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【連作短編】だから私は(終)


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第一話とあらすじ






だから私は



[2001年1月27日]



 ふわふわした前髪を指でそっと上げると、綺麗に生え揃った長い睫毛が下を向いていた。
 閉じていてもわかるくらい大きい目には、うっすらと二重瞼の線が美しい弧を描いている。
 深い寝息と共に上下する腹筋に手を当てると、私の指先の冷たさに一瞬ビクッと体が動いたけれど、比呂ひろはそのまま眠ったままだった。

 先程まで車が激しく揺れるくらいに腰を動かし続けて、どっと疲れたのもあるのだろう。騎乗位のときに口移しであげた「おくすり」が、いつも以上に効いているみたいだった。

「セックス終わってそのまま気持ち良く眠りたいんだよね。」

 比呂からのお願いはいつだって断らなかった。そりゃもちろん、人を殺せとかだったら拒否しただろうけど、飯食いたいとか会いたいとかヤリたいとか、私が叶えられることは基本的に何でもやってあげていた。
 ここ最近は、比呂の希望もあってセックスの途中で睡眠導入剤を飲ませることが多くなった。大体口移しで私の唾液と一緒にマイスリーを飲ませてあげると、射精したあとに比呂はすぐ眠ってしまう。薬が溶け出してるせいか、私もたまに一緒に眠くなったりもするけれど、ほとんど一人で起き続けることが多い。
 今日は久しぶりにカーセックスがいいと言われたので、私のアパートに迎えにきた比呂のワンボックスにそのまま乗って、砧公園の駐車場でサクッと終わらせた。

 私たちの行為で窓ガラスに結露まで作っていた車内は、熱源を失ってから徐々に外気で冷やされ始めていて、一人ぼんやりと比呂の寝顔を眺めていた私は軽く身震いをした。
 脱ぎ捨てられているデニムジーンズのポケットからキーケースを取り出すと、運転席へ移動してエンジンをかけた。深夜の静かな駐車場にエンジン音が響くと、車内は空調の音で満たされ始めた。
 再び後部座席に移動して比呂の隣に座ろうと思ったけれど、私はちらりとバックミラー越しに寝姿を確認してから、何となくそれ以上後ろを振り向くのをやめた。

 比呂には今、付き合っている女がいる。正式に彼女と呼ばれている「今の」女は、当然私ではない。なんだかよくわからないふわふわとした女で、どこで売ってんの?という感じの大きい銅製のブローチをツバの広い麦わら帽子に付けてるみたいな、ざっくりと編まれた麻混のニットの付け襟なんかつけてるみたいな、休みの日に手作りのベーグルとか作ってるみたいな、とにかく私とは真逆の性質の女が比呂の彼女だった。
 今まで手を出したことのないタイプの女だから、比呂は興味津々でその女の告白をOKしたらしい。それでもやっぱりすぐ物足りなくなったのか、「久しぶりに会えない?」と、すでに高校時代に関係の終わった私に比呂から連絡が来たのは、就活を終えた直後の今年の夏前だった。
 元々お互いのことは色々とわかっていたのもあって、その日のうちに私のアパートでセックスをして、そのままずるずると知性を失った獣みたいな関係になるのは、当然といえば当然だった。

「やっぱり由奈の体、最高。反応少ないと無理なんだよね、俺。あいつおっぱい小さいし。」

 私の胸を揉みながら真剣な顔で話す比呂は、まるで私のおっぱいに人格が宿っていると勘違いしているかのように、「私」に向けて語りかけていた。
 あの女より私の方が比呂の好みであることを純粋に嬉しく思っていたけれど、喜んでいるのはおっぱいの「私」であって、私そのものではないことも何となくわかっていた。
 それでも、退屈な残りの大学生活が少しでもましなものになるのならと、私は比呂の頭を優しく撫でてからそっと抱き寄せた。

 黒いレースのブラとパンツ、それに薄いピンクのキャミソールだけの情けない姿で車内に佇む私は、きっと今、世界で一番愚かな人間だろう。見る人全てが私に向かって罵詈雑言を発するだろうし、私も「やっぱりそうだよね」とそれら全てを受け入れてしまうくらい、私はどうしようもない女だという自覚があった。
 そしてそれくらいわかっていても、こうして自ら率先して愚行を繰り返しているのだから、誰も彼も放っておいてくれと仮想の敵に唾をかけ続けていた。
 今日もどこかの誰かが、同じ想いを抱えているはずだ。だから私は、この気持ちを恥じたりはしない。愚かに見えようとも、これが今現在の私なのだから、仕方がない。

 比呂が目覚めるまで、ここで待とうか。どうせならこのまま目覚めなければいいのに。あの寝息を私の手元に置いておくには、これ以上どうすればいいのだろう。
 そう考えたとき、私は自然とシートベルトに手が伸びた。シフトをドライブに入れてサイドブレーキを下ろすと、車はゆっくりと発進した。
 海なんていいんじゃないかと、思った。


