オレンジ色に染まる " 艶やかな姉 " の背後には・・・" 東京の象徴 " がそびえ立っていた [第15週・5部 (75話後編)]
[○放映開始3周年記念 期間限定・完全公開記事 ]
若き実力派俳優・清原果耶氏の代表作である 連続テレビ小説・『おかえりモネ(2021年)』 。 その筆者の感想と新しい視点から分析・考察し、「人としての生き方を研究しよう」という趣旨の " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事。
今回は第15週・「百音と未知」の特集記事の5部(75話後編)ということになる。ちなみにこの前の特集記事となる、第15週・4部(75話前編)の記事をお読みになりたい方は、このリンクからどうぞ。
さてこの第15週・5部の記事は、75話の残り3分間を取り上げたものとなっているのだが、この " 3分間の中 " に筆者がこの作品に虜になった「全てのエッセンスが詰まっている」と言っても過言ではない。
放送開始からちょうど3周年を迎えるこのタイミングで、75話の残り3分間の記事を公開できるとは・・・ 2年間書き続けてきた甲斐があった!! もう既に感無量だ!! したがって、思いが強すぎて・・・ 3万1千字を超える記事になってしまった(苦笑)。
この75話の残り3分間は、百音と妹・未知とのやり取りのワンシーンだ。しかも就寝中のシーンでもあり、登場人物は寝具の上で " 半身を起こした状態 " での演技となるため、配置の移動や大きな所作を伴った感情表現は最小限となっている (最後尾は激しい配置の移動や大きな所作もあるが)。したがってカメラワークやカット割りも、かなり限定された " 制約のある撮影環境 " となるため、今回の記事では『映像力学』的な分析・考察は非常に少ない。
一方、75話の残り3分間には、5,400フレーム(コマ)が収録されている。筆者はこの記事を書くにあたって、3分間の5,400フレームの全てを " 1フレームごと " に観察して分析と考察を重ねた。
もっと言えば、前回の第15週・4部(75話前編)の記事も、1フレームごとに観察して分析と考察している。したがって75話の15分間の全27,000フレームを、1フレームごとに観察したことになる。要するに、筆者の提唱する『ドラマツルギー・タイムデリバティブ・アプローチ ( Dramaturgie Time Derivative Approach : DTDA) 』を正に最大限に駆使して、特に登場人物の心情や演者の心情を、その仕草や表情から読み解こうと試みたわけだ。
また後半の章 ( ○彼女たちや彼らの " 成長のドキュメンタリー " を見守っている感覚が・・・ 独特の没入感と魅力へと繋がっていく )では、この作品の " 最大の魅力 " について、主演の清原氏や共演者のインタビューなども踏まえて、筆者なりの考察と解釈を書き記している。この章は、『おかえりモネ』・ファンだけではなく、" 清原果耶ファン " にぜひとも読んで頂きたい。
では長文のため、前置きは程々にして・・・ 早速始めたいと思う。
○プロローグ(前回の記事の振り返り)
この章は前回記事の振り返りのため、前回の第15週・4部 (75話前編)の記事を既にご覧になった方々は、この章は読み飛ばして頂きたい。
主人公の永浦百音(モネ 演・清原果耶氏)の故郷・亀島の幼馴染・及川亮 (りょーちん 演・永瀬廉氏)が失踪した。その経緯を、百音の母・亜哉子(演・鈴木京香氏)から聞かされる永浦姉妹。
亮に思いを寄せる妹・未知(みーちゃん 演・蒔田彩珠氏)は、混乱して急いで電話で連絡を取ろうとするも・・・ 彼は出ず。妹・未知に急かされた百音が電話をすると・・・ 亮が電話に出る。彼はこのように語る。
と普段はめったに弱音を吐かない亮が、百音に " 自分の本音 " をさらけ出す。初めて露見した " 亮の弱さ " を目の当たりにして・・・
妹・未知は、この後に亮から語られる " 次に続く言葉 " を予測し、そして既に " 覚悟している " ような表情を浮かべる。そして、
百音の声を聞いた瞬間に、ホッとする気持ちと同時に、直前まで抱いていた " 百音との決別の意志 " が完全に崩壊して、
[ こんな時の " 俺の心の支え " は・・・ 結局のところモネしかいなかった ]
[ 自分にとって " 最も大切な存在 " は・・・ やはりモネだった ]
とギリギリのところまで押し止めていた " 亮の本音 " が、とうとう溢れ出た。亮の気持ちが " 自分の方へと向かっている " ことに驚くものの、
とハンズフリーモードで会話の一部始終を、妹・未知が目の前で聞いていることさえも忘れて・・・ " 女の性 " と " 艶めかしいほどの女性の色気 " を思わず醸し出してしまう百音だった。
○彼や彼女が逃れたかったのは・・・ 責任感やそのプレッシャーから生まれる " 息苦しさ " だった
その後に『悪い。また連絡する』と言い残し、突然電話を切った亮。呆然とスマートフォンを見つめる百音だったが、すぐに我に返って、
と語るが、妹・未知とは目を合わせることが出来ない。気まずい空気が流れる中、まくしたてるが如く、
