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【連作短編】だから私は(6)〜ペトリコールかゲオスミンか〜①

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第一話とあらすじ





(6)①



「隣、いいすか?」

 完全に声変わりを終えた深めの声が、僕の鼓膜を震わせる。

「あ、…っす。」

 ほとんど吐息みたいな小さな声なのに、周りの同級生とは違って明らかに高さを保ったままの自分の声が頭蓋骨に響き渡る。

 この時点で、もう今日という一日がろくでもないものになることを確信した。
 朝のこの一瞬を何度も何度も思い出しては一人赤面して、クラスメイトに話しかけることはおろか、何なら授業中に当てられてもまともに発言できず、後ろの方から「きもっ」とか聞こえてきて冷や汗の量が三倍に増えるんだ。
 しかもそのままスルーしてくれればいいのに、先生も(こういうときは絶対小山先生)「おい、そういうこと言ってやるなよ!」とかわざわざ発言を拾って反応するんだ。
 そうしたら余計にみんながクスクスと笑い出して、滝のような冷や汗がインナーを通り越してワイシャツにまで染み出して、僕の背中にべったりと貼り付くことになるんだ。

 男子校はさっぱりしているだなんて、一体誰が流したデマなんだろう。
 共学のときと何も変わらず、そこにはしっかりとしたヒエラルキーが存在しているし、何なら僕のようにちゃんと揶揄われておもちゃにされる人種も存在している。
 男子校や女子校では、陽キャも陰キャもそれぞれ無関心でクラス内に生息できるなんていうのは幻想で、馬鹿にする・される関係性は変わらないままだ。

 今まさに世界で最も不幸な一日が始まった僕のことを余所に、男として羨ましいくらい順調な成長を遂げてきたであろう声の主は、どかっと大きな音を立てて僕の隣の席に座った。
 じわじわと伝わり始めるその主の体温を、僕は心の底から嫌だと思った。梅雨のベタつく雨に濡れた傘や靴の湿気が、男子生徒達の汗と共に立ち昇っていくスクールバスの車内。耳障りな音を立てながらその空気を蹴散らそうとしてくれているエアコンの風も、僕ら生徒の健康への配慮なのか何なのかわからないけど、ほとんど送風に近かった。
 気持ち悪い空気がただ混ぜ返されていくだけの空間で、隣の人間の熱なんて感じたくはなかった。

 ちらっと視線を斜め下に向けると、隣の主は椅子の面積いっぱいに座っていた。僕なんかどんなに脚を広げて座っても、座面が覆われることなんてないのに、彼の椅子には隙間がなかった。
 肥満だとか柔道部のように筋肉の塊だとかいうのではなく、単純に体格が良かった。脚の長さを考えると、(見る勇気はないけれど)きっと座高もそれなりに高いのだろう。目線を水平に移動したら、胸や肩あたりしか映らないかもしれない。
 そもそも先程の声の低さを考えたら、隣の主が恵まれた体格の持ち主であることは明白だ。痩せっぽちの自分のような奴は、こういう人種に逆らってはいけないし、親しみを持って接してもいけない。どんな形であれ、目をつけられたらろくなことにならない。

「おっすー悠太郎ゆうたろう。なんだよ、座れてんじゃん。ずりーな替われよ。」

 隣の主の友人らしき人間が、朝とは思えない喧しさで話しかけてきた。

「おう。絶対替わんねぇ。」

 笑い声を交えながら、主が応答する。しばらくそのまま、昨日出た数学の課題がわからなかっただの、夜中のLINE返すのが遅いだの、来週のカラオケに誰を呼ぶだのという話を続けていた。
 次々に乗ってくる人の足音や制服の衣擦れの音で、その人間が通路に止まって隣の主と会話をしているのがわかる。皆そこで一度立ち止まってから、無理矢理その人間の横を通って奥へと進んでいく。
 どうして人の迷惑になっていることに気付かないのか。話なんてバスを降りてからでもできるだろ。
 それでも、誰一人として舌打ちや文句が聞こえてこないあたり、きっとこの人間も隣の主も、見た目からして陽キャなのだろう。そう思うと、逃げ場のないこの状況の僕はとんでもなく不幸な少年ではないだろうか?
 ゆっくりと体を窓の方へと傾けて、僕は強く目を閉じた。

「なぁなぁ、席替わってくれん?」

 突然、ばんばんと強く肩を叩かれて、僕は自分史上一番の体のビクつきを見せた。それだけでも十分に恥ずかしかったのに、ひぃあっ…という気持ち悪いにも程がある悲鳴を裏声で発してしまった。

