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【連作短編】だから私は(5)〜密やかに吐く〜⑤


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第一話とあらすじ




(5)⑤


 ひと通り三崎奈津子の撮影を終え、私はそのままD2控室へと向かった。
 甲本は着替えを終えているだろうか。ついに対面の瞬間が訪れるのかと思うと、私の唇はグロスを塗っているにも関わらず急速に渇いていった。
 低めのヒールがコツコツと音を立てて、私の心を更に煽ってくる。まるで自分の脚ではないみたいに、スピードが増していくのを制御できずにいた。

「わ!びっくりした。」

 控室の前に到着すると、ちょうど由佳ちゃんが扉を開けたところだった。

「なに?走ってきたの?」
「あ、時間やばいかと思って。新婦の撮影ちょっと長くなっちゃったし。」
「いや…?全然。むしろちょっと早いくらい。」

 眉間に皺を寄せながら、由佳ちゃんは私を中へと案内した。
 いい感じにロキソニンも効いてきて、ほとんど生理痛は無くなっていたのに、規則的な心臓の鼓動が直接鼓膜を打ち鳴らしているかのように、耳の奥がじんじんと痛み出した。
 昨日の代々木公園の男みたいに、チャラい雰囲気が残っていたらどうしよう。まだごくせんの出演者みたいな髪型だったらどうしよう。あの頃は心の底からかっこいいと思っていたその顔が、私の幻想を打ち砕くほどの酷い造形だったらどうしよう。背は?声は?喋り方は?匂いは?清潔感は?爪がやたら長いとか、眉毛がまだヤンキーみたいに細いままだったりとか。
 とにかく、ありとあらゆるマイナスな妄想が、その数秒のうちに頭の中を駆け巡っていった。

「カメラマン入りますね。よろしくお願いします。」

 由佳ちゃんの声と同時に顔を上げると、そこにはダークブラウンの落ち着いたタキシード姿の甲本が立っていた。
 肩まで届くくらい伸ばしていた襟足は綺麗に切り揃えられていて、私の記憶にはなかったうなじが見えていた。かつて顔周りに沿っていた長い前髪も、眉毛より上になるくらい短くなっていて、爽やかな営業マンという風貌へと様変わりしていた。抜き過ぎて生えてこなくなったって言ってなかったっけ?と事実確認をしたくなるくらい眉毛も濃くしっかりとしていて、垂れ気味の目をより一層優しげな印象へと誘っていた。

「うわぁ、本当に林じゃん。久しぶりだなぁ。」

 思い出せずにいた低めの声が発せられると、私は思わず上半身を仰け反らせてしまった。かつての甲本はこんな声だっただろうか。目の前にいる穏やかそうな爽やかボーイと私の知っている甲本がまだリンクしていない状態で、記憶の曖昧だった声が一瞬にして上書きされてしまい、私の中で早送りの引き潮みたいに熱情が冷めていった。
 それでも彼が甲本本人であると認識できたのは、口元から覗く長めの八重歯がかつてのままだったからだ。

「久しぶり。本日はおめでとうございます。」
「ありがとう。なんか、知り合いがいると余計緊張するなぁ。」

 伸ばしがちだった語尾は特徴的と言えるほどではなくなっていた。柔らかな口調はそのままに、より大人っぽくなったように思えた。

「なんか、雰囲気変わった?すげぇかっこいいじゃん。」
「何が?あたし?」
「うん。超カメラマンって感じ。」

 当たり前じゃんと言いながら、そのまま一枚シャッターを切る。ふいに撮られて照れる甲本の笑顔は、つい先程撮ってきた三崎奈津子の愛くるしい笑顔とそっくりだった。

 その後、何枚かポーズを取りながら撮影をしたものの、終始緊張したままの甲本からはぎこちない笑顔しか引き出すことができなかった。結局いい表情をしていたのは最初の不意打ちの一枚だけで、撮影が進むにつれて、プロとしての腕の無さに私自身も落ち込み始めた。

「なんか俺、固い?」
「まぁ、うん。でも仕方ないよ、式前なんだから。むしろ緊張ほぐせないままの私のせい。」
「え、林のせいはないでしょ。」
「いや、被写体をリラックスさせるのも仕事のうちだから。」

 普段なら「お客様」に対してこんなことは絶対に話さない。現在の甲本の姿と過去の記憶とのギャップで、この数ヶ月分の熱が一気に冷めたとはいえ、やはり私はどこか甲本との昔からの関係値に甘えている部分があったのだろう。

「はぇー。偉いなぁ。」
「偉くない。仕事だもん。」

 ノックの音がして、由佳ちゃんが式場へと向かう時間であると告げた。もうその頃には甲本への気持ちはほとんど凪に近くなっていて、ただただ自分の技術の至らなさに対して苛立っていた。
 式は絶対にいい写真を残してやる。大きく息を吸い込んだ後、声が出そうなくらい勢いよく吐き出すと、私はわざとらしく背筋を伸ばして二人の後を着いて行った。

