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高尾山ノスタルジア No.1:薬王院開山

高尾山は、東京都南西の端、神奈川県にその境を接し、東京都心の程近くにありながら多くの自然が残され、東京都民のみならず、近郊に住む人々の憩いの空間となっています。高尾山は、遠く奥多摩に屹立する奥多摩三山の一つ、三頭山を起点とする長大な笹尾根からさらに南東へと続く、関東山地の末端の尾根の東の端に位置します。陣馬山から高尾山の間の主稜尾根、そして、この尾根をぐるっと取り囲む東高尾、南高尾ならびに北高尾の各山陵から構成される広大な山域は豊かな自然に恵まれ、登山や自然観察など様々な目的や楽しみを求めて、年間を通じ多くの人たちが訪れます。

戦前の絵葉書に残る、高尾山薬王院御本社。絵葉書の形式から、大正7年(1918)から昭和7年(1932)の間に発行されたと思われるもの。(注1)

高尾山は、その位置関係から甲州街道の要衝であったこと、また、奈良東大寺の勧進による功績でその名を知られる僧、行基による開基との伝承が残る高尾山薬王院が古くに開山されたことからいにしえより人の往来があったこと、そして、江戸後期から現在に至るまで、景勝ならびに観光の地として栄えてきたことから、多くの記録が残っています。

同じく、大正7年(1918)から昭和7年(1932)の間に発行されたと思われる絵葉書に残る、高尾山登山口、現在の1号路起点の写真。両側に立つ「高尾山」の標柱は現在ないが、その奥にある灯籠は現在もその位置に立つ。(注1)
上掲の写真とほぼ同じアングルから撮影した、現在の1号路起点。「高尾山」の標柱はなくなっているが、この写真では木々に覆い隠されて見づらいものの、灯籠の位置はそのまま。
全体的な景色は変わっているものの、坂の形は全く変わっていない。まさに土地は記憶す。坂の形で両者を比べてみると、こんにちにおいても、灯籠は上掲の写真の位置と同じ位置にあることがわかる。
登山口を背にし、向かって右側の灯籠。上部の灯籠部分は新しくなっている様子がうかがえるが、土台は引き継がれている。

ただし、その記録の多くは江戸時代後期以降のものであり、それより前のものは乏しいのですが、高尾山薬用院開山の古い伝承は、今に伝わっています。江戸時代中期の寛延二年(1747)に石島正猗が著した『髙尾山縁起』によれば、高尾山薬王院は先述の行基菩薩が自ら薬師如来を刻んで奉納し、寺号を有喜寺、院号を薬王院と名付けたことが始まりとされています(*1)。

同じく、大正7年(1918)から昭和7年(1932)の間に発行されたと思われる絵葉書に残る、二軒茶屋の全景写真。二軒茶屋は高尾保養院東京高尾病院がある場所にかつてあった旅館。現在は写真奥の斜面の森が切り開かれ、高尾山ケーブルカーが敷設されている。高尾山ケーブルカーは昭和2年(1927)開業であることから、工事に要した期間を考慮すると、この一連の写真は大正時代のものである可能性が高い。(注1)

この話は、江戸時代後期の万延元年(1860年)以降に書かれたとされる地誌(いまでいうガイドブック)『八王子名勝志』にも記載があります(資料①)。以下抜粋します(表示不可能な文字は現代文字に置き換えます)。

資料①(注2)

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高尾山たかをさん有喜寺いうきじ藥王院やくおうゐん
駒木野より一里八丁
新義しんぎ真言しんごん飯繩権現いづなごんげん別當べっとうとして寺領じりゃう七十五石此山武州の多麻郡の西にそばだ松杉しょうさん鬱々うつうつとして清風せいふうやど巌石がんせき峨々ががとしてつね輕雲けいうんかぶ多西無雙たさいぶそう霊山れいざんなり徃昔むかし開山かいさん行基ぎゃうぎ菩薩ぼさつあまねく天下の霊境れいきゃうもと佛法ぶつほふ興隆こうりうせしめ給ふ干時とき當山とうざん草昧さうまい深邃しんずゐにしてむなし猛獸まうじう毒蟲どくちゃうすみかとなりいま獵師れふし樵夫きこりみちなしといへどもそのおのづか幽玄いうげんにして法性ふつしゃう嶺上れいぢゃうには真如しんにょの月荘嚴さうごん林間りんかんには應身おうしんかぜあおゐながらにして心耳しんにすまして佛法ぶつほふ有縁いうえんなるをさと官府かんふうった田夫でんぶもよお荒萊くゎうらい芟夷かりたひらいささか修禅しゅぜんの一院を建立こんりふすべく手作てづくり一刀三礼いっとうさんらい藥師如来やくしにょらいきざ本尊ほんぞんとなしたてまつその山尾やまのをながはれるをもつ山號さんごう高尾たかをとしまた藥王やくおう妙應めうおう有喜いうき芳縁はうえんなればとすなわちてら有喜いうき藥王院やくおういんなづけけ給ふとぞ。
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高尾出身の身としては、美辞麗句が過ぎて背中がくすぐったくなるような気分ですが、思いっきり勝手に現代語にして要約すると、仏教を広めるためこの世の仏の霊験あらたかな地を求めていた行基が、この猛獣ウロウロ害虫ブンブン草ボーボーで、猟師やきこりさんも足を踏み入れないような山に辿り着き、そこで空には綺麗なお月様がのぼり、森には霊妙の風が吹く様子をみて仏様とのご縁を悟り、お役人さんに申し入れお百姓さんを集めて草を払い、真心込めて薬師如来を彫ってお堂にお納めするとともに、山のすそが長く尾っぽみたいだったので「ここは高尾じゃ」と命名し、ささやかに薬王院を建立しました、ということみたいです。山裾が長いのであれば、「高尾」ではなく「長尾」じゃなかろうかと思いますけど。

伝承では、これが天平十六年(744)頃であるとのよし。しかし、この話が約千年後の『髙尾山縁起』に記載されるまで、関連のある有力な資料は発見されていないこと、また、行基菩薩は主に近畿地方で活動した僧で、近畿地方を出たことがあるという記録や資料は何もないことから、あくまでも伝説にすぎないようです。ですが、多くの寺院の建立に功績のある行基を開祖とすることで、その正統性の根拠とした、ということに意義があるのかもしれません。かような趣旨においては、その真偽を問うこと自体、意味のないことなのかもしれません。


(*1) 石井義長、「髙尾山薬王院と薬師如来信仰・前編」、高尾山報、平成28年6月1日 第629号

(注1)
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参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A

(注2)
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