と声を震わせながら語りつつも " 動揺する心 " を、何とか必死に取り繕うとするが・・・百音の手を強く払い、完全拒否の妹・未知。これまでに見たこともないような強い態度に、百音は驚きの表情を浮かべる。
そして妹・未知は、
と感情を爆発させる。妹・未知の態度に驚いていた百音も、引き締まった凛とした表情に一変し、頷きつつ姉として真摯に受け止める。
さらに妹・未知の感情の爆発は続く。
さて、亮の " その気持ち " を汲み取り、傍で彼を支えようとしてきた妹・未知。最初の方の言葉は " これまでの亮の思い " を、彼女が代弁しようとしているのだろう。しかし、『逃げたいんだよ。本当は。でも逃げらんないじゃん! だって・・・ だって、誰かが残んなきゃ! 』という言葉ぐらいからは、妹・未知がこれまでに " 心の中に鬱積していたもの " が留めなく溢れ出して・・・ そして、『だって、誰かが残んなきゃ! 』というところでは、完全に百音の目を見て強く言い切っている。
そして今度は、
と妹・未知が、自分に対して言い聞かせているように語る。では、" 彼女が逃れたかったモノ " とは一体何なのだろうか。
東日本大震災時に感じた " サバイバーズギルト " と、それに関連した後ろめたさだろうか? あるいは被災地域の若手の一員として、復興を担う責任感とそれに伴う大人たちや地域住民からの期待なのだろうか? 今作のチーフ演出を担当した、一木正恵氏の言葉にヒントがあると思う。
今作では " 復興 " というセリフが、全くと言っていいほど出て来ない。この " 復興 " という言葉に、プレッシャーや息苦しさを感じる被災地域の人は少なくなく、なるべく " 復興 " という言葉を使いたくないと語る人も多いと聞く。今作はその部分に配慮を払ったため、脚本に " 復興 " というセリフを用いなかった可能性は高い。
そうなのだ。東日本大震災の被災地域の人々は、 " あの日 " から " 復興 " というものを、否が応でも背負わされてしまった・・・ 亮や未知が逃れたかったモノとは、その責任感やプレッシャーから生まれる " 息苦しさ " だったのではなかろうか。
その一方で、故郷・亀島から逃げ出し " 煌く東京という街 " で生活を謳歌する、姉・百音の姿を目の当たりにして、
[ りょーちんさんも私も " あの日 " のことに囚われ、また島の復興と未来を背負わされて・・・ 逃げたくても逃げられないのに。 それから逃げたお姉ちゃんは、東京での生活を謳歌し、 " あの日 " のことを過去のものにして・・・ りょーちんさんと私を置き去りにしたまま " 新しい日常 " へと踏み出していくんだ ]
と百音を含めた、故郷・亀島から逃げていった人々に対して・・・ " そのこと " を鋭く突き付けたかったのだろう。それに気づいて、
とショックを受けつつも、謝るしかない百音だったのだ。
○気づいていたのに " 気づかないフリ " をして・・・ ずるいよ。
妹・未知は " あの一件 " で、思わず溢した言葉を・・・ もう一度、百音に突き付ける。
さて、妹・未知が百音に突き付けた、『ずるいよ』という言葉を短絡的に捉えると、「お姉ちゃんは故郷・亀島に漂う " 息苦しさ " から逃げたのに、仕事も恋愛も順風満帆。島に残った私が到底手に入れられないモノを、全て手に入れるなんて・・・ ずるいよ」とも聞こえてくる。しかし筆者には、 " 他の意味合い " が込められているとも感じられる。その一つとしては、「お姉ちゃんは故郷・亀島から " 自分本位 " で出て行ったのに・・・ なぜ " 勝手気ままな行動 " に見えないの? そんなの・・・ ずるいよ」といった意味合いだ。
この第15週と翌週の第16週での妹・未知の様々な言動は、放映当時は「やり過ぎ」や「わがまま」と感じた視聴者も多かったそうだ。これは主人公の百音の視点で捉えて、感情移入している人々に多かったのではなかろうか。しかし妹・未知の視点で見れば、自分本位の感情で島から離れた姉・百音は、" 勝手気ままな行動 " に映るにも関わらず、家族や周辺の人々にはそのようには映っていない。そのような妹・未知が " 損な役回り " となっているフラストレーションもあってか、『ずるいよ』と百音に突き付けた可能性は高い。そしてもう一つ考えられるのは、
[ 昔から、りょーちんさんの気持ちが、お姉ちゃんへと向かっていたことを・・・ 気づかないわけがない。お姉ちゃんは気づいていたにも関わらず、" 気づかないフリ " をして誤魔化していたんじゃないの? そんなの " りょーちんさんに対して " も・・・ ずるいよ ]
といった意味合いだ。この妹・未知の心情は、73話で菅波への告白を迫った際に、完全拒否の百音に対して『ダメだよ』と、キッパリ言い切った明日美の心情と近似しているとも考えられる。
これまでの百音と亮の関係性は、亮が淡い恋心を抱きつつも、百音の方は全く気づいていないという描かれ方だ。演じる清原氏は、このように語っている。
百音の価値観は、恋愛に対しての優先順位が低いために、これまで亮の気持ちには全く気づかなかったのか・・・ しかし " この関係性 " の中で、果たしてこのようなことが成立するのだろうか?
