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【連作短編】だから私は(8)〜ペトリコールかゲオスミンか〜③


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第一話とあらすじ





(8)③


 スクールバスが高校の駐車場へ到着すると、河瀬くんはすぐに立ち上がってバスを降りてしまった。
 僕は『はい』と返信をした後、どうすればいいのか分からなくて、ただスマホの画面を眺め続けていた。ボールの投げ合いと考えれば、次は河瀬くんから何か送ってくるのだろうかと待っていたのだけど、結局何も反応はなく、僕は戸惑いながら最後にバスを降りた。
 昇降口へと一人歩きながら、そもそもメッセージのやり取りの前に、河瀬くんが僕の読んでいた本の話をしていたことを思い出し、何か送らなければならないのは僕のほうだったことにやっと気づいた。脳内で返事は思い浮かぶのに!だなんて、つい先ほど心の中で豪語していたのはどこのどいつだ。連絡先の交換という僕史上最大のハプニングに気を取られて、肝心なその続きがすっかり抜け落ちてしまっていた。
 こういうコミュ障然としたところが、僕のいけない部分なのだろう。誰が何を期待しているのかをその場で瞬時に汲めなくて、気づいたときには相手をがっかりさせてしまう。せっかくテキストでの交流を提案してくれたのに、河瀬くんもきっと呆れたに違いない。

 その日の授業は何一つ集中できなくて、何度も何度も朝のスクールバスまで時間を巻き戻してくださいと神様に祈っては、顔を真っ赤にして教科書に顔を埋めていた。


 僕だけを置いてきぼりにして進んでいく世界を恨みながら帰宅すると、この時間にはないはずの黒い革靴があることに気づいて、僕は更に深いため息を吐いた。

「おぉ。おかえりぃ。」

 へらっと笑うだらしない口元から長い八重歯を覗かせながら、父はひらひらと手を振った。

「ママ、こうちゃん帰ってきたよ。今日俺、直帰しちゃったんだぁ。珍しいでしょ。」
「そう…。」

 父の横をすり抜けて洗面所に手を洗いに行くと、母のスリッパの音が聞こえてきた。僕はなるべく素早く手洗いとうがいを済ませると、母がリビングのドアを開ける前に階段を駆け上がった。

「おかえり。おやつあるよ。」

 わざとドアノブを下げないで、大きな音が出るようにしながら自室のドアを閉めると、今度は長く細いため息を吐いた。
 そのままブレザーも脱がずにベッドに倒れ込むと、スプリングがぎしっと不快な音を立てて軋む。シーツから仄かに香る柔軟剤の甘い臭いが土足で鼻腔を駆けていく。湿度の高い一日だったはずなのに部屋の空気はそれほど淀んでいなくて、きっと日中、母が窓を開けて掃除をしたのだろう。
 この部屋の、もっと言うとこの家の、一切合切何もかもが不愉快だ。まるで友達の一人もいない出来損ないの僕を、父と母が身を挺して守り抜くための強固な要塞みたいだと思った。実際、父のように人懐っこさがあるわけでも、母のような愛嬌があるわけでもない僕は出来損ないに間違いないのだけど、その事実が嫌でも浮き彫りになるこの家は、僕にとってとても息苦しい空間だった。世話をしてもらっている未成年の分際で、理不尽かつ身勝手極まりない考えなのはわかっている。でもこのどうしても拭えない閉塞感から、僕はどうしたら逃れられるのかと、ここ最近は特にそればかりを考えていた。

「こうちゃん、ごはんー。」

 ドアのすぐ向こうから父の声が聞こえてきて、僕は目が覚めた。
 すっかり薄暗くなった部屋の電気を点けて、制服から部屋着に着替えると、僕はゾンビみたいに無気力な姿勢でリビングへと向かった。

「寝てた?おやつのプリン残ってるから、あとでデザートで食べてね。」

 母はいつものレースのエプロンを着て、僕の席に箸や取り皿を置きながら言った。母の年齢でこういうレースのフリルが付いたエプロンを着ている人が、日本に何人いるだろう。若く見られがちな母にはしっかりと似合ってはいるものの、僕はその姿を見て時折恥ずかしい気持ちにもなっていた。

