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【連作短編】だから私は(12)〜世界のしくみ〜①



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第一話とあらすじ





(12)①


 いつだって世界は正常で、俺の方が異常だった。

 小学生のとき、体育の授業でペアを組んだ女の子が泣いた。
 彼女が体育座りから立ち上がり、お尻に付いた砂を払った手でそのまま俺の手を握ろうとしたので、「汚いから洗ってきて」と伝えたら泣いた。
 当然のように彼女の友人らは俺を睨みつけ、教師は彼女への謝罪を要求してきた。

 何度も繰り返し読んでいた昆虫図鑑が、ある日突然見当たらなくなった。
 家の本棚のどこを探しても無くて、母さんに聞いてみると、背表紙から抜け落ちてばらばらになったから捨ててしまったと言われた。
 新しいものを買ってあるからと書店の袋を渡されたけれど、中身は別の出版社から出ている「虫」の図鑑だった。
 俺はあの「昆虫」図鑑が好きだったので、これはいらないと伝えると、母さんは悲しそうな顔をした。
 後日、事情を聞いた父さんは、母さんへの謝罪を要求してきた。

 中学生のとき、一度だけ女子と付き合ったことがあった。
 一つ上の学年の先輩で、顔も名前も告白されたときに初めて知ったが、周囲の友人も何人かお付き合いというものをしていたので、俺もしたほうがいいのかもしれないと思い告白を了承した。
 毎日の下校を一緒にしたいと言われ、同じ方向だったのでこれも了承した。
 手を繋ぎたいと言われ、小学生のときのことを思い出し、手洗いはお願いすることなく何とか我慢して繋いでみた。
 キスをしたいと言われ、俺は拒否した。理由を聞かれたので、「する意味がわからないし、給食のあと歯を磨いていないから。」と伝えると、彼女は泣いた。
 翌日、別れを切り出されてお付き合いは終了した。さらにその翌日、見知らぬ男の先輩が「あいつのこと泣かせたんだってな?」と言って俺の左頬を拳で殴った後、彼女への謝罪を要求してきた。

 この他全てのケースで、俺はしっかりと謝罪をしている。
 何故なら、俺は異常である自覚があったからだ。
 この世界を構成する彼らは、俺にとって正常の基準であり、指摘は絶対的に正しいものだと信じていた。
 その甲斐あってか、高校にあがると俺は憧れていた「普通」に擬態することに成功した。昔の俺を知らない高校の友人らからは、三年間一度も怪訝な、または怯えた表情で見られることはなかった。
 それなのに、俺は最後の最後で失敗してしまった。

 卒業式の後、友人らから進路を聞かれ、俺は浪人することに決めたと報告した。すると友人らはこぞってその理由を聞き出そうとした。

「東京の大学の方が、異常な人を見つけやすそうだから。」

 特に隠すこともないと思い、俺は何も考えずに答えた。そして自分の発言に自分で驚いた。
 もっと驚いていたのは友人らだった。普通の友達として接してきたやつが、何かおかしなことを口走り始めたと、誰もがフリーズしていた。

「どゆこと?」
穂鷹ほだか、マジ勉強し過ぎて頭おかしくなった?」

 はははっと笑って誤魔化してはみたものの、思いの外乾いた笑いが空を舞い、その場の温度は更に冷え切ってしまった。

 地元の大学に進学する者、地元の企業に就職する者、早々に結婚して妊娠までしてしまう者。俺の住むこの田舎ではそれが当たり前で正常で、それが世界だった。
 しかしそれが驚くほど狭いものであることも俺は知っていた。だからこそ、今「普通」になりきることのできた自分は、果たして本当に目指してきた世界の正常であるのかどうかを確かめたかった。

 両親には特に相談はしなかったものの、反対をされることはなかった。特に父さんは「どうせなら浪人生のときから東京に慣れたほうがいい」と言って、東京に住む伯母に居候の許可を取ってきてくれた。
 伯母の彩花さんは父の姉で、俺の記憶にはあまり残っていない人だった。しかし名前だけはしっかりと憶えていたのは、小さいころに祖父母宅に行くたびにその名を聞いていたからだ。
 特に祖母は彼女に対して、いつまで経っても結婚しないだとか、付き合ってる人の話を振っても教えてくれないだとか、今年で妊娠できる最後のチャンスなのにだとか、とにかくこの世界の「普通」を彼女に懇願していた。
 俺はその話を聞くたびに、俺以外の異常者がこの世にいるのかもしれないことを嬉しく思っていた。祖母の言う普通のことは正常だったので、それはつまり、将来的に俺にも言われかねない事柄だった。