もしかすると、" 明日美や妹・未知の抱く亮への好意 " を知っていたからこそ、それぞれの関係性を壊さないように、「亮の気持ちに気づいていたが・・・ " 気づかないフリ " をして誤魔化してきた」という行動を " 百音自身が無意識のうち " に、これまでに行っていたとも考えられるのだ。この彼女の無意識な行動は、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が提唱したレベルのものであると、筆者は捉えている。
しかし「百音の気づかないフリ」さえも、妹・未知は " 女の感 " で、ずっと前から気づいていた・・・ そう!! 彼女の『ずるいよ』には、そのような思いも込められていたのではなかろうか。
○オレンジ色に染まる " 艶やかな姉 " の背後には・・・ " 東京の象徴 " がそびえ立っていた
妹・未知は『ずるいよ』と語った後、さらに百音に対して止めを刺すように、この言葉を言い放つ。
さて、妹・未知が言い放った、『何で、お姉ちゃんなの』という言葉を短絡的に捉えてしまうと、
[ 私は " りょーちんさんの気持ちを分りたい " と思って、故郷・亀島を離れずにずっと傍で寄り添ってきたのに・・・ どうして島から逃げたお姉ちゃんの方へと、りょーちんさんの気持ちは向かってしまうの? ]
といった " 単純な嫉妬心 " にしか感じられない。しかし、これまでのストーリー展開・・・ 特にこの第15週の流れを見ていると、さらに様々な感情が複雑に入り混じったものが、妹・未知の中に渦巻いていることを感じさせられる。
[ お姉ちゃんは " あの日 " のことを過去のものにして・・・ りょーちんさんと私を置き去りにしたまま " 新しい日常 " へと歩き出そうとしているのに。どうして、りょーちんさんの気持ちは・・・ お姉ちゃんの方へと向かってしまうの? ]
[ お姉ちゃんが故郷・亀島から逃げて、実家から出て行ったからこそ、「故郷と永浦家の未来を作って行こう」と、私は島で踏ん張っているのに。そのお姉ちゃんは、" 煌く東京という街 " で生活を謳歌している・・・ なぜお姉ちゃんばかりが " 良い思い " をするの? 」
[ 実家を背負って守り、どれだけ故郷・亀島で踏ん張っても・・・ 私は仕事も恋愛も、全く上手くいかずに報われない。それなのに・・・ 好き勝手やっているお姉ちゃんの方は、なぜ仕事も恋愛も順風満帆なの? ]
[ 今やお姉ちゃんは " キャスターという華やかな仕事 " を得て脚光を浴び、もてはやされて・・・ お姉ちゃんばかりが、なぜ " 良い所だけ " を独り占めしてしまうの? ]
この『何で、お姉ちゃんなの』という言葉には、上記のようなこれまでギリギリのところで押し止めていた、
[ 私が " 手に入れられないモノ " を全て手に入れるなんて・・・ なぜ、お姉ちゃんばかりが良い思いをするの? ]
という " 百音に対する積年の思いと嫉妬心 " が複雑に絡み合い、とうとう抑えつけられなくなって放たれた言葉にしか・・・ 筆者は思えてならないのだ。そしてこの言葉を投げかけつつ、眼光鋭く百音の方に視線を送る妹・未知。
その時、妹・未知の視線に飛び込んできたのは・・・ 廊下から透過した白熱電球に照らされて、オレンジの暖色に染まる百音の顔だったのだ。
そして、オレンジの暖色に染まる百音の背後には、前日に亮から『可愛いね』と褒められた、妹・未知自身が " 東京で購入した白いジャンパースカート " がハンガーに掛かっていて・・・ それも同時に目に飛び込んできた。
さて " この二つ " が妹・未知の目には、どのように映っていたのだろうか。まず、オレンジの暖色に染まる百音の顔は、
[ お姉ちゃんは " 煌く東京の街 " に既に馴染み、仕事も恋愛も順風満帆 ]
[ りょーちんさんから求められて・・・ オレンジ色に染まるお姉ちゃんは " 艶めかしいほどの女性の色気 " を醸し出していた・・・ ]
というように映っていたのではなかろうか。そして " 東京で購入した白いジャンパースカート " は・・・ 初見の際に筆者の目には、「東京を象徴するスカイツリー」のようにも感じられたのだ。
このスカイツリーは、実は白をベースとし、若干青みがかった「藍白」という色を採用している。ジャンパースカートという、タワーに見えるような形状の選択といい、白という色の選択も・・・ 妹・未知の目には「東京の象徴が映っている」といったメタファ―的な意味合いを、ビジュアルで印象付けることを制作者や演出家が狙っていたのではなかろうか。
まとめると、『何で、お姉ちゃんなの』と言葉を発した後に、妹・未知の目に飛び込んできたのは、
女性としての艶やかさと東京生活の謳歌を感じさせる、" オレンジ色に染まる百音の顔 " と、その背後にはスカイツリーを髣髴させる " 東京で購入した白いジャンパースカート " だったのだ。その瞬間に、
[ りょーちんさんは、東京生活を謳歌するお姉ちゃんに惹かれて・・・。褒めてくれた私の服だって、東京で買ったものだ。りょーちんさんも " 東京という存在 " に、無意識に惹かれてしまっているんじゃないの? 結局、" 東京という存在 " が・・・ 何でもかんでも奪っていってしまう ]
といった、やるせない気持ちがどんどん増幅していったのではなかろうか。
○それはまるで「地方を支配し、成果物を奪っていく東京の象徴」のように・・・ 彼女の心へと突き刺さっていく
やるせない気持ちがどんどん増幅して最高潮になった時、妹・未知は突然立ちあがり、ハンガーにかかった " 東京で購入した白いジャンパースカート " を手に取って・・・ 思いっきり百音に投げつける。
さてここでは、妹・未知の個人的なやるせない気持ちを、姉・百音にぶつけるということもあるのだろうが、
[ " 全てを奪っていく東京 " という存在に対する、" 地方の憤り " のメタファー ]
ということも、代弁している演出のようにも感じられる。初見の際にその印象を強く感じて・・・ いくつもの意味合いを何層にも込めた映像に、筆者は涙が止まらなくなった。
