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【連作短編】だから私は(14)〜世界のしくみ〜③


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第一話とあらすじ






(14)③


 冬季講習期間が近づいてくると、予備校の中は現役生の人数が増えてくる。追い込みの為に自習室も常に満席状態が続く為、俺は授業を終えると早々に帰宅するようになった。
 「家の中でも勉強はできるものの、いつもと違う場所でないと集中できない。でもカフェに毎日行くお金はない。どうしたものか」という内容を、夕飯の時にあやちゃんに何気なく話したところ、開店準備の時間になったら手伝うことという条件付きで、由奈さんのお店の客席を勉強場所として使わせてもらえることになった。

「冷蔵庫のオレンジジュースとポカリは勝手に飲んでよし。でも酒は絶対飲まないこと!未成年! 使ったコップは自分で洗ってね。」

 随分と簡単に店の合鍵を渡してくるなと、その不用心さに半ば呆れつつも、それだけあやちゃんに対する由奈さんの信頼度が高いのだろうなと思った。
 あやちゃんに迷惑をかけない為にも、俺は毎回集中して勉強に取り組んだ。

「ごめんね、この前。」

 テーブルを拭きながら由奈さんは言った。ペーパーナプキンの補充をしていた俺は、何について謝罪をされたのか分からなかった。

「この前?」
「ほら、アクセ…? なんだっけ、なんとかの話んとき。10月くらいのさ。シンジさん面倒臭い絡み方してたじゃん。」
「あぁ。」

 随分と前のことですっかり忘れていたが、そんなこともあったなと思い出しつつ、中尾さんのことが頭を過ぎった。あの数日後、あやちゃんは中尾さんとこの店で飲んだらしいが、俺はあれ以来会っていなかった。

「…あたしね、別にシンジさんの考え、悪いとは思ってなくてね。そういう人もいるだろうから。でも穂鷹くんみたいな人もいるだろうってのも思うわけ。で、あん時はとりあえずシンジさんの方構って終わっちゃったんだけど。一応常連さんだしね。」

 由奈さんは言葉を選びながら話しているようだった。経営者としては至極真っ当な考えだし、そもそも俺のような、何故この店に出入りを許されているのか分からない異分子なぞ放っておいてくれて構わなかった。

「ただあの後、穂鷹くんにフォロー何もできなかったから、ごめんってのはそれのこと。」

 由奈さんは優し過ぎるのではないかと思う。
 俺は特に表情を変えることなくテーブルに立てられたメニュー表を布巾で拭きながら、それでもこうして気にかけてもらえていたことを、どうやら喜んでいるようだった。心なしか手の動きが早くなっている。なるほどこれが照れ隠しというものかと、俺は初めて出会した情と動の連動に感心した。
 放っておいてくれて構わないというのは、自分なりの自己防衛というか、ただ気にしないポーズを取っていただけなのかもしれない。

「こういうとこいるとさ、色んな人がいるんだなって思うわけ。だから穂鷹くんみたいな感覚の人も、シンジさんみたいな感覚の人も、みんな実際にこの世界には沢山いるのよ。わかる?」
「…なんとなく。」

 本当にそうだろうかと、俺は朧げな疑念を中々視認できずにいた。自分のような人間も沢山いるだなんて想像すらできない。世界にたった一人しか存在しない異物のような感覚はいつまでも続いていた。
 しかしその考えもまた、酷く傲慢なものであることも理解し始めている。こんなものは、世の中にとって俺は特別な存在だと宣言しているのと同義だ。
 それでは、俺と同じ種類の人間は、一体今どこでどう生きている? 何故俺の周りにはいない?

「俺いつか、普通になれますか?」
「そりゃあなれるよ。穂鷹くんが普通でいられる世界がどこかに必ずある。」

 にっと笑う由奈さんの目は、慈愛そのものだった。それは過去、俺が母さんから受け続けてきたものに似ていた。そして由奈さんがお店でママと呼ばれることをとことん毛嫌いしている理由もわかったような気がした。

「でもね、それって「今生きてる世界の普通」に自分がなれるってことじゃない。あんたがそのままでいることが「普通」って呼ばれる世界がどこかにあるってこと。」

 ともすれば、こうして赤の他人相手にでも慈しむことができてしまう自分の性質を、由奈さんは自覚しているのだろう。以前ちらりと見えたスマホの待ち受け画面には、息子さんとの写真が写されていた。誰の母親であるかを自分に言い聞かせなければ、生き抜くことができなかったのかもしれない。
 俺は勝手な想像をしながら、何となく由奈さんの覚悟のようなものを知った気になっていた。

「飲み屋と一緒だよ。この狭いとこに色んな人がいる。ちょっと嫌だなとか、合わないなぁ居づらいなぁって思ったら、そこの扉開けて別の店探しに行けばいいってだけ。」

 ヘアクリップを外して髪の毛を下ろすと、由奈さんはゆっくりと首を回した。

「色んなこと言う人がいるけどさ、それを正すのか、それはそれとして自分は遠ざかるのか。どっちも自分で決めていいんだよ。どっちも間違いじゃない。」
「なんか、…難しい話?」

 肩を回しながら、由奈さんはいつもの何倍も小さな声で笑った。きっとこのお店の中での「普通」ではなかったけれど、由奈さんにとっての「普通」を、このとき初めて垣間見れたような気がした。


「ちょっと現役ぃ。飲み屋の女の話も理解できないで、受験大丈夫かぁ?」
「…由奈さんも、人のことめちゃくちゃに愛したことありますか?」

 由奈さんは笑顔のまま俺を見つめると、どこか遠い景色を眺めているかのように目を細めた。

「あたしね、惚れた男、殺そうとしたことあんの。」

 返答に困っている俺を見て、由奈さんは再び小さな声で笑った。今度のそれは、少し若く響いた。

「…冗談だよ。さ、店開けるから。あやかに連絡しといてよ。仕事終わったら穂鷹くんのピックアップついでに一杯飲んでけって。」
「俺、いつか由奈さんみたいに、殺したいくらい人のこと、愛してみたいです。」

 カウンター下の棚を整理する音がしばらく続いた後、立ち上がった由奈さんは俺に目を合わせることなく呟くように言った。

「やめたほうがいいよ。いいもんじゃないから。」
「そうなんですか?」
「うん。…状態としては美しくない、かな。」


 俺はそれから数年の間、このときの由奈さんの言葉を反芻し続けることになる。
 そして未だに、答えは見つかっていない。



〜世界のしくみ〜 (了)




(終)へ続く

食費になります。うれぴい。