「今日、回鍋肉だよ。俺好きぃ。」

 いっただっきまーすと、耳障りなリズムに乗せて食事を始めた父もまた、年齢よりも若く見られがちではあるものの、いつまでも少年のような無邪気さを恥ずかしげもなく態度に表すところが、僕はどうしても好きになれなかった。
 何より、比較的大きな家に住んで金銭的に不自由のない暮らしを維持できるくらいの仕事をこなしている社交的な父と、友人も多く家事も育児も楽しんでいる専業主婦の母の(育児の対象はもちろんこの卑屈な性格の僕なわけで。それなのに楽しそうって、何?)、その間に生まれた子供である場合、その両方を受け継いで然るべきという無言の圧がそこにはあるように思えて、程遠い人格の僕は果たしてこの家族の一員としてこの場にいても許されるのだろうかと、いつも居心地の悪さを感じずにはいられなかった。

 唯一の救いは、僕が一人っ子だということだった。
 もしこれで兄弟が、しかもそいつが父か母の明るい特性を受け継いでいようものなら、僕はきっとこの家族から除け者扱いをされていただろう。
 こんなに父母に心の中で悪態をつきながら、それでもこの事実を救いとして捉えて安堵している自分自身にも、そこに孕んだ幼児性に吐き気がするくらい嫌悪を感じるし、だから僕は、常に一刻も早くこの家から出て行きたかった。

「おいしい?こうちゃん。」
「…うん。」

 僕の返事に顔を見合わせて微笑む二人が視界の端に入ってきて、本当に目障りだなと思った。
 学校じゃコミュ障の気持ち悪い奴なのに、両親の前ではこんなにも大きな態度を(心の中で)取れる文字通りの「内」弁慶な自分が、情けなくて恥ずかしくて、僕は味のよくわからない回鍋肉と白米を胃に流し込んでから、無言のままリビングを出ていった。

 階段の壁には、上にあがる毎に時系列になるように家族写真が飾られている。その先頭にある父と母の結婚式の写真を眺めながら、

「あと数年したら、こんなのが産まれるよ。」

と、囁くように言った。
 教会の前でたくさんの友人たちに囲まれながら、手でハートの形なんて作って、誰も彼もが浮かれている幸せ一杯の恥ずかしい写真。僕の生きる世界とは無縁に思えるこの光景のその先に、どうして僕が産まれてきたのだろう。
 階段を上がりながら、赤ら顔の猿みたいな小さい人間の写真が増えていくのを、僕はなるべく目に入らないように顔を背けながら部屋へと戻った。

 床に脱ぎ捨てたままの制服をハンガーに吊るすと、ズボンのポケットからスマホが落ちてきて左足の親指に直撃した。
 小さく漏れた呻き声も、クソっと吐いて出た声も、やっぱり僕の嫌いな僕の声で、延々と続く自己嫌悪の自家発電にうんざりした。
 今日何度目かわからないため息をしながら充電器スタンドにスマホを置こうとしたとき、画面を見て僕は自家発電を加速させるくらいの大きな悲鳴を上げてしまった。

『本読み終わったら貸してくんない?』

  メッセージがyut@rowからであることを何度も何度も確認して、僕は口を大きく開けたままその場で固まった。意思とはまるで関係なく口角が上がって、普段使い慣れていないせいなのかすぐに右頬がぴくぴくと痙攣してしまった。
 自分に起きた大事件に興奮を隠しきれずに、僕はベッドに背中から思いっきりダイブした。ギシンギシンと大きな軋み音を立てながら、ベッドは僕の弾む心を優しく持ち上げてくれた。

「本、読み終わったら、貸して、くんない。本、読み、終わったら」

 河瀬くんのその「声」は、文字だけからでもその深い温かみが聴き取れるように思えて、僕は自分の嫌いな高めの声で何度もその文面を口に出して読み上げた。

『明日、貸します。』

 目を閉じて深呼吸を五回したあと、震える指で僕は返信をした。
 よしっ!とつぶやいて、ベッドで横たわりながら両手を強く握って思わずガッツポーズをしてしまった自分に驚いて、僕は最後がいつだったか思い出せないくらい久しぶりに、声を出して笑った。



(9)④へ続く

食費になります。うれぴい。