さて、百音としては、「" 東京の色 " に染まって故郷・亀島から気持ちが離れて、" あの日 " のことを過去のものにして、妹・未知や亮を置き去りにしよう」と考えていたかというと、彼女としてはそのような気持ちはさらさら持っていないように感じる。しかし、妹・未知の目からすると・・・ どうしても、そのように見えてしまうのだろう。過去の放送回では、菅波のこのような指摘が非常に興味深い。
[ 東京という街で生き抜くためには、その環境に順応した " 最適な立ち振る舞い " がある。それが " 故郷の視点 " から見ると、故郷を忘れて気持ちが離れてしまっているように・・・ どうしても見えてしまう ]
故郷・亀島から気持ち離れたわけではなくても・・・ 百音が東京生活を謳歌すればするほどに、" 故郷からの視点 " では、どうしてもそのように見えてしまう。今作では " 地方から上京した人々が日々抱えているジレンマ " のようなものも、映し出しているのではなかろうか。
○演者と制作者が一丸となって・・・ " 地方の憤り " のメタファーを模索する
やるせない気持ちが最高潮に達して、" 東京で購入した白いジャンパースカート " を思いっきり百音に投げつけてしまう妹・未知。
全120話の中でも、 " 作品のメッセージ性 " を強烈に印象付けた屈指の名シーンであり、筆者が2年前から " 『おかえりモネ』と人生哲学シリーズ " を書き始めるキッカケになったシーンでもある。しかし・・・ ファンの方々は既にご存じとは思うが、当初の演出プランでこのシーンは、「畳の上に置いてあった服を、妹・未知が百音に投げつける」というものだった。
それで妹・未知を演じる蒔田彩珠氏が語るには、当初の演出プランでは、リハーサルで上手く感情を作れなかったそうだ。そこで「ハンガーに掛かった服を百音に投げつける」という演出プランを提案したのが、清原果耶氏だった。
では、もしも当初のプランだった、「畳の上に置いてあった服を、妹・未知が百音に投げつける」という演出のままで映像化したことを想像すると・・・ その演出であるならば、筆者としてもここまで思い入れが強いシーンにはならなかったと思う。そして筆者の目には、 " 思慮の浅い姉妹のケンカ " という意味合いにしか映らなかっただろうと感じるのだ。この蒔田氏が語る「モヤっとしていた」というのは、
[ 単に、畳の上に置いてあった服を投げつけるだけでは " 思慮の浅い姉妹のケンカ " といった、 " 表面的なモノ " しか視聴者には伝わらないのではなかろうか? ]
[ 妹・未知が長年に渡って募らせていた " 鬱積した重層的な思い " を、思いっきり姉・百音に " 赤裸々にぶつける " ということを、象徴的に表現するためには・・・ このままの段取りと所作で、果たして表現しきれるのだろうか? ]
といった、上記の感情を伴った " 迷い " のようなものだったのではなかろうか。しかし芝居の中で流れる空気感や、共演者の心理を感じ取る能力が非常に高いと思われる清原氏は、蒔田氏の " 迷い " のような感情を敏感に察知する。さらに、頭脳明晰で機転の利く清原氏は、
[ いくら百音に対して " 積年の思いと嫉妬心 " を抱いていたとしても・・・ 妹・未知は姉を慕っている側面もある。百音と面と向かった状態で、服を思いっきり投げつけることなんて、果たして出来るのだろうか? 演じる蒔田氏にそのような感情が、芝居中に沸き起こってくるのだろうか? ]
[ " 白いジャンパースカート " をハンガーに掛ければ、「妹・未知の目には、まるでスカイツリーのように映っている」という意味合いの映像となり、" 未知の鬱積していた憤りの感情 " も、演じる蒔田氏の心の中に生まれやすいのではなかろうか? ]
[ " 白いジャンパースカート " が、「まるでスカイツリーのように、姉・百音の背後でそびえ立っている」という光景が妹・未知の目に飛び込んだら・・・ " 未知の鬱積していた憤りの感情 " は爆発して、その感情をスムーズに、姉・百音へとぶつける演技を引き出しやすくなるのではなかろうか? ]
と考えて、演出プランの変更を蒔田氏や演出家側に提案した可能性が非常に高い。さらにこの清原氏の機転が、「 " 全てを奪っていく東京 " という存在に対する、" 地方の憤り " のメタファー」という意味合いも結果として付与できたことで、このシーンにより切なさや深みが増幅されたと筆者には感じられるわけだ。
また " このカットを撮る (入れる) " という判断をした、カメラマンや演出家の機転にも、拍手を送りたい。
当初の演出プランの「畳の上に置いてあった洋服を、妹・未知が百音に投げつける」であれば、" 畳の上の洋服を俯瞰で撮影したカットを入れる " という編集は、あざと過ぎて視聴者が興ざめする可能性が高い。したがって当初は、" 白いジャンパースカート " を撮影する予定が無かったことも考えられる。
しかし演出プランの変更で、「" 白いジャンパースカート " を撮影したカットが必要ではないか?」と咄嗟に思いついた・・・ このカメラマンや演出家の機転も、結果として妹・未知が長年に渡り募らせていた " 鬱積した重層的な思い " をより一層、際立たせることに繋がったわけだ。
そして " 白いジャンパースカート " に、仰角でゆっくりとズーミングしていくカットは、
[ " 白いジャンパースカート " が、まるで堂々と君臨するスカイツリーのように映り、同時に " 地方を支配し、成果物を奪っていく東京の象徴 " のように・・・ 妹・未知の心へと突き刺さっていく ]
ということを、映像で表現しようと試みているようにも感じられる。この直後の妹・未知のカットが、非常に興味深い。
妹・未知の視線は百音から外れ、背後の " 白いジャンパースカート " の方へと移動している。それと同時に、
[ りょーちんさんに『可愛いね』と服を褒められて、あれほど嬉しかったのに・・・ それも " 東京のモノ " だった。そして " 東京の色 " に染まっていく、お姉ちゃんにも惹かれていくりょーちんさん。結局は・・・ " 東京という存在 " が、何でもかんでも奪っていくじゃないか!! ]
といった、やるせない気持ちとフラストレーションが最高潮に達した瞬間に、妹・未知は " 東京で購入した白いジャンパースカート " を手に取って・・・ 思わず百音に投げつけてしまうのだ。
