【連作短編】だから私は(11)~ペトリコールかゲオスミンか~⑥
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第一話とあらすじ
(11)⑥
長瀞駅を降りた頃には、すでに13時を回っていた。祭り会場の石畳に行く前に、僕達はとりあえず腹ごしらえをすることにした。
表参道に出てすぐのところに、ライン下りの受付と併設する形で飲食店が建っていたので、特に相談することもなく吸い寄せられるように店内へと入った。
「思ったより観光地っぽいな。」
「う、うん。」
河瀬くんはうどんとカツ丼を頼んでいた。少食の僕にはその量が信じられなくて、同じ年齢の男子なのにうどんだけ(しかも小)を頼む自分が恥ずかしく思えた。
「それだけで平気?」
「しぃい少食っ、だから…。」
「コスパいいじゃん。」
街中はお祭り一色になっていて、そこかしこに豆絞りを頭に結んだ子供達や、法被を着て団扇を仰ぎながら歩く集団がいた。
出店から香るソースの香りが、先程うどんを食べたばかりの僕の食欲を再び湧かせてくる。
日が暮れるころに灯篭を流すそうなので、それまでの間、僕達は駅周辺を散策することにした。大きく開けた表参道は日除けになるようなものが少なくとても暑かった。それでも、お祭りで気分の高揚している人達の中を一緒に歩いていると、まるで僕のような人間もその一員として認めてもらえたような気になれた。どこからともなく聞こえてくる祭囃子が、より一層僕の心を浮つかせた。
ちらりと隣を見ると、河瀬くんも周りをきょろきょろと見渡しながら、何となく口角が上がっていた。特に出店で何か買おうだとか、どこに行ってみようという会話はなくとも、何となく同じ心持ちでいるような気がして、そんな烏滸がましい考えまでしてしまう自分の非日常性が、気持ちを更に昂らせていく。ここでは誰もが平等で、この猥雑で神聖な空間を構成するひとりとして機能している。河瀬くん以外に僕のことを誰も知らないこの場所で、当たり前のように気配を消すことも、視線や言葉に神経をすり減らすこともしないままで、僕はこの街の中に溶け込めていることが嬉しくて仕方がなかった。
「いいな、祭り。」
「…う、うん。ぃ、いい、ね。」
雑踏の中で交わされる小さな呟きが、僕の耳にじわりと広がっていく。それは賑やかな場所であればある程、自分だけの何か特別な宝物のように思えた。
日が西に傾き始めたので、石畳の方へ向かおうと道を引き返している途中、雲行きが怪しくなり始めた。真っ白だった入道雲の裾野が黒々と色を変え、次第に青空を包み込んでいった。
太陽が完全に隠されると、そのうち、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。それに気付いた次の瞬間には、もう全身を濡らすくらいの量が空から降り注いできた。
少し先にある長瀞駅の駅舎に駆け込むと、僕達は息を整えながら、雨なのか汗なのかわからない身体中の水分をタオルで拭いた。沢山の人が雨宿りをしている中で、僕達二人は人の少ない端の方へと移動した。
「どっちかな。」
「…あ。っと…こ、これは、始まりっ、の方だと、ぉお思う。」
「え?」
河瀬くんの驚いた返事に、僕は自分が間違えたことに気付いて一気に冷や汗を流した。
「あ、ぁごめん。ち、違っ、た…?」
「いや、そもそも何?始まりって。」
