見出し画像

【連作短編】だから私は(10)~ペトリコールかゲオスミンか〜⑤


前回のお話はこちら


第一話とあらすじ





(10)⑤

 毎年夏休みになると、僕はとても調子が良かった。
 生き抜くことに必死の通学がなくなり、毎日を自室で過ごしていくだけで僕は健やかに生活をすることができた。
 もちろん家の中の息苦しさもあるのだけれど、学校生活の荷が下りるからなのか、いつもより少しだけ両親への気持ちも和らいでいた。宿題を早々にやり終えると、大好きな本を何度も読み返したり映画を観たり、たまに図書館に行っては新しい本を借りてきてまた読んだりと、本当に自分のやりたいことだけをやる毎日を過ごしていた。
 小さい頃は父に連れられてキャンプに行ったりもしたけれど、中学に入るころになると僕があまり楽しんでいるように見えなかったのか、父も次第にアウトドアなことには誘ってこなくなった。

「今年、夏休みどっか旅行行こうかぁ?」

 八月に入ると、父は夕食のそうめんをすすりながら提案してきた。

「去年の北海道、せっかくこうちゃん行きたいって言ってたのに腹痛で楽しめなかったもんね。」
「そうそう。結局俺となっちゃんで観光したよねぇ。今年はもう少し近場のほうがいいかなぁ。こうちゃんどっか行きたいところある?」

 二人とも僕の希望を聞いてくれるのだけれど、僕はどこへも行きたくないので毎年答えに困る。去年北海道と答えたのは、母が午後のニュース番組の北海道特集を見ながら「いいなぁ、楽しそう」とつぶやいていたのを聞いたからという、ただそれだけの理由だった。

「え、あ、っと…」
「日帰りで行けるところでもいいよぉ。今からホテル取れないかもだし。ちょっと考えといて。」
「日にち、いつ頃がいい?仕事は?」
「お盆はまぁ休みだけど、それ以外でもどうにかはなるから、合わせられるよぉ。」

 僕が言い澱んでいる間に、両親の会話は続いていく。もちろん二人に悪気はなくて、ただ会話のテンポに乗り切れない僕自身の問題なのだけれど、こういう場面になると何となく疎外感を感じてしまって、「僕が産まれなかった場合の二人の世界」を遠くから眺めているような気分になってしまう。
 またお腹が痛くなってくれれば、僕は家で留守番をすることができるだろうかとぼんやり考えていると、部屋着のポケットに入れていたスマホがぶぶっと震えた。僕は小さくひっと声を出したあと、慌ててスマホの画面を確認した。

『15日空いてる? 長瀞の祭り行かん?』
『「トリドリノヒミツ」に出てきた祭り見たい』

 河瀬くんの声で脳内再生されるその誘いに、僕は思わず唾をごくりと飲み込んだ。夏休みに入ってから連絡が来なくても落ち込まないように、なるべく期待を持たないようにしていたせいもあってか、嬉しさで頭が爆発しそうだった。

「ちょっと食事中。うちはスマホ禁止だよ。こうちゃんがパパみたいになってきた。」
「俺ぇ?最近ちゃんと食う時は見てないじゃん。」
「あ、 あのっ! さぁ!」

 僕の大きな声に二人ともほとんど動じないで、僕が続きを話し始めるのを見つめて待っていた。

「じ、じゅぅ、十五日、は、ぃい行けないっ。で、出かけ、ぇるから。いぃ、行けない。」
「…そっか、おっけぇ。そしたらお盆開けてからにしよっかぁ。」
「そうだね、そのほうが空いてるだろうし。」

 僕が両親に何か意見をすることは、ほとんど初めてだった。そのまま何事もなかったように会話を続けていたけれど、二人とも内心動揺をしているのが何となくわかった。

「どこ行くの? こうちゃん。」
「えっ、と。な、なぁ、なが、とろ。…っと、友達っ!と。」
「え!…そっかぁ、そっかぁ。いいねぇ、よかったねぇ…。」

 驚いた表情でこちらを見つめたあと満面の笑みでそう言うと、父は少しずつ目が赤くなっていった。父の涙は見てはいけないような気がして、すぐに視線を下へと逸らした。琉球ガラスの蕎麦猪口に注がれためんつゆの表面に、だらしなくにやけた表情の僕が映っていた。八重歯がないだけの父そっくりのその顔が、いつも見ている鏡の中の所在無げな自分と同じ人物とは思えなかった。

「長瀞って、秩父の方だよね? 行き方とかよく調べてね。帰りの電車の時間もちゃんと確認して。おこづかい、どれくらいあればいいかな。」
「まぁまだ日にちあるし、大丈夫だよなっちゃん。こうちゃん高校生だもん。お祭りかぁ、いいなぁ。こうちゃんパパ達ともどっかのお祭り行こうよぉ。」
「…ご、ごちそうさま。」

 僕から出てきた友達というワードに、あからさまに浮かれている両親の姿をまともに見れないまま、僕は恥ずかしさで赤くなった顔を隠すようにしてリビングから出ていった。
 階段を駆け上がって自室の扉を閉めたあと、僕は上がった息を整えながら河瀬くんへ返信をした。

『大丈夫です。行けます。』
『行きたいです』


 「トリドリノヒミツ」は、僕が河瀬くんに初めて貸した本だった。
 大学生の歌舞伎研究サークルに所属する先輩の岩橋さんと、後輩の梶くんの間で起こる恋愛話だ。
 その話の中で、サークル仲間達と梶くんの地元である長瀞の船玉祭りに行く様子が描かれていた。ちょうど河瀬くんが「途中でダレた」と言っていた部分だったので、そのお祭りを見たいと言ってきたのは正直意外だった。