この東京生活を謳歌し " 東京の色 " に染まっていく百音に、東京を象徴する " 白いジャンパースカート " を投げつけるという行為自体に・・・ 妹・未知からの " 痛烈な皮肉のメッセージ " が込められており、また百音にしてみれば、 " 非常に残酷なメッセージを突き付けられた " というところではなかろうか。
そしてこの放送回を見るたびに、胸を掻き毟られるほどの切ない気持ちになるのは、このような理由が大きいのではないかと考えている。
○姉妹であれど・・・ お互いに傷つき、そして傷つけ合ってきた
一方、" 白いジャンパースカート " を投げつけた後の妹・未知は、
[ ああ・・・ やってしまった・・・ ]
とようやく我に返って自分の行動に驚きつつ、姉・百音を傷つけてしまったことを、後悔しているような表情を浮かべていた。妹・未知のやるせない気持ちとフラストレーションを、思い切りぶつけられた百音は、一瞬何が起こったのが分らない表情だったが・・・
次第にその事態を把握する。しかし百音は、服を投げつけたのが " 自分の妹 " であることが未だに信じられず、「嘘でしょう・・・」と況やばかりの表情で、未知に視線を向ける。
[ みーちゃんが長年に渡って募らせていた " 鬱積した思いとその憤り " を・・・ とうとう私にぶつけてきたのか・・・ ]
[ 私は無自覚だったが・・・ りょーちんから求められても " 気づかないフリ " をして誤魔化していたのか。そして " そのズルさ " に、みーちゃんは・・・ ずっと前から気づいていた ]
といった驚きと同時に、「もしかすると・・・ " パンドラの箱 " が空いてしまったのかもしれない」といったような、これから襲ってくる災いを想像して恐れおののいているという表情にも感じられる。
一方の妹・未知は、相当落ち込んでいるような表情を浮かべており、その表情を目にした百音の心はますます混乱を極めて・・・ 思わず一筋の涙を流す。
しかし次の瞬間には・・・ 妹・未知から視線を外して、顔を背ける百音。
さてこの時の百音の行動を、皆さんはどのように捉えましたか? 筆者には、
[ 百音には、未だ妹・未知の " 鬱積した思いとその憤り " を受け止める度量が無く・・・ 再び逃げ出した ]
という行動とその意味合いに映ったわけだ。このことは、この3年後となった第19週・94話「島へ」において、百音自身がこのように語っているところが象徴的だろう。
この時に百音は、故郷・亀島から離れた理由が " あの日 " から否応なく背負ってしまった、「何も出来なかったという後ろめたさや、故郷の復興を背負うといった " 息苦しさ " から逃げることだった」ということを、ようやく認める。そして、
と " 津波で受けた心の傷 " によって、妹・未知が苦しんでいることに百音も気づいていたにも関わらず・・・ 当時の彼女自身も、精神的な余裕と度量も無く、受け止めきれずに妹に背を向けて逃げてしまっていた。そう、" 姉妹間の確執とその溝 " は・・・ この日から始まっていたわけだ。
そして、この75話での妹・未知の『逃げたいんだよ。本当は。でも逃げらんないじゃん! 』という言葉は、単に百音が故郷・亀島から去ったことだけを指すのではなく、
[ 私が " 津波で受けた心の傷 " で苦しんでいる時も・・・ お姉ちゃんは受け止めてくれずに、逃げたじゃないか!! ]
といった意味合いも含んでいるのではなかろうか。このシーンでは百音を下手側に配置して、上手方向へと顔を向いたカットとなっている。『映像力学』的な視点で捉えると ( 詳しい理論はこちら ) 、登場人物が上手方向に向いている場合には " 過去を振り返っている " ということを映像で表現しているため、「妹・未知の言葉によって、百音の脳裏には " 姉妹間の確執の始まりのエピソード " が蘇っている」ということを、暗示しているとも考えられるわけだ。要するに、
[ この瞬間に百音の目に映ったものは、妹・未知の姿と同時に・・・ 津波で受けた妹の心を傷を受け止めきれずに、背を向けて逃げた " 百音自身の姿 " だった・・・ ]
ということを、映像で表現しているのではなかろうか。
また、百音の脳裏には " 逃げた自分の姿 " が蘇っている瞬間に、さらに追い打ちをかけるように妹・未知は、" 過去を振り返っている上手方向の百音の背中へ " と向かって、服を投げつける。
このような意味からも、このシーンは妹・未知からの " 辛辣なメッセージ " が込められており、また百音にしてみれば、 " 非常に残酷なメッセージを突き付けられた " ということにもなるのではなかろうか。
さて、この第15週と翌週の第16週での妹・未知の様々な言動は、放映当時は『さすがに・・・ やり過ぎではないか?』との意見も多く見られ、また議論を巻き起こしたとも言われている。しかし筆者としては初見の際でも、彼女の行動が決して " やり過ぎ " には感じられなかった。むしろ、演じた蒔田氏と同様の感慨を覚えたのが印象的だった。
この75話のシーンも含めて、第15・16週での妹・未知の様々な行動は、決して " やり過ぎ " とは思えず・・・ 筆者は百音よりも、むしろ妹・未知の心情に思わず感情移入してしまう。もっと言えば、これらの状況が生まれたのも、「百音が決して悪いわけでもない」というところが・・・ さらに観る者の感情を掻き乱していくのだろう。
さて、この75話で服を投げつけられても・・・ 百音自身に " 妹・未知の鬱積した思いとその憤り " を正面から受け止める度量があれば、 " 姉妹間の確執とその溝 " は、比較的に早期に解決していたのかもしれない。しかし今の百音には、未だ受け止める度量も無く・・・ この時点でも未知とは向き合わずに、「再び逃げてしまった」ということを、" 妹から顔を背ける所作 " で表現していると考えられる。
そして " 姉妹間の確執とその溝 " が埋まるためには・・・ この時点から、さらに3年という歳月を要することになってしまう。したがって、このカットでの " 百音の妹・未知から顔を背ける所作 " が、姉妹間の確執が今後も続くことも表現しているのだろう。
さて少し話は戻るのだが、妹・未知が語った " このセリフ " を、皆さんはどのように感じられましたか?
