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【連作短編】だから私は(1)〜密やかに吐く〜①


【あらすじ】

「今日もどこかの誰かが、同じ想いを抱えているはずだ。だから私は、この気持ちを恥じたりはしない。」


〜密やかに吐く〜
ずっと好きだった人・甲本雄大こうもとゆうだいと再会し、封印したはずの気持ちに再び振り回されるカメラマンの彩花あやか

〜ペトリコールかゲオスミンか〜
スクールバスで隣に座る悠太郎ゆうたろうに想いを寄せながら、次第に変わっていく自分の心に戸惑う康太こうた

〜世界のしくみ〜
人を好きになる気持ちが理解できず、「普通」から外れていく自分を恐れる穂鷹ほだか

〜だから私は〜
いけないことだと分かっていても、優しい比呂ひろを繋ぎ止めたい衝動を抑えられなくなった由奈ゆな


それぞれの時代に生まれた、四人の愛の形を綴る連作短編集。




(1)

 その名前を見た瞬間、世界は時間を止めてしまった。
 同姓同名も考えられたけど、プランナーの由佳ちゃんの言葉がその可能性を0%に変えた。

「カメラマンのリスト見てたらさ、なんか新郎さんが彩花のこともしかしたら友達かもって。すごい盛り上がっちゃってあんたに即決だった。知ってる?この人。」

 数秒、変な間が空いてから私は「あぁ」と腑抜けた空気を口から漏らした。

「…あ、わかったかも。あーあー、知ってる知ってる。大学んときの、あれだ。顔の記憶微妙だけど、なんとなく。うん、多分。あれだ、あの人だ。」

 咄嗟に、今唐突に思い出しましたよという演技もしながら、眉間に皺を寄せて彼の名前を凝視した。

「いやその程度?ちょっと可哀想になってきちゃうんだけど。」
「何が?」
「だって甲本さん、あんたのことすごい覚えてるっぽかったよ。よく授業の後にみんなで飲みに行った話とか、色々聞いたもん。」

 そうだったかも、と曖昧に返事をしてから、よく覚えていないといった怪訝な表情を浮かべつつ、彼の隣の名前に目をやった。
 三崎奈津子と書かれたその名前には見覚えはなくて、彼の相手が私の知らない人であることに少し安堵した。

「打ち合わせ一回で大丈夫だよね?」
「あ、うん。来週?」
「水曜の15時。あんたの顔合わせした後、花の打ち合わせもあるから。頼むから遅刻しないでよ?中尾さん絶対時間通りに始まらないと不機嫌になるじゃん、あの人。」

 フローリストの中尾さんは私達よりも4つ歳上で、仕事に於いてとにかく効率の悪いことがお嫌いな人なので、私みたいに普段からふらふらしている女には敵意を剥き出しになさってくる。なるべく同じ現場は避けたいところだけど、仕事が早くて丁寧でいらっしゃる上、花のセンスは抜群に良いから、彼女の取り仕切る式は他の人よりも数が多い。こちらが避けようにも、大体どこにでもいらっしゃるのだ。

「善処しまーす。」
「善処して。」

 由佳ちゃんに軽く背中を叩かれた後、私はまた紙を見た。まだ止まったままの世界を置いてきぼりにするかのように、私の心臓は勢いを増すばかりだった。


 甲本雄大のことを忘れていたのは事実だ。
 でもそれは記憶が薄れていたのではなく、大学を卒業してからのこの五年間で、宝箱から溢れ続ける彼の記憶を無理やり押し込めて堅く蓋を閉じていたからだった。しっかりと鍵も閉めて、その鍵もどこか知らない場所に隠しておいたつもりだったのに、A4の紙に印字されたその名前を一目見ただけで、宝箱は大爆発を起こして私の心を彼一色に満たしていった。
 余りにも膨大な記憶に私の脳の処理能力は追いついていけなかったようで、その日からずっと顔や声までは思い出せず、ただ飲み屋で胡座をかいているときのダメージジーンズから覗く左膝だけが鮮明に蘇っていた。


