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【連作短編】だから私は(9)~ペトリコールかゲオスミンか〜④


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第一話とあらすじ




(9)④

 翌日、いつものように河瀬くんが隣に座ってくると、僕は両手で握りしめていた約束の本を渡した。抑えることのできない腕の震えが恥ずかしくて、改めて自分の気持ち悪さが心底嫌になった。

「お、さんきゅ。」

 河瀬くんはそのまま何事もなく受け取ると、しばらく表紙を眺めたあと、すぐに本を読み始めた。
 盗み見るようにして目線を横にずらすと、すっと背筋を伸ばしたまま真剣な表情の河瀬くんの横顔が見えた。いつも背を丸めて、気づくと本と顔が近づいてしまいがちな自分の読書時の姿勢とは正反対で、こういう人種は自分と同じ行動をしていても全く別のことをしているように見えるものなのだなと感心してしまった。
 バスが出発してからも、河瀬くんはそのままの姿勢で読み進めていた。時折聞こえてくるページをめくる音が、僕の心臓のリズムを乱していった。
 今はあのページを読んでいるのだろうか。僕はそこ、とてもわくわくしながら読んだけれど、河瀬くんはどうだろう。何を考えながら読んでいるのだろう。どんな気持ちになっているのだろう。
 自分が体験したものを、他の誰かが追走していることが不思議で堪らない。何度も顔を窺い見てしまいそうで、僕はなるべく窓の外の景色を見るように心がけた。
 学校に到着しても河瀬くんは気づいていない様子で、他の生徒がバスを降りていく中で、ページを捲る手は止まらなかった。

「おっいー。着いてっぞ。」

 喧しい河瀬くんの友人が、まあまあな強さで河瀬くんの頭をはたきながら言った。

「いって…。あぁ、気づかなかった。」
「根暗くん降りれなくて困ってんじゃーん。かわいそうなことしてやるなよー?な?困るよな?」

 突然話しかけられて、僕はまた体をびくつかせてしまった。けらけらと楽しそうな笑い声がバスのドアに向かっていくと、河瀬くんも立ち上がって後を追っていった。

「明日返す。ありがとな。」

 少し距離を取ってから降りたほうがいいかなと思い、まだ座ったままでいた僕の方を振り向いて、河瀬くんは言った。
 不意の出来事に、僕は目を逸らすこともできずに真正面から河瀬くんと目が合ってしまった。他人の顔をまともな形で捉えるのは恐らく十数年ぶりで、僕は何一つ返事もせず、固まってしまった。
 一番最後にバスを降りたあと、昇降口までの道のりで河瀬くんの言葉を反芻していく。まだ一日が始まったばかりだというのに、僕はもう明日が来るのが待ち遠しくて仕方がなかった。

 授業中や休み時間に起きた苦しいことの数々を、この日僕はほとんど覚えていなかった。帰宅してからいつも通り無言で母の手料理を食べ、お風呂に入って曇りの少ないため息を吐く頃になってやっと、今日一日の心穏やかさが尋常ではなかったことに気づいた。
 明日を期待するだなんて、僕は別人にでもなってしまったのだろうか。よくよく考えてみると、相変わらず気持ち悪い言動しかしてきていないのだけど、何だかもう他の同級生達と同じくらい「普通」になれたつもりでいた。

「す、すごい、なぁ。河瀬くん。」

 独り言ですら吃音の酷い自分に少し落ち込みながらも、風呂場に広がったその心からの感想に、僕は自分で何度も頷いた。
 ドライヤーを終えて自室に戻ると、僕は早く明日が来ることを祈りながらベッドに潜り込んだ。


 次の日、河瀬くんは何も言わずに隣に座ると貸していた本を僕に渡してきた。

「既読、してないっしょ?」

 何のことか分からず、口を開けたまま呆けている僕を見て、ふはっと河瀬くんは笑った。

「スマホそんな見ないことある?夜何時に寝てんの?」

 身体中から血の気が引いていくのがわかった。慌てて鞄の奥底からスマホを取り出すと、昨日の夜に河瀬くんからのメッセージが三件も着ていた。
 今まで家の中でスマホを使う用事がほとんどなかったので、全く気づかなかった。受信した時間を見てみると、ちょうどお風呂に入っていたときだった。

『読み終わったーあざす』
『めっちゃ好きな感じだったけど途中ダレた。岩橋と梶が一緒に祭りから帰るとこ』
『あれ必要なん?』

「み、見てなく、て。ご、ごめんな…さい。」
「全然。」

 ここ数年で一番長い文章を口に出した僕は、声帯が驚いてしまったのかゲホゲホと咳き込んでしまった。
 それを見て河瀬くんはまた吹き出したように笑うと、僕のスマホを指差した。