このセリフは亮の気持ちを代弁しつつも、妹・未知自身の心情も語られていたように思う。その一方で、百音の方も " あの日 " 以来、心に傷を負って立ち止まった状態が続いていたわけだ。
しかし、故郷・亀島を離れて2年が経過し、菅波という存在に出会ったこともあって、ようやく未来へと歩みを進めようとしていた矢先に・・・ 今度は妹・未知によって、再び心を傷つけられたとも言えるのだ。
[ 私だって・・・ 今までたくさん傷ついてきた。 " その言葉 " を・・・ みーちゃんに、そっくりそのまま投げ返したい・・・」
妹・未知から顔を背けた時の百音の心の奥底には、「言い返したい」という衝動が一旦は沸き起こるものの・・・ それをグッと抑えているような表情にも筆者は感じられる。そう " あの日 " 以来、姉妹であれど・・・ お互いに傷つき、そして傷つけ合ってきた。それが " 姉・百音と妹・未知との間の確執とその溝 " の根本的な問題なのだ。
[ どんなに傷つけられたとしても・・・ 私はこの子の " お姉ちゃん " なのだから・・・ ]
感情をグッと抑え込もうとしつつも、涙が溢れ出る百音の表情には・・・ 胸を掻き毟られるような切ない思いに襲われて、何度観ても号泣してしまう。さて筆者は、「 " 切なさ " は、理不尽さと表裏一体の関係にある」と考えている。要するに、
[ 理不尽さと切なさが、ドラマティックさを引き出す " 最大のエッセンス " になる ]
と筆者は信じて疑わない。そして、「誰が悪いわけでもなく・・・ 震災をキッカケに、百音と未知という姉妹がすれ違っていく " 理不尽さと切なさ "」というものが今作をよりドラマティックにし、観る者を虜にしていく要素の一つであることを、第15週・75話の姉妹のコンフリクトのシーンを観るたびに心の底から思い知らされるわけなのだ。
○彼女たちや彼らの " 成長のドキュメンタリー " を見守っている感覚が・・・ 独特の没入感と魅力へと繋がっていく
さてこの75話を筆頭に、『おかえりモネ』という作品に対して、筆者が強く心惹かれた理由の一つが、ドキュメンタリーを見ているかのような、圧倒的な " リアリズム " の空気感だった。この作品との共通性を強く感じるのが、同じく清原果耶氏主演の『透明なゆりかご(2018年)』だ。この作品の制作記者会見で、清原氏がこのように語っていることが非常に興味深い。
この作品では、主人公となる青田アオイを演じる清原氏の周辺には、瀬戸康史氏や水川あさみ氏、原田美枝子氏などの経験豊富で、実力派の俳優陣を配置して固めている。
これは経験豊富な共演者が、各シーンでの芝居の空気感を完璧なまでに作り上げることに徹する。そして " その空気感 " に清原氏がインスパイアされることで、" 彼女自身の心の中に生まれた感情の機微 " をそのまま引き出し、ダイレクトに演技に反映させることを狙ったキャスティングのようにも思えてくるのだ。このことを清原氏は、『スタッフさんだったり、キャストの皆さんにたくさん育てて頂いているんだな』という言葉で語ったのではなかろうか。要するに、
[ 清原氏の目に映るもの = アオイの目に映ったもの ]
[ 清原氏の心の中に生まれた感情 = アオイの心の中にも生まれた感情 ]
といったことを映像化するというような、言わば " ドキュメンタリー的な要素 " を取り入れたドラマ作品のようにも感じられるわけだ。したがって、この作品で清原氏に求められたのは、演技のテクニックやスキルではなく、「清原氏自身の心の中に生まれた感情をより素直に、よりダイレクトに " アオイ " という人物に反映させ、いかに乗せていくのか」ということだったのではなかろうか。そしてこのことを、演出を担当した柴田氏が『清原果耶・成長プロジェクト』という言葉で表現したのだろう。さらに清原氏は、撮影現場の様子をこのように語っている。
要するに、清原氏自身の演技に取り組む際の感情の機微が、素直に且つスムーズに引き出せるように、撮影スタッフや共演者が " 撮影現場の空気感 " を構築することに徹していたことが伝わってくる。このような " 撮影現場の空気感 " が、この作品の随所に映像として記録されているわけだ。そして、特にそのことを体現しているのが、『透明なゆりかご』の第2話であると筆者は考えている。
例えば、我が子を遺棄した女子高生の無責任な言動に、憤りを覚えるアオイ。その " 嘆きと怒りの言葉 " を、教育係の望月紗也子(演・水川あさみ氏)にぶつける。アオイは共感してもらえると思っていたが・・・ " 冷静な言葉 " で窘められる。
このシーンでの水川氏は、
[ 私の演技によって、果耶ちゃん自身が役を通り越して、「なんで共感してくれないの?!」と心の底からムカついてほしい。そのムカつきを・・・ 私に向けてほしい ]
といった " 冷静な戦略を持った演技 " のように思える。したがって、清原氏自身が抱いた感情をダイレクトに引き出すために、水川氏はあえて " 技巧的な演技 " に徹しているようにも、筆者には感じられるのだ。もっと言えば水川氏は、共演者の感情を巧みに引き出すためには、俯瞰的な視点も加味した " 芝居感のある演技 " が必要であると、その百戦錬磨の経験から考えていたのではなかろうか。
