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【連作短編】だから私は(2)〜密やかに吐く〜②


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(2)②

 打ち合わせまでは二時間ほど時間が空いていたけれど、私はそのまま事務所で待機していた。
 自宅までの距離は自転車で十分くらいなので、いつもの私なら一旦帰宅をして仮眠するか、どこかに写真を撮りに行ったりする。
 そのせいで大体少し遅刻をしてしまって毎回由佳ちゃんに怒られるのだけど、今日はそんな気分になれず、資料として置いてある過去の式場写真集を茫洋とした目で眺めていた。

 結局、私が今できる悪あがきは、空腹を堪えて胃の鳴き声を押し潰しつつ、色付きのリップクリームで多少の血色を足すことだけだった。自覚のある古いメイクで大惨事になるのは勘弁だし、何もしないで彼らと対面する勇気もなかった。
 でももし大惨事を目の当たりにしても、甲本だったら嫌味のないカラッとした笑顔で「おまえそれマジかよぉ」と言ってくれるだろう。

 そんな想像をしていると、左膝だけだった記憶の甲本に表情が付いた。
 抜き過ぎて生えてこなくなったという細い眉毛に、ハードなワックスでパイナップルみたいに段差をつけてツンツンにした赤みの強い茶髪。少し口角が下がり気味に笑うその口元から、成長途中の吸血鬼みたいな八重歯が右側の下唇に少しかぶさる。授業中は前髪が邪魔なのか、二本の派手な色のピンでバツ印をつくって止めていた。
 ヤンキーみたいな見た目なのに、口調はいつも柔らかくて語尾をペタッと伸ばしながら話すものだから、会話の途中でもみんなから「早く喋れよ」「まいてまいてー」と囃し立てられることが多かった。
 そのたびに甲本は「いや静かにみんな聞いてってぇ。最後までぇ。」とのらりくらりと答えていた。結局彼の話を最後のオチまでまともに聞いたことはなかった。

 これから会うというときに、一気に記憶の宝箱のカケラが集まってきて、私は思わずにやけてしまった。
 この数日、左膝だけでこんなにも浮かれているのがわかるくらいだったのに、表情を思い出すことができた今の私は完全に舞い上がっていた。まるであの時の好きだった気持ちまで、柩の蓋を拳で壊して地上に飛び出してきたみたいに蘇っていた。

 それでも、彼の声だけは不鮮明なままだった。話し方の癖まで思い出せるのに、他の男達よりも低かったくらいのことしか思い出せずにいた。
 どれくらいの温もり、耳に届くまでの空間への広がり方、乾き気味なのか艶やかな湿り気を帯びているのか。そういった細かな部分は、思い出せないというよりも、宝箱の中から時間をかけて溶け出していってしまったみたいに、カケラそのものが見当たらないように思えた。
 でも、あと少しでそれも新しく手に入れることができる。今現在の甲本の声を、記憶と混ぜ合わせて新しいカケラとして私の中に入ってくる。
 そのことを考えただけで、私は改めて自身の見た目のまずさを恥じた。この今の私が、甲本の中での最新としてアップデートされてしまうであろうことが悔しくて情けなかった。


 五分前に事務所の扉が開き、由佳ちゃんが入ってきた。

「え、嘘でしょ?もういるじゃん。」
「善処した。」

 えらいえらい、と言いながら私の肩を叩いた仕事モードの由佳ちゃんは、バッチリと化粧を決めていた。それでもつけまつ毛は目尻側にしか付けていないように見えたし、私が大学時代に乗せていたチークよりも随分と色が薄かった。よく見てみると、瞳も大きくはっきりとしている。

「何?すごい見るね、人の顔。」
「いや、それさ、つけまわざわざ切って付けてるの?目尻だけだよね?」
「え、マツエク。」
「何それ?」

 由佳ちゃんの目が更に大きくなって覗き込んできたので、私は思わず上半身を後ろに反ってしまった。

「彩花ってさ、学生時代の写真結構ギャルだったけど、もうメイク興味なし?」
「いや、まぁ。程々に興味はあるけど。ファインダー覗くとき邪魔だから。」
「今つけま付けるよりマツエクの人増えてきてるんだよ。まつ毛エクステ、ね。」
「へぇ、知らない。ねぇ、目は?めっちゃ黒く見えるけど。」
「あぁ、ディファイン使ってるから。…知らない、よね。その感じ。縁取りだけあるカラコン。」
「縁取りだけ。」

 初めて聞く単語に、頭の中の疑問符は増えるばかりだった。五年前まで読んでいたCanCamには、そんな単語達は載っていなかった気がする。

「まぁいいよ、彩花そのままでも元が良いんだから。はい、早く行って。奈津子さん待ってるから。終わったらそのまま中尾さんに声かけてね。」

 まだ色々と由佳ちゃんのメイクに質問をしたかったけれど、私は促されるまま椅子から立ち上がった。事務所を出ようとしたときにやっと由佳ちゃんの言葉を全て理解することができて、はっとして振り返った。

「え、待って。奈津子さん?」
「うん。先週紙見せたじゃん。新婦さんの名前、三崎奈津子さん。」
「覚えてるけど。新郎は…?」
「仕事で欠席。今日は奈津子さんだけだよ。」

 予想外の返事に頭が真っ白になった。甲本不在の打ち合わせの可能性なんて、まるで考えていなかった。18時とはいえ、平日の打ち合わせは仕事の関係で新郎新婦どちらかだけで行う日も頻繁にある。たまに親同伴の人もいたりするのに、私はそんなことすらも頭の中から抜け落ちていた。
 疑うことなく甲本がいるものと思って、左膝のせいで忙しなく一喜一憂してきたこの数日は、一体何の時間だったのだろう。これからまたメイク研究もやっていかないとなんて、勝手に決意を固めた矢先だったというのに。我ながら浮かれポンチにも程がある。

 意気消沈選手権なら最有力候補になるくらい、何から何まで垂れ下がった状態の陰気な顔で、私はそのまま廊下を歩いた。


(3)に続く

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