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【連作短編】だから私は(13)~世界のしくみ~②



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第一話とあらすじ




(13)②


 ようやく夏の終わりが見え始めた10月の始めごろ、俺は予備校の自習室でいつも会う女子から呼び出され、告白をされた。
 付き合ってほしいというのが彼女の希望だったけれど、俺は勉強時間の確保を理由に断った。もちろん勉強は理由の一つではあるものの、既に志望校A判定を出している自分にとって、お付き合いを始めるハードルはそれほど高いものではなかった。
 それでも了承をしなかったのは、単純に彼女に対して恋愛感情を抱いていなかったからだった。
 中学のころとは違い、彼女は特に泣いたりもせず「受験、お互い頑張ろうね」と笑顔で言っていた。

「うっわ。最悪。そんなん後で泣いてるに決まってんじゃん。」

 由奈さんは俺の話を聞いて心底嫌そうな顔をしていた。

「ほだちドライだなぁ。おばちゃんは心配だよ、色々と。」

 すでにふらふらと体を揺らしているあやちゃんは、肩を抱き寄せると頬にキスをしようとしてきたので、俺は両手であやちゃんの顔を押しやった。

「好きでもない人と付き合い始めて、どうすればいいんですか?」
「そこから何か芽生えるかもしんないじゃん。」
「何かって?」
「何かは何かよ。そんなもんは色々よ。」

 ワイングラスを三つ片手に引っ掛けながら、由奈さんはテーブル席へと行ってしまった。

「なぁほっちゃん、何かってのはさ、何かなんだよ。」

 いつの間にかあやちゃんの隣に座っていたシンジさんが、白熱灯に照らされた赤黒い顔をにやつかせながら俺に向かって言った。

「だからそれ、何ですか?」
「何かとしか言いようがねぇよ。何かなんだから。」
「例えば?」
「詰めてくるよなぁ、ほっちゃん。若いのになぁ。なぁ?」
「そうなのよ、この子はぁ。ねぇ?」

 あやちゃんとシンジさんは、お互いに肩を叩きながら笑っていた。今の会話のどこに面白みがあったのか、俺にはわからなかった。

「なんかくださいよ、例え。恋愛感情が芽生えるとかそういうことですか?」
「それももちろんあるけど、もっとさ、こう、自分の奥底のぉ、欲望ぉ!とか。」
「性癖とかな。変な扉開いちまうことだって、あんのよなぁ。なぁ?」

 楽しそうに笑い合う二人を、俺は少し羨ましく思った。
 これはきっと、二人とも経験をした上で答えているに違いなかった。そしてその二人の経験が、全く異なるものであることも何となくわかった。共通していない部分を共有できているような、そこにあるのは貴重な個々人の人生そのものだった。
 ここへ来ると必ず言われる「若い」という形容が、俺の未熟さをより際立たせていた。普通を求めてこれまで自分を矯正してきたはずなのに、その普通でいようとする意識が、結果的に自分の人生経験の底を浅くさせる一因となってしまっていることに、俺は薄々気づき始めていた。

「好きになれなかったとき、相手は傷つくじゃないですか。」
「そんときはそんときだよ。好きになれなかったほっちゃん自身は傷つかないのか?」
「俺が? それで傷つく?」
「おう。だって、この女の子のこと好きになれるかも~!なんて期待しててだよ、相手の乳首が黒くて萎えたりしたときに、おまえ冷静でいられんのかって話だよ。」
「いやいや、なんの話してんですか?」

 シンジさんはいつだって品がなかった。それが許容される空間だということも理解しつつ、どうしても俺はこういった内容を口走る人間を受け入れることができなかった。
 決してシンジさんのことが嫌いなわけではない。その人間性とは別に、会話の内容の猥雑さそのものに対する嫌悪だった。

「ねぇ、穂鷹くんは人のこと好きになったことあるの?」

 カウンターに戻ってきた由奈さんが、俺に問いかけてきた。そのまま特に声をかけることもなくシンジさんに水を差し出すと、すかさずあやちゃんがそれを奪って飲み干した。

「多分、ないです。…ずっとわからなくて。なんでみんな好きになったり付き合ったりするのか。」
「あれ? ほだち童貞だっけ?」

 シンジさんと酒を飲むと、あやちゃんもつられて品がなくなる。俺はそれをいつも苦々しい気持ちで眺めていた。

「うん。」
「言ってよ。」
「伯母にわざわざ言わないよ、そんなこと。」
「えー、悲しいー。」

 またキスをしてきそうな勢いで近づいてきたので、今度は肩に手が回る前に阻止することに成功した。

「なんかそういうの、なんて言うんだっけ? なんかあったよね? LGBTQ的な言い回し。好きになれないってやつ。」
「あぁ、アセクシャルのことですか?」

 自分の異常さに気づいていた俺は、当然そういったことも中学生のころに沢山調べて知識としては知っていた。
 性愛というものへの興味関心の薄いアセクシャルというカテゴリーが、自分に一番近い属性なのではないかと思っていた。

「それだ。なんか見たんだよね。」
「どこでそんな単語知るのー? 由奈、ニュースとか見ない人間でしょー?」
「これでも酒場切り盛りしてんの! 話題は自分から仕入れないと。」
「博学ぅ。」