この水川氏の演技によって、清原氏の " この目 " にリアリティーが付与されて、まるでドキュメンタリーを見ているかのように視聴者を錯覚させる。そして主人公・アオイという存在に、より感情移入をさせられるのではなかろうか。
また、我が子を遺棄した女子高生役を演じる、蒔田彩珠氏とのコンフリクトのシーンも象徴的だろう。
我が子を遺棄したことが発覚し、両親を伴って産婦人科医院まで引き取りに来た女子高生。しかし我が子を見た瞬間に狼狽し、引き取りを完全に拒否する。アオイの嘆きと怒りが最高潮に達して、女子高生を鋭い目で睨みつける。
7歳で子役デビューした蒔田氏も、この時点で百戦錬磨だ。当然、このシーンでの自分の役回りと " その機能 " を十分に把握し、これまで磨いてきたテクニックやスキルを存分に披露して・・・ 清原氏自身を本気でムカつかせようとしていることが、ひしひしと伝わってくる。
[ 私の演技によって " 主役の女の子 " を、ムカつかせることが、このシーンでの自分の役回りと " その機能 " だ。それを職人のように・・・ 淡々と完遂するだけだ ]
このように『透明なゆりかご』での清原氏の演技は・・・ 演技というよりかは、撮影スタッフや共演者よって作られた " 撮影現場の空気感 " から湧き起ってくる感情に、彼女自身が素直に従っていたように筆者には感じられるわけだ。
さて話を戻すと、『おかえりモネ』という作品にも、ドキュメンタリー感を強く感じるわけだが、出演者自身もこのように感じているところが非常に興味深い。
このように清原氏や坂口氏自身が、「モネ達は、きっとまだ気仙沼で・・・ 現実世界で今もまだ生きていて、日々の生活を営んでいる」といった、ドキュメンタリー感というものを感じていたわけだ。だからこそ視聴者の我々も、「百音や妹・未知、菅波たちの成長のドキュメンタリーを見守ってきた」という感覚が強いのではなかろうか。このように、『透明なゆりかご』と『おかえりモネ』の最大の魅力が、現実世界を目撃しているような " ドキュメンタリー感 " だったのではなかろうか。
その一方で、この2作品の主演だった清原氏の演技に対するアプローチは、作品それぞれに差異があるところが、これまた非常に興味深い。
先ほども述べたように『透明なゆりかご』では、撮影スタッフや共演者よって作られた " 撮影現場の空気感 " から湧き起ってくる感情に乗っかり、清原氏自身が素直に従って表現していたように思う。
一方、『おかえりモネ』では、むしろ清原氏が座長のように " 撮影現場の空気感を作る側 " に回っているようにも感じられるのだ。そしてやはり75話での撮影エピソードが、それを象徴しているだろう。
そうなのだ!! 『透明なゆりかご』の収録時には、清原氏の感情を素直に且つスムーズに引き出すために、共演者の蒔田氏が " 撮影現場の空気感を作る一員 " に徹していたわけだ。
それから3年が経過して『おかえりモネ』での収録時、特に75話では打って変わって、共演者の蒔田氏の感情を素直に且つスムーズに引き出すために、今度は清原氏が「撮影現場の空気感を作る一員に徹する」という、まるで " 役回りとその機能の逆転現象が起こっていた " ということになるのだろう。
この2作品は脚本は安達奈緒子氏で制作統括には須崎岳氏と、共通のコア・スタッフが手掛けていることも、蒔田と清原氏の " 役回りとその機能の逆転現象 " をより鮮明に際立たせているように感じられる。
したがって『おかえりモネ』第15週・75話の放映当時に、一部では「百音と妹・未知とのコンフリクトのシーンが感慨深かった」という感想も見受けられた。おそらくこのような感想を抱いた方々は、『透明なゆりかご』・第2話を過去に観ており、清原氏と蒔田の " 役回りとその機能の逆転現象 " は、よりしみじみと深い感動に襲われたのではなかろうか。
さらに清原氏に注目してきたファンからすれば、この逆転現象が " 俳優・清原果耶の3年間の成長の軌跡 " を、このワンシーンで完璧に体現しているようでもあり、まるでドキュメンタリーを目の当たりにしているような感覚が、さらに感慨深さを増幅しているようにも思える。
また、『おかえりモネ』第15週・75話での清原氏の「撮影現場の空気感を作る一員に徹する」という立ち振る舞いの変化は、共演者である坂口健太郎氏の " 撮影現場での取り組む姿勢 " にも、大きく影響を受けていたことを窺わせる。
このように「撮影現場の空気感を作る一員」といった、坂口氏の取り組む姿勢が、清原氏にも相当影響を与えたことは想像に難くない。そして、そのことが75話の " 百音と未知のコンフリクト・シーン " として結実するわけだ。