 玄関を出る直前まで、母は帰りの連絡や持ち物、河瀬くんによろしく伝えるように等、沢山の心配を口にしていた。その心配性なところを少し鬱陶しく思いながらも、むずむずとした嬉しさも同時に溢れ出ていた。
 自転車で大宮駅に着く頃には汗だくになっていた。約束の時間の三十分前に着いたにも関わらず、待ち合わせ場所にはすでに河瀬くんが立っていた。その姿を見つけるやいなや、僕は待たせてしまっていたことに焦って走り出し、その場で盛大に転倒した。

「まじかよ。ほんと漫画じゃん、おまえ。」

 恥ずかしさで顔を上げられない僕に、河瀬くんは手を伸ばしてくれた。恐る恐るその手を握ると、瞬間、昔父と手を繋いだときの感覚が蘇ってきた。同じ年齢のはずなのに、握力だけで親子くらいの差があることに、僕は益々恥ずかしさで俯くことをやめられなかった。

「切符? Suica?」
「あ、す、すいか。」
「おけ。じゃ、行こ。」

 大宮から長瀞まではおよそ二時間の電車の旅だった。高崎線はどの車両もあまり混んでいない様子だったので、僕らはボックスシートのある車両へと移動し、斜めに向かい合って座った。窓を眺めながら頬杖をついている河瀬くんの横顔をちらりと盗み見て、その切れ長の目に胸をどきどきさせては下を向くというのを何度か繰り返していた。

「あの小説さ、」
「えっ。あ、え。」
「トリドリ。なんかさ、大学生ってほんとにあんな感じなんかなぁ。」
「あ…。う、うん。」
「好きな登場人物、誰?」
「う、う、ん。…だ、誰だろう。」
「いない? 嫌いなのは?」
「…あ、か、か、梶、くん。」

 スクールバスの中とは違って、線路を通過する電車の音が僕らの会話を聞き取りづらくしてくる。周りの生徒の視線も気にしなくていいことも相まって、僕の声はいつもより自然と大きくなっていた。

「え、嫌いなのは即答じゃん。」
「う、うん。あ、あぁんまり、好きでは、な、ない、かな。」
「へぇ。なんで?」
「…ち、父に、似てる、から。」

 岩橋さんが好きになる後輩の梶くんは、誰からも好かれる青年として描かれていた。その人懐こさや、年齢の割に子供っぽい言動なんかが父によく似ていて、文章として書いてあるわけではないのに、その発言の一つ一つが、きっと父と同じ語尾の伸ばし方なのだろうなと勝手に想像していた。

「父親? …へぇ。康太の父さん、あんな感じなん?」
「う、うん。そ、そんな気が、する。」
「ふーん。でもそれならいい父親じゃん? 友達みたいに喋れそうっつーか。」
「…ぼ、僕は、し、しゃ、喋るの、にぃ苦手だ、から。ち、父は、ぁあ明るい、ひ、人で…。」
「それ、嫌?」
「ち、ちょっと、…ぅ、怖い。」

 初めて父に対する気持ちを言葉として出してみると、何だか結局、僕は僕のことしか考えていない自己中心的な人間だということがより明確になったような気がして、こんなことを河瀬くんに打ち明けている自分が嫌になってしまった。

「家族でもそういうの、あるんだな。」
「かぁ河瀬、くんは?」
「だからもう悠太郎でいいって。河瀬くんとか呼ばれんの、先生以外にいねぇからなんか恥ずい。」
「ぁ、ご、ごめん。」
「俺は梶、好きだったなぁ。…すげぇ偶然だけど、俺は梶みたいな人が大人になって、自分の父親だったらよかったのにって思ってた。」
「えっ。…ち、父親。」
「大学生の話なのに。お互い変な読み方してんな。」

 吹き飛んでいく窓の外の風景を眺めながら、ふっと笑う河瀬くんの横顔は、やっぱり自分よりも数段大人びていて、それなのに同じような気持ちを共有できていることに不思議と自分も背伸びをできているような気になっていた。

「お、お父、さんは、どどんな、人?」
「俺んち、父親いないんだわ。」
「あ。そ、そう…なんだ。」
「だから、なんか余計に? まぁいないのが普通だったし、顔も知らないから父親ってどんなもんか全然わかんねぇけど。」

 河瀬くんのことを何も知らないのは当然だと思っていたけれど、こうして個人的なことを聞くことができて、僕の中に小さな欲が芽生え始めていた。もっと河瀬くんの色々を知りたい。どんなに細かいことでもいいから、何でもいいから、全てを知りたいという気持ちの芽が、驚くほど早いスピードで膨らんでいった。
 それは今まで僕が生きてきた中で、出逢ったことのない欲望だった。

「祭り、どんなんかなぁ。」
「…た、楽しみで、今日。す、凄く。た、た、楽しみに、しぃし、てて。」

 馬鹿にされてしまうかもと思いながら、それでも河瀬くんの考えていることを沢山知りたくて、僕は自分の気持ちを思い切って口に出してみた。

「俺も。」

 河瀬くんはこちらに顔を向けて、いつもとは違う笑顔で答えてくれた。
 またひとつ河瀬くんの初めてを知れて、僕はにやつく顔を見られないように下を向いた。


(11)⑥に続く

食費になります。うれぴい。