 きっと明日、あやちゃんは昼頃まで起きてこないだろう。こんなに簡単に今日の全てを忘れ去って楽しむことができるなんて、羨ましい限りだ。

「なぁ、ほっちゃんはその何とかなのか?」
「いや、わかりませんけど。でも近いです。恋愛感情もセックスとかも、興味は湧きません。」

 実際、俺は自慰行為を中学生以来行っていなかった。一度夢精で覚えた快感を再び味わいたくて、毎夜性器をいじっていたこともあったけれど、そのうちこの行為の虚しさというか、それ自体に楽しみや喜びを見出すことができなくなってしまった。
 引き潮のように遠ざかったその性への興味は、未だ浜には戻ってきていない。

「そんなんはさぁ、思い込みだろうよ。男なんだから。」
「男ってだけで全員性欲あるんですか?」
「だって付いてんだろ?」
「それだけで性欲も伴うものなんですか?」

 いつもなら軽く流して終わるところなのに、今夜の俺は何故かシンジさんに突っかかっていった。
 それは自分の存在意義に関わることのように思えて、引き下がってはいけないという謎の使命感が自分の中に興盛していった。

「おいおい! どうした今日は! やるかぁ? 負けねぇよぉ?」
「何もしませんよ。ちんこ付いてるだけで性欲旺盛みたいに言われたくないって言ってるだけです。」
「ほっちゃんよぉ、素直になれよ、なぁ?
男はみーんな、ヤリたいもんなんだよ。それは恥ずかしいことじゃないんだから。」

 反論をしようと口を開いたとき、由奈さんが無言でオレンジジュースを注いできた。目が合うとこくりと小さく頷いて、そのままいつもの大きな声でシンジさんに話しかけた。

「はーいはい! えっちな話はおしまーい! 見てよ、男二人の討論会聞きながら、あやちゃん死んでんじゃん。」

 あやちゃんはカウンターに顔をうつ伏せたまま、長い髪の間から赤くなったうなじが上下にゆっくりと動いていた。

「穂鷹くん、一人で抱えて帰れる?」
「ちょっと…難しいかもしれないです。」
「だよねぇ。応援呼ぶから待ってて。シンジさんも水飲んでー。」

 水の入ったピッチャーをどすんとカウンターに置くと、シンジさんは「こんなに飲めるかー!」と大笑いしていた。由奈さんは微笑みながら誰かにメッセージを送ると、そのままシンジさんとの会話を続けた。
 俺は注がれたオレンジジュースをひと口飲んでから、狂ったように射精の快感を求めていた嘗ての自分を思い出していた。そこに在ったのは単純な快楽への執着心だけで、愛情との結びつきは希薄だったように思う。何を対象として自慰行為をしていたのかも、今となっては思い出せなかった。
 人間の体に反応を示せない今の自分は、やはり異常なのだろうか。元々そうだったはずで、それを自覚すらしていたはずなのに、今改めて自分の異常性を認識した気がした。

「え、早っ。」
「ちょうど近くにいたので。何なんですか? 急に。」

 店のドアが開くと、すらりとした女性が立っていた。髪を引っ詰めて一本に結び、その剥き出しのおでこの下にある鋭い生気を宿した眼が、だらしなくカウンターにもたれかかるあやちゃんを捉えていた。

「無様…。」
「ねぇ? でしょー? あ、この子はあやかの甥っ子くんね。悪いけど一緒に家まで送ってあげてよ。穂鷹くん、この人、中尾さん。あやかの友達。」

 中尾さんは凛々しい姿勢のまま俺にお辞儀をすると、あやちゃんの腕を肩に回して、その細い体からは想像もできないくらい軽々とあやちゃんを席から立たせた。

「甥っ子さん、そちら側をお願いできますか?」
「あ、はい。」
「ごめんねー。お願いねー。」
「次来たときは、この人の奢りでボトル入れます。」
「ヴァランタイン、用意しとくねー。」

 ドアを開けるとき、由奈さんは俺の耳元で何かを言っていたけれど、すぐ横であやちゃんが「あれ? 中尾? 中尾!?」と騒ぎ始めたので聞き取ることができなかった。

 よたよたと三人で夜道を歩きながら、俺は今日の告白の場面を思い返していた。
 告白の瞬間、相手はどんな表情をしていただろう。俺は前に組んだままもじもじとしている彼女の両手しか思い出すことができず、恋愛感情がどうこうと言う前に、とんでもなく不誠実な態度を取ってしまっていたことを恥じた。

「あの、中尾さんって結婚されてますか?」
「初対面の相手に不躾な質問をするんですね。」

 中尾さんは涼しい顔をしながら答えた。

「あ、すみません。そうですよね。」
「とてもこの人の親戚という感じがします。血ですね。」
「あやちゃんも、そんな感じなんですか?」
「えぇ、いつもとても失礼です。」
「おいー、聞こえてっぞぉ!」

 あやちゃんの叫び声が静かな住宅街に響き渡ると、中尾さんはため息を吐きながらも微笑んでいるように見えた。
 そこに漂う愛の気配は、どの種類のものなのだろう。だらりと重くのしかかる伯母の体を支えながら、俺は答えのない考えを巡らせ続けた。


(14)③に続く

食費になります。うれぴい。