「ゆ、夕立の、にぃ匂いの、は、話かと…。」
「あぁ。え? すげぇ、それは合ってる。」
前髪から雨の雫が垂れていくのを見ながら、ははっと笑う河瀬くんに、僕は少しほっとした。
「夕立っ、は、さ、最初と最後、が、ちぃ違うに、匂いなんだ、よ。木とか葉、っぱとか、が、み、水と、でぇ出逢ったとき、のか、香りっ。だ、だからこれ、始まりの、に、匂いかなっ、て。」
「終わりの匂いは? どんなの?」
「おぉ終わりは、土の、な、中から、みんな、出てきて。ミミズ、ダ、ダンゴムシ。ゆ、ゆっくりだ、けど、芽もで、出てきたり。そ、そういう、力強い…? にぃ匂い。」
雨は次第に強くなってきて、遠くでは地響きのような雷の音も聞こえてきた。僕は自分の言葉に赤面しながらも、この状況が嬉しくて仕方がなかった。大好きな夏のにわか雨を、大好きな人の隣で眺めながら、大好きな匂いの話をしている。これ以上はないのではと思えるくらい、僕史上最大級の幸福が荒波のように急激に押し寄せてきているみたいで、軽く目眩がする程だった。
いつの間にか河瀬くんが、僕にとっての「大好き」になっていることすらも、何の違和感もなく受け入れられている自分がいることに驚くのは、もう少し後になってからだった。
「いいな、それ。始まりと終わりの匂い。」
「あ、あの、河、…ゅゆ悠太郎っ、くんっ、の、ど、どどっちって、ゆうのは…?」
「言えんじゃん、名前。」
少し調子に乗り始めている自分を、気持ち悪いやつだなと俯瞰している自分がいた。そのうち足元を掬われるぞと、緊張で固く握ったままの僕の拳を指差しながら意地の悪い笑みを浮かべていた。
その一瞬の冷笑に、僕は思わず周りをキョロキョロと見渡した。僕を笑う声はどこからも聞こえてこなくて、ただ雨が大地を弾く音だけが途切れず耳を塞いでいた。
「俺のどっちは、ペトリコールかゲオスミンかってゆう。」
「…え? ぺ、ペト」
「ペトリコール。あとゲオスミン。いま康太が言った夕立の匂いのこと。」
「な、な名前が、ふ、ふたつ、あるの? しぃ知らな、かった。」
河瀬くんは鼻から深く息を吸うと、ゆっくり口からその息を吐きながら「なるほどなぁ」と小さく呟いた。
「お前、すごいな。俺さ、化学の授業でこれ知ったとき、夕立の匂いなんて全部一緒だろって思ったんだよ。発生のメカニズムは違うし、匂いの元も違うんだけど、あんまピンとこなくて。」
雨の音にかき消されて聞き逃してしまわないように、僕は軽く目を閉じて河瀬くんの言葉を聴いていた。その深く奥行きのある声は、遠くの雷鳴と合わさって、僕の腹の奥底で心地よい振動を与えてくれた。
「ペトリコールは、お前が言った通りなんだよ。雨が岩とか草に当たった衝撃で発生すんの。あと塵とか埃とか、そういうのが全部雨に当たって大気に混ざると匂いになる。ゲオスミンはさ、土の細菌とかカビの匂いだから、これもほとんど康太の言った通り。お前本当に知らなかったの?」
「ぅ、うん。初めて、ぃい聞いた。」
「そっか。…すげぇんだな。」
もしもこのまま時間が止まったら。この世界に人類は僕ら二人だけになったら。この匂いも音も、世界の何もかもが僕と河瀬くんだけのものになるのに。
僕がこんなことを考えているのを知ったら、河瀬くんはどう思うだろう。両親以外で、初めて僕のことを否定しないでくれた彼でも、さすがに気持ち悪いと思うだろうか。
自分でも不気味に思ってしまうこの気持ちに、名前が付くとしたら?
