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【連作短編】だから私は(7)〜ペトリコールかゲオスミンか〜②



前回のお話

第一話とあらすじ




(7)②


 それからほとんど毎朝、河瀬くんは僕の隣の席に座ってきた。
 毎回「隣いいっすか?」と聞いてくるので、その度に僕は首を小さく縦に振った。その包み込むような低音とは対照的な自分の高い声で、朝から自己嫌悪に陥るのはもう御免蒙りたかった。
 あれ以来、喧しい彼の友人は僕にちょっかいを出してくることはなく、河瀬くんを見掛けるとしばらく通路を塞いで会話をした後、そのまま後ろの方へと席を探しに行っていた。
 他人をいじる人達はいつだって気まぐれだ。たまたま目に入ったおもちゃが面白そうだったからいじってみただけで、僕自身に興味があったわけではない。そんなことで手を出されるのは堪ったものではないけれど、いつまでもそれが続くより幾分かましだ。
 それでも、いざというときに備えて、僕はなるべく寝たふりをしたり本を読んだりして、できる限り話しかけられないよう努めた。

「それ、そろそろ読み終わる?」

 河瀬くんが隣に座り始めて十日目。早朝まで降っていた雨が止んで、雲間から射し込む日差しがスクールバスの窓ガラスについた水滴を揺らす金曜の朝だった。
 突然の問いかけに、一瞬誰が誰に対して発した言葉なのかわからず、僕は数秒硬直した。その声がしっかりと僕の耳に向かって飛び込んできていることを認識すると、初めて彼の目を見たときと同じように、僕は小さな悲鳴と共に横を見た。

「あとちょっとで終わる?」
「あ、あの…」

 顔全体が熱を帯びて、耳まで赤くなっているのが自分でもわかった。今日に限ってブレザーを着てきてしまったため、尋常じゃない量の汗は服の中で酷く滞留していた。

「それ面白い? 昨日本屋で見た。気になって。」

 あ、あ、とだけ言った後、だらしなく口を開けたまま僕は言葉が続かなかった。
 こんな会話すらまともにできず、ただ声を短く発することしかできない自分が気持ち悪くて、今にも泣き出しそうだった。
 しばらく沈黙が続いてから、バスは動き出した。河瀬くんはそのまま何も言わずに鞄からスマホを取り出したので、僕はまた人と関われる絶好のチャンスを逃してしまったことを激しく後悔した。
 今最終章だよ。結構面白いけど人によるかもなぁ。本屋とか行くんだ!意外。投げかけられた問いの一つひとつに対して頭の中で返答は浮かぶのに、それを口に出すことができない。
 年齢や顔や体型に似合った声の高さは?適切なスピードは?走行中のバスで話す時の声の大きさって?目はどこを見るのが正解?手はどう動かす?唾とか飛んだりしない?

 僕、気持ち悪くない?

 皆が当たり前にできていることを、どうして僕はできないのだろう。
 全部、いつか誰かが教えてくれたことのように思うけど、もうどれを誰に言われたのかも覚えていない。何か一つ気をつけて会話をしようとすると、別の誰かに別の何かを指摘されて、そうするうちに僕はどんどん喋れなくなっていった。人前で声を出すことは、恐怖でしかなかった。

 俯きながら涙が目に溢れてきて、ほとんど泣いてるみたいになっていると、河瀬くんは僕の目の前にスマホの画面を差し出してきた。
 滲んだ画面にはぼやけた白黒の四角が映し出されていて、右手で涙を拭ってからその画面をよく見ると、それはメッセージアプリのQRコードだった。

「俺の。」

 しばらく意味がわからずに画面を凝視したあと、僕は慌てて自分の鞄を漁った。一番奥の内ポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリを開いた。トークページには父と母しかおらず、当然、僕は新しい人の連絡先の登録方法など知らなかった。スマホを連絡手段として使うだなんて、塾からの迎えを母にお願いするときくらいしかなかったのだ。

「あー、やろうか?」

 小さく頷きながらスマホを差し出すと、河瀬くんは僕のスマホに自分の連絡先を登録し始めた。
 他人が自分の物を触っている。しかも、ゴミ箱に捨てたりトイレに流そうとしたりする目的ではないことで。初めてのことに、僕は静かに興奮していた。
 返されたスマホには新しく「yut@row」という名前が追加されていた。

『喋るよりこっちのほうがいいっしょ?』

 ブブッと小刻みにスマホが震えて、河瀬くんからのメッセージが届いた。
 僕は目の前で何が起きているのか理解できないまま、今まで味わったことのない身に余る多幸感で息が詰まりそうだった。

『はい。』

 震える指で返信を送ると、河瀬くんは「短っ」と言って笑っていた。
 その顔を横目で覗くと、前回心を掴まれてしまった切長の目が、僕の初めての「声」を見ていた。それだけで僕の心臓はドクンドクンとうるさくなっていったけど、こんなにも苦しくない胸の鼓動は初めてだった。
 相変わらず冷や汗は身体中から吹き出して、それをエアコンの風が服の隙間から冷やしていくけれど、僕は一向に内側からの火照りを収めることができずにいた。



(8)③に続く


食費になります。うれぴい。