 打ち合わせの日は、午前中に教会で別の撮影があった。
 このカップルはすでに新婦が妊娠していたので披露宴は無く、親族のみで執り行う静かな式だった。
何度も見つめ合っては微笑み合う新郎新婦の表情を、私も微笑みの仮面を崩さないままファインダーを覗いてシャッターを切る。プロフェッショナルとしての仕事を全うしながらも、頭の中は剥き出しの左膝でいっぱいだった。

「それでは皆さん、今度は両手でハートを作りまーす。お父さん、親指は下に尖らせてー。」

 式を終え、教会の前で集合写真を撮る頃には、新郎新婦も親族も、皆緊張から解放されて少しずつ表情も緩んできていた。
 うまくハートを作れずに新婦の父親がどぎまぎしているのを、恥ずかしそうに母親が肘で小突く。ひと笑い起きた後、新婦がこうだよと手を握りながら教える。
 いつもならこういう何気ない光景も、いちいち胸を震わせて心動かされては、やっぱりこの仕事が好きだなと褌を締め直す気持ちになるはずなのに、今日は乾いた笑いを悟られないように、カメラの本体で顔を隠すので精一杯だった。
 まだ見ぬ三崎奈津子とやらも、式当日は同じようなことを自分の父親にするのだろうか。その隣で優しく微笑む甲本雄大の白いモーニングコート姿なんて、私は全く想像ができない。どこまでも付き纏う薄いブルーのダメージジーンズと、be careful...という謎の英文が全面にプリントされたオフホワイトのTシャツを着ていた五年前の彼の残影しか、私は思い出すことができなかった。


 控室へと帰る新郎新婦に軽く挨拶をしてから、私は急いで事務所へと戻った。
 何も変わらないことは分かっているのに、健康診断前の悪あがきよろしく、何となく昼食を抜きにして私は化粧ポーチを鷲掴みにしてトイレに直行した。
 今では当たり前のように色付きの日焼け止めと眉毛を描くだけで現場に立つ私でも、大学時代はそれなりにメイクを楽しんでいた。昨夜はそんな過去の遺物達を、洗面所の引き出しから無作為にポーチの中に詰め込んできたのだ。
 鏡の中の自分を見てみると、相変わらず甲本の左膝に浮ついた心が私の口元をにやけさせていて、久しぶりの高揚感で額には薄らと汗をかいていた。とりあえずベースを作ってからばっちりアイメイク決めて、リップは直前に塗りたいから打ち合わせの前にもう一度トイレに行こうなどと考えながら、手洗い場でポーチの中身を確認しようとして、私の手は硬直した。
 まともな化粧をしていたのは恐らくこの仕事に就いてからの数ヶ月だけで、およそ四年強、私は眉毛しか描いてきていない。元々、そこまで肌トラブルがあったわけではないので、ベースメイクすら丁寧にやってきていない。
 そんな私が家から持ってきたポーチの中身は、色味も仕様も何となく古いものばかりだった。いつもちゃんとしている由佳ちゃんの顔を思い出しながら、今はこんなボリュームマスカラなんて使っている人はいないのでは?このアイライナーもブラックだけどゴールドラメが入ってるし、これで以前みたいに目の上も下も囲ってる人なんていないのでは?などと頭の中で堂々巡りが始まってしまった。
 そもそも、二十代後半の女の正しいメイク法を私は知らない。学生時代の遺物で、学生時代の技術を使って、学生時代に最先端だったメイクを施しても、今現在の私にフィットするわけがないことは明白だ。メイクのことばかり考えていたけれど、髪型だっていつものひとつ縛りのままだし、式用のブラックスーツに顔だけは完璧(しかも恐らく古め)だなんて、ちぐはぐ過ぎて滑稽だ。世代と時代の正解を今ここで弾き出せる自信はない。

 私は愕然とした気持ちで、ポーチの奥底にあった色付きのリップクリームをいつもより少し丁寧に塗った。


(2)に続く



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