「いいよ、そっちで。」

 笑顔のまま眉毛を少し上げた河瀬くんに促されるまま、僕はゆっくりと返信を入力した。普段ほとんどやらないフリック入力を何度も間違えながら、考えては消してを繰り返して、結局送信ボタンを押したときにはバスは学校に到着していた。

『あのシーンがなかったら、岩橋さんは梶くんへの想いに気付けなかったのではないかと思います。岩橋さんは、自分が梶くんをどう思っているのか、このシーンの時点ではまだきちんと認識できていなくて、街灯に照らされる横顔が知らない人のように見えたところで、初めて自分の気持ちが恋愛感情なんだと気付けたんだと思います。』
『だから、必要だったと僕は思いました。』

「今度は長っ」

 河瀬くんは笑いながら言うと、そのままバスを降りていってしまった。直接口に出したわけではないのに、僕は長く喋り過ぎたときと同じくらいの疲れを感じていた。いつも他のみんなは、これよりももっともっと長い会話を日常でしているはずなのに、僕は朝の風景の一コマだけで(しかも文章で)これだけ喋り疲れてしまうことに、情けなさでいっぱいだった。
 また最後にバスを降りようと座って待っていると、スマホがブブッと震えた。

『すげぇな、解説さんきゅ。納得ー』

 丸めた背中が細かく震えるくらい、僕は嬉しさで込み上げてくる笑いを抑えるのに必死だった。



 それから、僕と河瀬くんの読書交換感想文は数冊続いた。相変わらずバスの中での会話は一言二言で終わったけれど、僕が貸した本の感想を河瀬くんはその日の夜には送ってきてくれた。
 その分量は回を追うごとに増えていって、それに対する僕の返信も長くなっていった。
 自分の感じたこと、思いや気持ちを伝えるという行為が、こんなにも気持ちの良いものだなんて知らなかった。同時に、自分がこんなにも色々なことを考えて感じていたことにも驚いた。
 人と話をするのが怖くて逃げ込んでいた本の世界の話を、今度は人に話して共有している。自分の行動の矛盾と、それが想像以上に自分を満たしてくれていることが不思議で仕方がなかった。

「康太、はよ。昨日の返す。」
「あ。お、おはよう。」

 テスト週間が終わる頃には、いつの間にか河瀬くんは僕のことを名前で呼ぶようになっていた。
 終業式の朝は、深夜に冷やされることのなかった日本が早々に熱を帯び始めた蒸し暑い日だった。

「夏休み何してるん?」
「いっ、あ、夏休、み…。家に、いぃる、かなぁ。と、図書館も、行くと思、ぅう。」

 いつも本を返した後は二人とも無言のことも多いので、突然の話題提供にいつもながらどぎまぎしてしまった。自分比ではかなりの長文を声に出すことができるようになっていたけれど、いつまで経っても吃音は治らなくて、自分で自分の声が聞き苦しかった。

「暇なとき、連絡していい?外出んの平気?」

 僕は目玉が飛び出るくらい目を見開いた。河瀬くんと目が合うと、僕の顔が面白かったのか声を出して笑っていた。

「顔、漫画かよ。驚きすぎだろ。そしたら」
「い、いぃつでもっ!!」

 周り中に響き渡るくらいの大きな声が出てしまい、がやがやと騒がしかったバスの中がしんと静まり返った。驚いた表情で止まっている河瀬くんを見て我に帰ると、僕は身体中の血液が沸騰してしまったみたいに真っ赤になった。

「え、喧嘩?」
「なになに?」
「びびったー。こわ。」

 次第にみんなの会話が増えていくと、またいつも通りの朝のスクールバスへ戻っていった。僕は相変わらず茹でダコみたいに赤黒い顔を熱らせたままで、河瀬くんは口を抑えて漏れ出す笑い声を必死に殺していた。
 年季の入った音と共に扉が閉まると、バスはゆっくりと発進した。

「でけぇ声出せんじゃん。調節バグってるけど。」

 揺れる身を強ばらせて縮こまる僕の肩を、河瀬くんがポンと叩いた。ちらりと横を見ると、盛り上がった頬の筋肉で切長の一重瞼がより細くなっていて、その隙間から覗く優しげな眼差しが、僕の体温を更に上昇させた。
 触れられた左肩は河瀬くんの手が離れた直後からむず痒くなってきて、僕はどうしてか、もっと触れていてほしいと思った。

『どっか行くとき誘うなー』
『はい』

 すぐ隣から送られてきたメッセージを読んで、僕のこの身体中を駆け巡る熱の中に、大声を出してしまったこと以外の理由が隠されていることを悟られないように、短く返信をした。

 エアコンで冷え切ったバスの中から見上げる夏空は、今まで見たことのない鮮明な青色をしていて、僕は初めて本物の空の色に出会ったような気がしていた。



(10)⑤に続く


食費になります。うれぴい。