その考えが頭を過ったとき、僕は全身の血液が瞬く間に凍り付いていくのを感じた。
この手に余る程の熱情が、河瀬くんに届かないようにしなければいけない。理性を凌駕していく「伝えたい」という気持ちを、果たして僕は抑え込むことができるのだろうか。
「寒い?」
「だ、だ大丈、夫…」
初めて出逢う名もなき心に、僕は身震いしていた。
雨も止み、再び陽の光が照らす空が雲間から顔を出すと、すでにあの突き抜けるような青空はどこかに行ってしまっていた。川の方向へ人々がぞろぞろと列を成す中、僕達はしばらく駅舎からその光景を眺めたあと、「そろそろ行くか」という河瀬くんの言葉を合図に歩き出した。
石畳の周辺はすでに沢山の人が集まっていた。まだ薄暗くなり始めたばかりの空をぼんやりと照らすように、巨大な二隻の万灯船が浮かんでいた。川にはいくつかの灯籠が流されていて、その船の間を縫うように川下へと進んでいった。
僕達はビニールシートを広げて場所取りをしている人達の隙間を見つけて、二人で腰を下ろした。ひんやりとした石の冷たさを掌に感じていると、花火打ち上げのアナウンスが会場に流された。
「二部制なんだって。全部で一時間くらい。」
「長、ぃね。」
「あー、途中疲れたら早めに切り上げる?」
「いっ、いや!そそ、そうじゃ、な、なくて。」
「ポジティブな方の、長いね?」
何度も首を縦に振る僕を見て、河瀬くんは笑っていた。万灯船の灯籠の光で薄らと浮かぶその笑顔は、行きの電車で見たものとはまた違った表情のように見えた。
今日は何度、河瀬くんの初めてを知るのだろう。僕は河瀬くんの見せてくれる表情の、どれ程を知っているのだろう。
花火が打ち上がると、その度に大きな歓声が上がった。大きな音にびっくりしたのか、遠くの場所で子供の泣き声が聞こえてくる。「今のは形がきれいだったなぁ」と、ひとつひとつの花火に感想を言うおじいちゃんや、「明日何時起き?」「6時半。一生お盆休みがいいんだけど。」と、花火とは関係のない話をしている若い女性達。ハンディファンの一定した機械音や、夜空に滲んだ蝉の声。沢山の音がひとつの生命体のようにそれぞれに鳴り響きながら、夏の夜を賑やかに彩っていた。
僕は目の前に咲く色取り取りの光を目に焼き付けながら、初めて味わう夏の夜空の賑わいに興奮を隠し切れなかった。
「楽しいん?」
「えっ!あ、あぁ、うん。た、楽しいよ。」
「めっちゃ笑ってんじゃん。」
一部の花火が終わり、万灯船から屋台囃子が聞こえる中、河瀬くんは僕に言った。胡座を掻きながら頬杖をついてこちらに微笑む河瀬くんも、やっぱりどこか嬉しそうな顔をしている気がして、もしかしたら二人でこの状況を楽しめているのかもしれないと思ってしまった。
心が通じている実感を、一方的でもいいから持てたことが嬉しくて、僕は恥ずかしがりながらもニヤつく顔を放置した。
「写真とか動画は? 撮らんの?」
「えっ、と。あぁあんまり、ス、スマホで、撮ったこと、ななくて。」
「あー、そっか。」
河瀬くんがしばらくスマホをいじっていると、やがて僕のスマホがブブッと震えた。河瀬くんからの通知を見ると、メッセージアプリの中に『イロイロ』という名前のアルバムが作成されていた。
「俺が撮ったら載せとくから。たまに見な。」
「あ、あの、あ、ありが、とう。…うぅ嬉しいっ。」
片側の口角だけを上げて笑う河瀬くんの横顔を、再び打ち上がり始めた花火が紅く染め上げた。頭上に落ちてきそうなくらいの細かな火花は、天の川みたいに夜空に瞬いては消えていった。
スマホの画面と空の花火とを行き来する河瀬くんの目を、僕は花火と行き来しながら盗み見ていた。真夏の清涼な夜風が形として現れたような、涼やかで流麗なその目元を、僕はやっぱりこの上なく好きだと思った。
突如として僕の内に湧き上がってきたと思われた名もなき心は、きっとあの日、この目を初めて捉えたときから小さく芽生えていたのだろう。