「えぇっ!? そんなキョドる? やっべぇ、きっも。」

 ケラケラと乾いた笑い声と共に、電光石火の如く鋭い暴言が僕の心を打ち抜いていった。

「ごめんって、根暗くーん。なぁ、席替わってくんね? 俺今日腰痛くてさぁ。こいつとも喋らなきゃだし。」

 「世界で最も不幸な一日が始まった」
 確かに言った。言ったけど、さすがに不幸になるのが早過ぎないか?こんな絵に描いたような陽キャからのダル絡みは、それなりに不幸だった一年生のときにもされなかった。

「な? 替わってくんね? …おい、返事しろよ。」

 どうして自分の隣に雰囲気からでもわかる陽キャを座らせてしまったのだろう。隣の主が座るのを阻止できていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。
 数分前の自分と隣の主を恨みながら、早くこの空間から抜け出したくて、僕は足元に置いていた自分の鞄を手に取った。

「おまえ、そういうのやめろよ。早く後ろ行けって。」

 身体を通して椅子や床にも振動するような低い声で、隣の主が喧しい友人に言った。
 思わず僕の手も止まってしまった。今まさに席を立とうと力を込めた裏腿の筋肉は、そのまま硬直して震えていた。

「んだよ、冗談じゃん。後でなー。」

 ごめんな根暗くんと言って、また強い力で僕の肩を叩いてから、喧しい主の友人はバスの後ろの方へと歩いていった。
 踵をずって歩くローファーの音が、陽キャというよりもはやヤンキーに近い人種だったのでは?と、より一層僕の恐怖心を煽った。
 まだ学校に到着すらしていないのに、もう家に帰りたい気持ちでいっぱいだった。

 ゆっくりと鞄を足元に戻してから、まだ忙しない鼓動を落ち着かせようと右手を胸に当ててみた。持久走の後みたいに血を巡らせ続ける自分の心臓は、昔飼っていたセキセイインコの雛を抱いたときと同じ脈の打ち方をしていた。
 だから臆病者のことをチキンと言うのかな。これぞ実学。などと呆れるくらい馬鹿なことを考えながら、少しずつ平静を保とうとした。

「なんか、すみません。嫌な思いさせちゃって。」

 左耳の中にダイレクトに届く低い声に、僕は再び身体をビクつかせた。
 そのままの勢いで横を振り向くと、やっぱり最初に主の肩と首とが視界に入ってきた。それから少し上に目線を向けると、大きめの切長の瞳がこちらを覗いていた。

「あの、全然そんな、ことは…ない、です。」

 ひと言口に出すごとに、僕の視線は下へと降りていった。
 謝罪されるだなんて予想だにしない事態に戸惑いながらも、どこか少し嬉しい気持ちもあった。何ならこのままこれをきっかけにして、高校生になって初めて他人との会話ができるかもしれないだなんて、淡い期待すら抱いてしまっていた。
 しかし、自分の口から発せられる子供のように高い声は、すでに大人に近づいている相手と対等にはいられないことを強く思い知らせてきた。こんなことでのぼせ上がるなよと、心の奥底に鎮座する冷静な僕が警告を発していた。
 こんなとき、世の中の人はどうやって反応しているのだろうか。自分の声や表情のひとつひとつが気にならないのだろうか。いつの間にかそれぞれが気心の知れた間柄になっていて、いつだって僕一人が取り残されてしまっている。小学生になれば、中学生になれば、高校生になればと、ステージが変わる度に思ったけれど、結局僕はいつまでも一人のままだった。

 それでも、一瞬捉えただけの一重まぶたの瞳は、今日という僕の最悪な一日を0に戻してくれる十分な力を持っていた。他人と目を合わせるという経験がこれほど胸を熱く締め付けてくるものなのだと、僕はこのとき初めて知った。たったこれだけで他人と一方的ではない関わりを持てたような気がして、まともな会話なんか何一つしていないのに、まるで親しい友人が一人できたくらいの興奮が身体中を駆け巡っていった。

 梅雨空の白く鈍い光を受けて、透き通ったガラス玉のような薄茶色のその瞳に、僕はそれからしばらくの間、何度も無意識に思い返してしまうほど夢中になってしまった。

 これが、僕と河瀬悠太郎かわせゆうたろうの最初の出会いだった。


(7)②に続く

食費になります。うれぴい。