 静かな世田谷の住宅街を抜けて、甲州街道をひたすら東に向けて走っていく。空は圧縮された深海を撒き散らしたみたいな濃い青で満たされていて、行き交う車のヘッドライトを全て吸い尽くしていた。
 次の赤信号で煙草に火をつけようと思ってから、すでに5つも通り過ぎている。咥えたままスタンバっている煙草のフィルターが、唾液によって徐々に湿っていく感覚が気持ち悪くて、私はとうとう諦めて真っ新なラッキーストライクを膝に吐き落とした。

「一本無駄じゃん。」

 誰に伝えるわけでもない独り言が、アスファルトとタイヤの摩擦音でかき消される。交通量が少ないせいもあって、私はいつもよりアクセルを踏み込む足に力が入った。
 このままスピードを上げていくのでもいいなと一瞬考えたけれど、やっぱり海のほうがいいんじゃないかと、思った。



 品川埠頭に到着してエンジンを切ると、車内は驚くほど静かになった。耳を澄まして聞こえてくる小さな比呂の寝息を、私は陶酔するように目を閉じて聞き入った。この寝息を守る為に死に物狂いになっている私は、やはり世界中で一番愚かな存在なのだろう。
 悪いこととか何だとか、そういうの、私にはわからない。
 悪くたって、やらなきゃ死んじゃう。そんなこと考える前にやらないと、私が先に死んじゃう。
 そういう経験のない人らは、平気で他人の言動の善悪をジャッジしてくる。
 私は今、この人を愛したい。愛されることは最終目標でも見返りでもなくて、「あったらいいな」の夢物語。はなから求めてないんだ。
 私はただ、愛したい人を愛したいだけ。今この瞬間、この人への愛の大きさでは誰にも負けない自信がある。私の体でも何でも使って、この人が至上の喜びを感じてくれるなら、それが私にとっての最大級の幸せなんだ。

 それなのに、この人に愛されているあの女に嫉妬してしまうのは、何故なんだろう。


 車のドアを開けると、冬の空気が瞬時に全身を包み込んだ。裸同然の馬鹿みたいに薄着な私は、震えながら後部座席のドアを開けて黒いロングコートを引っ掴んだ。
 つい数時間前まで全身に纏わりついていた比呂の温もりは、この数秒の間で完全に冷やされ消し飛んでしまっていた。優しく這いずり回る比呂の舌先の感触を思い出すように、コートの上から自分の体をなぞる。乱暴なんてされたことはないし、いつだって比呂は私を優しく丁寧に扱ってくれているけど、私は自分の体がやけに可哀想に思えてしまって、自分で自分を抱きしめるようにして両腕を何度も摩った。


 もっと、もっともっと、雑に扱って。
 あの女に触れるときと同じじゃ嫌。
 私の体じゃ物足りないって、そう言って。
 やっぱりあっちの方がいいって、そう言って。
 そうしたら私、もっと頑張れる。
 頑張って比呂を満足させられるようになる。
 だから、満たされたって顔、しないで。
 お前最高だなんて、言わないで。
 でないと私、終わっちゃう。
 全然足りないまま、終わっちゃう。


 そのまましゃがみ込んで、私は嗚咽を漏らした。品川埠頭は少しずつ薄明かりの中で輪郭をはっきりさせていくのに、私の視界はゆらゆらと揺れて世界を溶かしていった。
 耳元で泣き喚く海風に負けないくらい、私は大きな声を出して泣いた。
 止め処なく流れ続ける涙が、ロングコートの隙間から覗く剥き出しの膝に落ちると、そこだけがひやりと肌を冷ましていく。それは温かい比呂の舌先が離れた瞬間の、あのどうしようもなく不安になる感じに似ていて、私は淋しさを埋めるみたいに涙を落とし続けた。

 バタンと車のドアが閉まる音がしたあと、踵をずって歩くスニーカーが私の目の前まで近づいてきた。

「どうしてこんなとこいるの?」

 比呂はそのまましゃがんで、伏せ気味の私の顔を覗き込みながら言った。
 睨みつける私に向かって、小首を傾げながら微笑むその顔はまるで天使みたいで、差し出されたその手は爪の長い悪魔に見えた。
 そのまま引きずり込まれていく私を見て、嘲笑う声が聞こえる。

「殺そうと、思った。一緒に、死のうと思った。」

 絞り出すような小さな声で私は答えた。微笑んだままの比呂は、私の肩を抱き寄せると力いっぱいに抱きしめてくれた。逃げられないように精一杯の力で、抱きしめてくれた。

「いつでもどうぞ。」

 耳元で囁くその声は、悪魔そのものだった。もう私はこの先、一生この人に心を乱され続けていくのかもしれない。底なし沼みたいにもがけばもがく程、足元は沈み込んでいく。その泥の温もりはいつまでも私にへばり付いて、私はそれに縋りながら生きていく。
 閉ざされた沼の中で見つけることのできる幸なんてたかが知れているはずなのに、こんなにも苦しみに満ちた日々に出逢わせたこの世界とやらは、最早初めから地獄だったんじゃないだろうか。

 私は比呂の体に溶け込むみたいに、強くしがみついた。
 神様、どうかどうか、この人が私よりも幸せになりませんようにと、強く祈った。


〜だから私は〜 (了)

食費になります。うれぴい。