ということは、ここまでの全75話分の百音と妹・未知のエピソードやストーリー展開は、この第15週・75話での「未知が百音に " 白いジャンパースカート " を投げつけるシーンへ」というベクトルに向かって、" 演じる蒔田氏の感情を誘導する " ということに、制作陣や清原氏がかなりの労力を割いていたとも言えるのだろう。
そして、蒔田氏の方はと言えば、" 『透明なゆりかご』の清原氏 " のように、彼女自身が感じた " やるせない気持ちとフラストレーション " を、素直に且つダイレクトに表現した・・・ これぞまさしく『おかえりモネ』の有する " ドキュメンタリー感 " を完璧に体現する、その真骨頂のシーンだと筆者は思えてならないのだ。
さらに特筆すべきは、白いジャンパースカートを投げつけられた後の、清原氏の演技の急速なアプローチの変化だ。それまでは、" 蒔田氏の感情を誘導すること " に徹していた清原氏だったが、白いジャンパースカートを投げつけられると・・・ 百音が感じているであろう " 切なさと悲しみの世界 " に、清原氏自身の感情もシンクロして、一気に切り替わって没入していっているような表情に見える。
この急速な切り替えが・・・ 『透明なゆりかご』の時代では見られなかった、清原氏の " 俳優としての成長と進化 " を映像として提示されているようにも感じられる。それと同時に若い彼女から、「これこそが正に主演たる風格」というものも、ひしひしと伝わってくるわけなのだ。
○エピローグ(第15週・75話の総括)
何度も言うようだが、 " 『おかえりモネ』と人生哲学 " という一連のシリーズ記事を書き始めたキッカケは、やはり第15週・75話の百音と妹・未知とのコンフリクトのシーンだった。その初見で感じた、「普通に考えれば妹・未知の言動は、わがままでやり過ぎの " 百音を傷つける存在 " なのにも関わらず・・・ 全くそのようには感じられなかった。それはなぜか?」という、筆者自身の感覚を論理的に解き明かしていくというのが動機だったわけだ。
そして、シリーズ記事を書き続ける中で分ってきたのが、『おかえりモネ』は勧善懲悪のような一目瞭然の " ウエルメイドな作品ではない " ということだった。
例えば、75話の百音と妹・未知とのコンフリクトのシーンを観て、一方的に未知が悪いと感じるのならば、「それは百音の視点から捉えているからだ」ということに気づいた。要するに、妹・未知の視点から捉えれば「自分本位で勝手気ままな姉・百音の方も悪い」とも言える。そうなのだ!! 第15週と翌週の第16週での妹・未知の様々な言動を、「やり過ぎ」や「わがまま」と捉えるならば、それは " 百音・菅波の視点 " で捉えていることに他ならない。
実は翌週の第16週では、「視点の差異から発生する、事象への捉え方や考え方の違い」というものが、登場人物たちによって語られていく。それは、地方と都市部の捉え方や考え方の違いや、地方に残って生きる人と都市部に出て生きていく人の捉え方や考え方の違い、当事者と非当事者との捉え方や考え方の違いといったようにだ。
今作の脚本を担当した安達奈緒子氏は、他の作品においても「見る視点が変われば、善悪も変わる」、「見る視点が変われば、正解も不正解も変わる」といったメッセージを込めている。例えば『透明なゆりかご』では、人工妊娠中絶手術(アウス : Auskratzung) に疑問を感じた主人公・アオイが、産婦人科医の由比院長(演・瀬戸康史氏)にこのような問いかけをする。
こういった産婦人科系のドラマの場合は " 人工妊娠中絶をする行為 " を否定的に描くことが多いと思う。しかし『透明なゆりかご』では、どちらか一方の肩を持つこともなく、両方ともに肯定も否定もしない。そして、
[ 捉え方は一つだけじゃない。問題があるならばみんなで考えて、各々の中にそれぞれの答えを出せばよい ]
と「捉え方は一つではない。答えも一つではない」というような両論併記的なメッセージを作品に込めているわけだ。
NHKの由緒ある「朝ドラ」。たった15分で1話をまとめなければならず、視聴者は出勤・通学前の最も慌ただしい時間に観るため、一目瞭然の " ウエルメイドな作品 " というものが「朝ドラ」の定番のフォーマットだったであろう。そのような中で、ストーリー展開は非常に遅く、両論併記的な一見分りにくいメッセージという・・・ 『おかえりモネ』のアプローチは、ある意味挑戦だったことには間違いない。
しかし映画のように、隅々まで注意を払いながら観る「朝ドラ」は・・・ 非常に新鮮であり、筆者をどんどん虜にしたわけだ。そういった意味合いでも、何度観ても新しい発見がある・・・ この第15週・75話は " その象徴 " であるようにも思えるのだ。
さて次回の記事も、このシリーズを書き始めるキッカケとなった、16週・「若き者たち」だ。百音と未知との姉妹間の亀裂が決定的なものとなる中で・・・ 失踪した亮を迎えに行く百音。そして彼女がいない『汐見湯』に菅波が訪れる。
次回も名場面が目白押しの、第16週の前半を集中的に取り上げた記事を展開したいと思う。乞うご期待!!
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