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【短編小説】 びんちょうのすきやき


東京駅でご飯を食べるのだと前日の夜はとても張り切っていたのだと祖父は語った。いや、おれにもさ、明日は東京駅で弁当買ってきてやるから、楽しみにしておけよ、って言ってたんだよ、それがこんなことになっちまうなんてな。

祖父は意外にもあっけらかんとしているように見えた。祖父のそんな様子に、僕はいくらか安心させられた。祖母が産んだふたりの娘は一足早くに病院に着いていて、病院の廊下に備えられた椅子に座っていた。ひさしぶり、と僕が声を掛けると、ふたりとも顔を上げて喋りだした。ご飯はちゃんと食べているのかとか、今朝はなにか食べてきたのかとか、訊かれた。

僕の家族は誰も酒を飲まないから、食事を純粋に食事として愉しむ。それに、仕事は忌み嫌うべきもの、という思想があるので日常的な会話で仕事に関する話題があがることはほとんどない。あったとしても、それは仕事のことを喋らざるを得ないので喋っているときくらいだ。例えば2年前に父がリストラに遭ったときなんかは、仕事のことを喋らざるを得ないので喋っていた。そんなとくべつな理由がない限り、僕たち家族は仕事のことを話さない。代わりになにを話すのかというと、食事の話、ということになる。ここに来るまでに北大路魯山人の本を読んでいたんだけど、どうやらまぐろをすき焼きにする料理があるみたいなんだよね。と僕が言うと、親類一同は歓声をあげた。従姉妹は美味しそうだと言った。叔母は、そんなものが美味しいはずがない、と懐疑した。

僕も食べたことがあるわけではないから詳しいことはわからないが、魯山人が言うには、脂の多い身がこの料理には適しているらしいので、もしかするとびんちょうでもできてしまうかもしれない。そうなればこの料理は家計的にも、とても優れているということになるね。

おーっ、と叔母は感嘆した。そう、叔母が料理に感心するかどうかは、美味しさよりも値段にかかっているのだ。対照的に、僕の父は、値段よりもどれだけ良い食材を使用しているか、という点を重視している。僕はというと——この家系で酒を飲むのは僕だけ、たったひとりなのだけど——酒のあてになるかどうかを重視している。そして、このまぐろのすき焼きという料理は間違いなく酒のあてになるだろうと僕は踏んでいた。最初にビールを飲みながら前菜をつまむ。それは緑菜のおひたしであればちょうどいい。それをつまみながらまぐろのすき焼きの完成を見守る。前菜を食べ終えてそろそろすき焼きを……という頃にはビールを飲み終えて次の飲みものを注文する。すき焼きにしっかりとした味がついていたら焼酎を水割りにして飲むだろう。あっさりとしていたら、日本酒を頼むだろう。料理をするのはいつも母だったが、鍋物だけは父が担当していた。なかでも、僕は父がつくるすき焼きがとくべつ好みだった。小学生くらいまでは、器にあけていた生卵がなくなって、追加するのを許してくれていたが、中学生に進んだ途端に、卵の追加を許してくれなくなった。それは節約のためではなく、一人前の人間は卵一個で一食のすき焼きをやりくりするのだ、それがうまい食べかたなのだ、と父は言って教えてくれた。当時は、父がなにを言いたいのかよくわからなかった。食べたいものを食べたいように食べさせておくれよ、と思っていた。しかし、今になってやっと父が言わんとしていたことがわかった。家から病院へ向かう際に祖父はジャージをスラックスに穿き替えた。上衣は速乾性のあるユニクロのスポーツウェアだったが、ポロシャツに替えた。祖父の背筋はぴんと伸びていた。歩幅も大きかった。着ている服がその人の所作をつくるのだ、と何年か前に僕に教えてくれたその人は唐突に僕の前から姿を消してしまった。

おれがいなくなってしまったそのときにはおれは青森の山奥にいるだろう。雪深い青森の山奥に……とその人は酔うといつも言っていた。荒唐無稽だ、と僕は思っていた。いなくなってしまうはずがないじゃないか、と。しかし、ほんとうにいなくなってしまったのだ。あることをきっかけに。その人はいなくなってしまった。僕は目をつむって、青森の山奥というのがどんな場所なのか、一生懸命想像してみるのだが、僕が想像できる青森の山奥の季節はいつも夏だった。せみやそのほかの昆虫が人間の耳をつんざかんとばかりに鳴いている。一度目を開けてから、何度想像し直しても季節はいっこうに冬にはならなかった。

おれがいなくなったそのときには、おれは青森の山奥にいるだろう。とかれが述べていたのはもしかすると書き置き、、、、のようなものだったのではないか。その人は誰かに見つけだしてもらうために、書き置き、、、、を残していたのではないだろうか。しかし、雪深い青森の山奥をうまく想像することのできない僕にはその場所を訪れることはできない。だから僕はかれを探そうとしなかった。仮に、祖母がこのまま、目を覚さないまま、意識も戻らないまま、脈拍も絶え絶えに途絶えてしまったら、祖母はどこへ行ってしまうのだろう。書き置き、、、、なんて、祖母は残していなかった。


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