕の震えが恥ずかしくて、改めて自分の気持ち悪さが心底嫌になった。「お、さんきゅ。」 河瀬くんはそのまま何事もなく受け取ると、しばらく表紙を眺めたあと、すぐに本を読み始めた。 盗み見るようにして目線を横にずらすと、すっと背筋を
2024年7月18日 20:58
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(10)⑤ 毎年夏休みになると、僕はとても調子が良かった。 生き抜くことに必死の通学がなくなり、毎日を自室で過ごしていくだけで僕は健やかに生活をすることができた。 もちろん家の中の息苦しさもあるのだけれど、学校生活の荷が下りるからなのか、いつもより少しだけ両親への気持ちも和らいでいた。宿題を早々にやり終えると、大好きな本を何度も読み返したり映画を観
2024年7月23日 02:02
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(11)⑥ 長瀞駅を降りた頃には、すでに13時を回っていた。祭り会場の石畳に行く前に、僕達はとりあえず腹ごしらえをすることにした。 表参道に出てすぐのところに、ライン下りの受付と併設する形で飲食店が建っていたので、特に相談することもなく吸い寄せられるように店内へと入った。「思ったより観光地っぽいな。」「う、うん。」 河瀬くんはうどんとカツ丼
2024年7月23日 21:31
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(12)① いつだって世界は正常で、俺の方が異常だった。 小学生のとき、体育の授業でペアを組んだ女の子が泣いた。 彼女が体育座りから立ち上がり、お尻に付いた砂を払った手でそのまま俺の手を握ろうとしたので、「汚いから洗ってきて」と伝えたら泣いた。 当然のように彼女の友人らは俺を睨みつけ、教師は彼女への謝罪を要求してきた。 何度も繰り返し読んで
2024年7月23日 23:13
前回の話はこちら第一話とあらすじ(13)② ようやく夏の終わりが見え始めた10月の始めごろ、俺は予備校の自習室でいつも会う女子から呼び出され、告白をされた。 付き合ってほしいというのが彼女の希望だったけれど、俺は勉強時間の確保を理由に断った。もちろん勉強は理由の一つではあるものの、既に志望校A判定を出している自分にとって、お付き合いを始めるハードルはそれほど高いものではなかった。
2024年7月23日 23:49
前回のお話はこちら第一話とあらすじ(14)③ 冬季講習期間が近づいてくると、予備校の中は現役生の人数が増えてくる。追い込みの為に自習室も常に満席状態が続く為、俺は授業を終えると早々に帰宅するようになった。 「家の中でも勉強はできるものの、いつもと違う場所でないと集中できない。でもカフェに毎日行くお金はない。どうしたものか」という内容を、夕飯の時にあやちゃんに何気なく話したところ、開店