 教会の中へ入ると、すでに大勢の参列者が席に着いていた。それぞれがハレの日の為に着飾った格好で、お互いの近況やこの後の披露宴について、新婦のウェディングドレスやお色直しの衣装のことなんかを話していた。音が反響しやすい教会の空間も相まって、何となくふわふわと浮かれた空気がそこかしこに充満していた。
 甲本の招待客はほとんど会社関係の人達で、写真を取りながら大学時代の知り合いがいないかを探してみたのだけど、どうやら一人も呼んでいないようだった。
 就活の時期にはほとんど飲み会をすることも無くなって、別のゼミを取っていた甲本がどこの会社に就職したのかを、私は知らなかった。
 参列者の身なりを見る限り、そこそこ大きな企業に入ったのではないだろうか。いつもより教会内の生花が多いところを見ても、しっかり稼いでいるのだろうなと思った。

「順調ですか?」

 いつの間にか中尾さんが横に立っていた。

「はい。特には何も。」
「あとで披露宴会場の高砂の花、撮ってあげてください。新婦さんが指定したお気に入りの種類の花で飾ったので。」
「へぇ。あんまないですよね、花の指定してくる人。」
「そうですね。普通色とか雰囲気くらいですけど。」

 ずっと口角が上がっているところを見ると、今回の仕事は中尾さんにとって楽しいものだったのだろう。
 今日はまだ「いい仕事」ができていない私は、手応えを感じている中尾さんを少し羨ましく感じた。

「教会も花、多くないですか?絶対これ金かかってますよね?」
「参列者の方々に聞こえますよ。下世話なこと言わないで下さい。」

 すぐにいつも通りの表情に戻ると、少し軽蔑した目で私を見たあと、中尾さんは出口の方へと向かっていった。


 式が始まり、牧師の後ろをぎこちない足取りで甲本が入ってきた。その姿に新郎側の参列者から微かに笑いが起きていた。

「これより、雄大さん、奈津子さんの結婚式を執り行います。」

 牧師の開式の言葉のあと、G線上のアリアが流れると、父親と一緒に三崎奈津子が入場してきた。
 ヴァージンロードを歩く二人の姿を、私は夢中になって写真に収めていった。ベールの中で涙を流している彼女の顔はとても美しく、控室での撮影のときに感じた愛くるしさよりも数段大人びて見えた。一歩先に進むごとに、女としての強さが増していっているように思えた。
 彼女達の後ろ姿越しに甲本の表情を写そうとファインダーを覗くと、そこには邪な気持ちなど一切持っていないような、私の見たことのない優しい顔をした甲本が立っていた。
 その目には、自分へと心を寄せてくれる愛しい人の姿しか映っておらず、あぁ、だから彼女は強くなれるのだなと思った。

 式は滞りなく進み、牧師による誓約が始まった。

「新郎、雄大。あなたはここにいる奈津子を、病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「はい、誓います。」

 その言葉が深く天井まで響く。見つめ合いながら神父の言葉に耳を傾けて、緊張した面持ちで三崎奈津子と手を取り合う甲本の姿を見て、私はこの手の温もりを知っている、と思った。
 直接触れたことはなかったはずだ。でも、私は知っている。
 いまどれくらいの体温で、こういう場面ではどれくらいの汗をかいていて、ここからだとはっきり見えないけれど、恐らく深爪気味の指先の肉の膨らみや、中指と同じくらいの長さの薬指が少し外側に曲がっていることや、そういった細かい部分の一つ一つを、私は知っている。

 ふとした瞬間の接触だけで、ここまで鮮明に思い描くことができるものだろうか。私の知らないところで、手を繋いだことがあったのかもしれない。
 そう考えると同時に、あの手に触れたいと、繋がりたいと熱望した気持ちが徐々に思い出されて、やっぱり私はあの手に触れたことがなかったんだとわかった。
 妄想の産物か。すごいじゃん、私の想像力。
 軽く苦笑いしたあと、神聖な場に相応しくいられるように微笑みに変えてカメラを構えた。

 望遠レンズで、重ねられた手を切り取るように写してみる。ファインダー越しに見ても、変わらずに伝わってくる体温をじわじわと感じて、やっぱり私はこの手の温もりをよく知っている、と思った。


 式が終わり教会の外に出たあとは、全体写真の撮影をする。急いで6段脚立を担いできて上に跨ると、私は大きな声で参列者に向けて指示を出した。

「それではこれから全体写真撮っていきまーす。みなさんなるべく中央に寄ってくださーい。」

 由佳ちゃんや中尾さん達も、各々好き勝手に会話をしている参列者達に声をかけていく。
 毎度のことながら、結婚式という非日常の空間で、何となく浮かれている人々を動かすのはなかなか難しい。

「すげぇな姉ちゃん、高いとこ登って重いカメラ持って!こんな若いカメラマンの子、初めて見たよ!」

 甲本の会社の人だろうか。中年の男性が大きな声で私に話しかけてきた。

「ありがとうございます。もうちょっと、真ん中寄れます?せっかくのかっこいい顔が映らないですよ。」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ!聞いたか?おい。俺、かっこいいって。まだまだいけるか?え?」