僕は鞄からスマホを取り出すと、打ち上がる花火と歓声の中で「声」を綴った。
「おい、見てねぇの?」
河瀬くんの言葉にも反応せず、僕は一心不乱に綴り続けた。この声はきっと、言ってはいけない。そうわかっていても、河瀬くんになら届くような気がした。
受け入れてほしいとか、わかってほしいとか、そんな表層的な欲望ではなくて、そのもっと奥深くにある生物としての原始的な祈りを吐露するかのように、僕は声を紡いでいった。
『僕はきっと、悠太郎くんのことが好きなんだと思います。その好きという気持ちが、一般的に言うところの恋愛感情なのかどうかも、僕には分かりません。他人と関係を築くことが難しかった自分にとって、この感情がどういった種類のものなのか、判別できるほどの経験がないからです。』
花火の動画を撮影しているスマホの画面上に、メッセージの通知が表示されると、河瀬くんは無言でそれを開いていた。僕の画面に既読の文字が表示されると、続きを書く僕の親指が震え始めた。鼓動は花火の音と一緒になって僕の耳元で大きく鳴り響いた。
『今日、とても楽しかったです。今も、とても楽しいです。この時間が少しでも長く続いてくれますようにと、花火がひとつ咲くごとに祈ってしまいます。もっと一緒に楽しい時間を過ごせたらと、祈ってしまいます。』
ナイアガラに火がつき、対岸が更に明るさを増すと、一際大きな歓声が上がった。夕立の始まりのような、さーっという優しい音と共に地上に降り注ぐ火花が、真剣な眼差しで画面を見つめる河瀬くんの顔を照らしていた。
『こんな想いを持ってしまった自分が、今はただ気持ち悪いと思ってしまいます。何か、悠太郎くんに対してとても不誠実で、不純な気持ちを抱いているような気がしてしまうからです。楽しい気持ちに嘘はないのに、それがどうして真実として響かないのかが、僕にはよく分かりません。それでも、この想いを悠太郎くんに知ってほしいと思ってしまいました。突然こんなことを伝えてしまって、ごめんなさい。』
二隻の万灯船が川面に光を映しながら、揺れ落ちる火花と川の中で溶け合っていた。届いてほしくて吐き出したはずの言葉達なのに、このまま夏の光となって闇夜に消えてしまえばいいのにと思った。僕の気持ちを知ってほしいという欲望は、紛れもなくエゴイズムの産物であることを、僕はこのとき初めて知った。
「自分のこと気持ち悪いって言うの、やめろよ。…お前と同じ、俺も、気持ち悪いってことになんだろ。」
河瀬くんは怒っているみたいだった。その勢いのある口調に気押されて、僕は河瀬くんの発した言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「俺は自分のこと、気持ち悪いなんて思わない。だから、お前も気持ち悪くなんてねぇんだよ。」
真っ直ぐに僕を見つめる瞳の中で、赤や黄色の花火が瞬いていた。遅れて響く爆発音がお腹を震わせると、僕の顔は夏の熱を一心に纏ったみたいに赤くなった。
僕は「トリドリノヒミツ」を思い出していた。きっと、見知らぬ顔の梶くんに心動かされた岩橋さんは、こんな気持ちだったのかもしれない。それは小説の世界に逃げ込んで、自室でひたすらに膨らませていたどんな想像の気持ちよりも重くのしかかってくるもので、僕は確かにこの世界を生きている一員として、認められたような気がした。
「…は、はい。」
「もう言うなよ?」
「わ、わかっ、た。」
僕達はそれから何一つ言葉を交わすことなく、フィナーレへと向かっていく沢山の花火を眺めていた。その響き渡る爆発音も、燦然と煌めく火の光も、湿度を纏った重苦しくも瑞々しい夏の夜風も、全てが僕ら二人のものだった。
〜ペトリコールかゲオスミンか〜 (了)
(12)①に続く
食費になります。うれぴい。