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【#時事】 せっかく毎日ニュースを読んでいるのだから、時事に関する記事投稿もしてみてもいいのではないか

新聞を購読してから、毎朝それに目を通すのが日課になった。新聞を読み始めてから、世の中がいくらかクリアに見えるようになったような気がしている。

現在地を把握することで行き先(未来)を想像しやすくなった。それによって、僕の心はいくらか安定し、現在地での行動や活動に脇目も振らずに、一心不乱に取り組めるようになった。


ネットニュースではなくて、なぜわざわざ高い購読料を支払ってまで新聞を読むのか?——それは、雑音が少ないからだと思う。ビュー数を稼ぐための派手な見出しも少ないし、広告も限定されている。

最近は大手の新聞社であっても、「ネット記事化」にあたって、派手な見出しや不確かな広告を掲載するところが増えてきたが、はっきり言って論外だと思う。メディアの大家たいかとして品位を保ってほしい、と切に思う。

品位ある新聞をこれからも購読していきたいと思う。



で、せっかく毎日ニュースを読んでいるのだから、時事に関する記事投稿もしてみてもいいのではないかと考えた。このアイデアは、じつはずっと前からあったし、#日記 の記事中で試験的に取り組んだりしていた。



なぜ、アイデアを抱えこみながらも長らく実践できなかったのかというと、宮澤大和のnoteで時事を取り扱うことが本当に望まれるだろうか、という悩みがもっとも大きい。このnoteでは、現在、短編小説とエッセーを中心に投稿している。



毎週土曜日には「#振り返りnote」という企画で、過去記事を振り返りそれに現在の僕がコメントを述べていく、ということをしている。本当は、曜日ごとに企画分けして、記事を連載投稿していくようなかたちを採れたらきれいなんだろうけれど、余力と地力が足らず、そこには至れていない。

中心に投稿している短編小説やエッセーでは、なるべく間接的に、婉曲的に、世の中に対する意見——と言ったらまがまがしいけれど、そんなようなものを——書いてみようとしていた。というか、もっと正確に言えば、僕は短編小説やエッセーという形式レンズを通して世の中を見ることで意見(のようなもの)を形成していたのかもしれない。なぜなら、僕は書くことを通してでしか、ものを考えることのできない人間だから。

時事についてを書くとなれば、当然直接的に意見を述べなければならないようになる。それは僕にとって難しいことであるかもしれないが、やってみる値打ちのあることだ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。