 私の言葉に、おじさん同士が沸き立っていた。余計なことを言ってしまったと思いながら、笑顔は崩さなかった。

「あれ、俺の大学時代の友達なんですよ。」

 ファインダーを覗いて画角を確認していると、甲本の声が聞こえてきた。
 更に沸き立つおじさん達の声がノイズとして耳に届く中で、甲本の「友達」という言葉だけが何度も鮮明に響いた。

「それでは皆さん、両手でハート作りましょうか。顔見えなくなっちゃうので、できれば胸の前でお願いしまーす。」

 何枚か写真を撮りながら、私は三崎奈津子の位置に立つ自分を想像してみた。
 まずあのウェディングドレスは私には似合わないし、きっと招待できる人数もずっと少ないだろう。もしかしたら家族だけのこじんまりとした式にするかもしれない。それなら別にわざわざ教会で式を挙げる必要もないのでは?と、私だったら提案してしまうはずだ。
 そう思ったら、いつものラフな格好の私の横に立つのは、今目の前にいる上品なタキシード姿の甲本ではなく、細身のダメージジーンズに謎の英文がプリントされたTシャツを着ている茶髪の甲本の方がしっくりきた。
 それは甲本にとっての私が、そしてもちろん私にとっての甲本も、友達以上の関係にはなれない存在だということの証明だった。

「披露宴会場へ移動をお願いします!お足元お気をつけてお進みくださーい!」

 由佳ちゃんの声が響く中で、私は脚立を畳んでから機材の整理をしていた。
 すると、甲本が私の方へと近寄ってきた。

「なぁ、これ俺似合ってる?」
「え、まぁ、かっこいいんじゃない?」
「なんか、うーん。」

首の辺りを掻きながら、窮屈そうに甲本は言った。

「ダメージジーンズの方がいい感じ?」

 私の言葉を聞いて、甲本は目を見開いたあと、ニカッと大きな口を横に広げて笑った。甲本の顔から、緊張の色が一気に吹き飛んでいったのがわかった。

「そう!それぇ!やっぱ俺、好きなんだよねぇ。穴空いてる服ぅ!」

 そう言って笑う甲本の顔はやっぱり眉毛は太くなっているし、短髪で爽やかで別人のような見た目だった。でも、どうしてさっき気付けなかったのだろう。私が好きだったあの深く響く洞窟みたいな声は、あの頃の甲本そのままだった。
 ただ低いだけじゃない、脳を揺さぶってくるようなその広がりのある声に、私はずっと温かさを感じていた。何ものにも代え難い、心地よい安心感を与えてくれるその声をずっと側で聞いていたいと、感じてきたはずだったのに。私はどうして、そのことを真っ先に思い出せなかったのだろう。

「いつも着てたもんね。むしろそれしか覚えてなかったよ、私。」
「それしかってことはないでしょぉ。酷くねぇ?」

 わかりやすい嘘をついてしまった自分に苦笑いをしながら、私はカメラを構えた。
 披露宴会場へと向かう参列者達にシャッターを切りながら、ファインダー越しに見えるその姿はまるでピントが合っていなかった。
 何度もフォーカスリングを回してみてもそのピントが合うことはなく、水中を覗き込んでいるようにぼやけたままだった。

「あ、いた!新郎は一度控室寄りますよー!」
「はぁーい。んじゃ林、披露宴も写真よろしくなぁ。」

 由佳ちゃんに呼ばれてその場を去っていく甲本に、私はカメラを構えたまま手のひらだけをひらひらと振った。
 こんなおかしなタイミングで溢れ出てくる涙を、甲本に見せるわけにはいかなかった。

「ほら、彩花は先に会場行って。みんなの写真たくさん撮って…、え、嘘なに? どうしたの? ちょっとぉ、なにー? 彩花ー?」

 カメラを下げて俯く私に、由佳ちゃんは戸惑いながらも肩を抱き寄せてくれた。

「どうしましたか?」

 後ろから中尾さんの声が聞こえた。
 私は咄嗟にジャケットの袖で涙を拭った。腹痛を我慢して久しぶりに塗ったベージュのアイシャドウは、きっと無様な崩れ方をしただろう。

「すみません、あの、…何でもないです。ほんと、何でもないんで。」
「…お話はあとで聞きます。いくらでも。そこで沢山吐いて下さい。でも今は、堪えて。」

 中尾さんはそう言って、私の背中をさすった。
 由佳ちゃんと中尾さんの手のひらはそれぞれに温かさが違っていて、でもそのどちらもが今の私にとって、かつて切望していたはずの甲本の声の温もりをより強調するものになっていた。
 私は確かに甲本のことが好きだった。ずっと追いかけて、ずっと一緒にいることができたらと願っていた。好きだった。確かに好きだった。
 やっとこの気持ちに自分で名前を付けられたのに、長い月日を経てせっかく気づくことのできたそれを、私は今日この場で断ち切らなければならない。

 堰を切ったように流れ出る涙は、止まることを知らなかった。
 それでも、漏れそうになる嗚咽をぐっとお腹の奥まで押し込めるようにして、私は二人と一緒に歩き出した。



〜密やかに吐く〜 (了)





(6)①に続く

食費になります。うれぴい。