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【短編小説】 メイクアップ

簡単な撮影だ。緊張する必要はない。君はふだん通り、自然に振る舞っていればいい。あとのことは私たちに任せておけばいい。悪いようにはしない。私たちは君をきれいに撮る。君のきれいな部分だけを編集して、つなげることができる。私たちの編集チームを信頼してほしい。

それならば、と僕は承諾した。

誰かにそこまで力強く説得された経験が僕にはなかったから。一度くらい誰かの期待に応えてみてもいいかな、と思ったのだ。僕はメイクアップルームに連れて行かれた。僕の肌の上にクリーム状のものが塗りたくられていく。クリーム状のそれが肌に馴染んで乾いていくと、石膏のように固まって僕は表情をなにひとつ動かせなくなった。化粧をするとはそういうことなのだ。違う自分になるということ。自分とは違う自分を演じる準備をするということ。

「口紅は重いですね」

と僕は言った。スタイリストは、あら、そう? と応えた。そのうち慣れるわ。

そのうち慣れるのか。慣れる頃には、僕は違う自分になれている。

「口紅とファンデーション。それから、先ほど眉の上にのせてもらった絵の具みたいなもの……」
「アイブロウのことね」
「アイブロウ、ですか。自分の顔になにかのっているみたいに、重さを感じます」

僕の首もとにネックレスが巻かれた。宝石。それもすごく重い。

「僕は油絵を描いたことは、生まれてから一度もありませんが、化粧をすることと、カンヴァスに油絵の具をのせていくことはひどく似ていると思います」

スタイリストはなんの反応もしなかった。まるで僕の声が聞こえていないみたいに、自分の仕事(僕を飾り立てて、僕を僕でない存在にすること)に集中していた。あるいは本当に聞こえていなかったのかもしれない。彼は本当に集中していたから。それは僕から見てもわかった。でも、僕は構わないで喋り続けた。

「だからもし画家がメイクをしたら、画家の描く絵は、画家が絵そのものに対して抱く意識みたいなものは、だいぶ変わると思うんですよね。

スマートフォンの、アプリで撮る写真って詐欺的に補正されるじゃないですか、顔が、きれいになるでしょ? 僕はそれに否定的だったんです。ありのままを写すべきだ、と思っていたんです。けれど、あれは、化粧と同じことなんですよね。

僕は、絵を描いてみたことはありませんが、絵を見ることは好きなんです。サッカーをするのは得意じゃありませんが、観戦するのは得意です。それと同じことです。いろいろな絵画展に足を運んで、気に入れば画集を購入したりもします。

画集のなかで、画家の人生や、画家自身の言葉が、必要に応じて紹介されます。僕はそれに目を通すのも好きです。僕の好きな画家が言っていました。自画像を描くときに肌の不調をそのままに描かなかった。シミとか毛穴がないようにした、って。自画像を好ましいものにしあげるというのはそういうことなんだ、って、書いてありました。僕はそのとき思ったんですね。あぁそういうことなら、詐欺的に補正されるあのカメラアプリも許容されるべきなんだ、と。言うなればあのアプリケーションは、絵画と写真を融合させたような存在なんだと、僕は考えたんです」


「終わりました」スタイリストが僕の上半身を覆っていた、ゴミ袋の切れ端みたいなそれを取り払って言った。「撮影頑張ってくださいね」

僕は椅子から立ちあがって鏡のなかにいる自分を見た。そいつは本当の僕よりも、大きくてくっきりした眼で僕のことを見つめてきた。僕は少しだけ胸が騒いだ。


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