 東京駅で会った彩花さんは、母さんよりも年上とは思えないほど若々しく溌剌としていた。特に着飾っている様子もないのに、周りの空気がきらきらと輝いているように見えた。美しさというのは清潔さと同義なのだなと初めて知った。

「これからお世話になります。」
「よろしく、ほだち。私のことはあやちゃんでいいよ。」

 「若い頃はギャルだったけど、写真を撮り始めてからは一気に素朴な感じになった」と父さんから聞いていたけれど、あやちゃんはギャルと清楚のハイブリッド型人類だった。とても大雑把な性格で、家の中は仕事で使うカメラの機材や資料の写真集なんかでごちゃついていたけれど、その大味な感じが俺の気持ちを瞬時に落ち着かせてくれた。
 異常者同士の心地よさを初めて知った。

「ほだち今日何時に終わる? 私の仕事終わったらいいとこ連れてったげる。」

 東京の予備校通いにも慣れてきたころ、あやちゃんは俺を近所のスナックへ連れて行ってくれた。
 そこには化粧は派手だけど綺麗な女の人がいて、俺らを見るなりきゃーっと奇声を上げた。

「ちょっと、あやか! それは犯罪!」
「男じゃないって。甥っ子。」
「それはもっと犯罪!」
「手出してないって。」

 品のない会話と響き渡る笑い声に、俺は圧倒された。カウンターの端に座る無精髭の生えた中年男性がこちらを舐めるように見つめたあと、「はっ、イケメンってやつかい。」と吐き捨てるように言った。

「こんな大きな甥っ子いたんだ。早く教えてよー。かっこいいじゃーん。」
「私も会うのはめちゃくちゃ久しぶりだったの。最後にこの子見たの五歳とかだもん。かっこいいかなんてわかんないよ。」
「え、会ったことあったんですか? 俺たち。」
「親戚をなんだと思ってんのよ、ほだちは。」

 由奈さんというその女性は、この店の経営者だった。所謂ママというやつかと聞くと、「それ気持ち悪いから絶対NG。あんたらのママじゃないっつーの」と言われた。
 あやちゃんは仕事終わりによくここに来ては、由奈さんや他のお客さん達と会話を楽しんでいた。そのザ・東京の暮らしみたいなものが、こんな身近な場所で繰り広げられていたことを知って、俺は興味津々だった。

「穂鷹くんさ、あたしもほだちって呼んでいい?」
「え、嫌です。」

 地元を離れてから、「普通」としての応答を忘れつつある俺は、反射的にそう答えてしまった。やってしまったと思ったけれど、予想に反して由奈さんは嬉しそうな表情を浮かべていた。

「あははっ、すごいはっきり言うじゃん。いいねいいね。いいよ、君。」
「ほだちはね、若いのに頭固いの。本ばっか読んでるから。」

 いつの間にか隣に座っていた先ほどの中年男性と乾杯をしながら、あやちゃんが茶々を入れてきた。

「へぇ。じゃあうちの息子と同じだ。」
「あのイケメンくん本なんて読むの? 意外すぎる。ギャップ萌えじゃん。」

 ギャップ萌えはすでに古い言い回しだと俺は思うけど、指摘をしたらあやちゃんは怒るはずなので言わなかった。

「誰に似たんだろうね。高校くらいからかな、なぁんか最近やたら読んでんなぁって。友達の影響? よく借りてたみたい。」
「へぇ。本好きの友達できるようなタイプに見えないけど。」
「あたしの息子なのにね。酒も煙草も嫌いなんだって。」

 楽しそうに笑い合うあやちゃんと由奈さんは、この店内をまるで教室の中みたいな空気にしていた。つい半年くらい前まで俺もその中にいたはずなのに、何故かとても懐かしいような気持ちになった。

「就活の時期?」
「なんかね、もう終わったんだって。」
「えっ!優秀ー。」
「でしょー?」
「由奈んとこの倅とは思えねぇな。」

 中年男性も話に加わって、店内はより一層賑やかになってきた。後ろのテーブル席の会話の声も次第に大きくなっていって、誰も彼もが赤ら顔で笑い合っていた。
 俺は目の前のオレンジジュースを飲みながら、今この場にいる人の中に「普通」は在るのかを考えた。奇声をあげる女性も、唾を飛ばして語り合う男性も、グラスの飲み物を床にこぼすいい歳の大人も。こんなにおかしくなっている人間を一度に大勢見たことがなかったのだ。一体彼らは、どこに隠れて生きていたのだろう。どうして今まで誰も俺のところに来てくれなかったのだろう。

 どこを見ても「普通」を見つけることができないこの空間を、俺はとても気に入った。


(13)②に続く

食費になります。うれぴい。