見出し画像

【短編小説】 メタバース 3.0

打ち上がる花火。スーパードライの空き缶をビニール袋のなかにしまって、無糖レモンサワーを出した。もうだいぶ酔いがまわっている頭で、僕はなぜだかメタバースのことを考えていた。この前に参加していたアート・フェスティバルで、急きょトークセッションが催されることになった。その打ち合わせにオンラインで参加させてほしい、と連絡したところ、先方が読み違えてトークセッション本番もオンライン参加する手筈になってしまっていたようなのだ。確かに、先方が読み違えるようなメッセージを送信してしまった僕にも落ち度はあるが、いくらメタバースとは言っても……自分の作品についてを語る/語ってもらうためのトークセッションで、ゲストはリアルに来場していて、ホストの僕がオンライン参加するっていうのは甚だ礼儀が欠けている、とは思わないか。思わないのか。メタバースだから。

僕みたいな古い価値観を持っている人間はそんなふうに考えてしまう。けれど、早くも新しい価値観にアップグレードしている人たち(僕からすればそれは少数派であるように見える)や自分よりも10歳以上若い世代とかはべつにオンラインであること/オフラインであることをいちいち気にしないのだろうか。

「展覧会のチケットの売れ行きがかんばしくないんです」

と、わたしが澁谷さんに告げたのはこの展覧会が始まる2週間くらい前のことだ。その日は澁谷さんのアトリエにお邪魔して制作の現場を取材させてもらうことになっていた。モデルの女性が、ポーズをとっている。服は着けていない。テキスタイルを何枚か手に持って、隠部や乳房を隠すとも隠さないような感じでポーズをとっている。澁谷さんは衛星のように周回しながらカメラのようなものでモデルをとらえていく。しかし、そのような時間も長くは続かなかった。わたしがかれのアトリエに到着して、入り口近くにあった適当な椅子——それに座ってから気づいたのだが、アトリエにはほかに家具は置かれていなかった。机もベッドもない。生活感がまるでない。すみのほうに寝袋が雑然とまるめられて置いてあるだけだった。腰掛けて、わたしは右脚を左脚の上にのっけて足を組んだ。右足首をくるくるとまわした。革靴の光沢を確認した。汚れはついていなかった。それからかばんからタブレットをとり出してメモをとる準備をし始めたところで、渋谷氏は「休憩にしましょう」と言った。わたしは立ちあがってかれに挨拶をしようとしたが、かれは頭を抱えて真剣に悩んでいるようだった。その様子から、撮影がうまくいっていると思うには無理があった。わたしは遠慮して持ち上げかけた腰を再び、木製の椅子に凭せ掛けた。

「よかったらどうぞ」

そう言って紅茶をサーブしてくれたのはさっきまでモデルをやっていた女性だった。手頃なテキスタイルを腰に巻いている。乳房は露わになったままだった。わたしは驚いた表情を隠しきれないまま、お礼を述べた。「どうぞお構いなく。休憩なさってください」

すばらしく、高価そうなティーカップだ。わたしはそれをしげしげと眺めていた。

「ごめんなさい。ソーサーがないんです」

「いいえ、そうではなくて。とてもうつくしい器だと思いまして」

「ですよね。この、アトリエに置いてあるものです。極端に物が少なくて——」

モデルは振り返って澁谷氏の様子を確認した。そして声をひそめるようにして続けた。

「何度来ても落ち着かない空間ですが、置かれてあるものはすべてうつくしい——というかこの空間にあるべくしてあるのだと、納得のいくものばかりです」

わたしは頷いた。

「この椅子も」とモデルの彼女は言った。

「そうですね」とわたしは座りながら、座面と背凭れを見やった。指先で軽く触れて、撫でた。

「たぶん今日はもう撮影は終わりですよ」



モデルの彼女が言った通り、その日の撮影はそこで打ち切りになってしまった。澁谷さんは腕組みをしたり頬杖をついたりして、落ち着きなくアトリエを歩きまわった。わたしは椅子に座って、頂いたお紅茶に口をつけていた。紅茶を飲み終わったら、本でも読もうかと思った。澁谷さんの準備が整うまでのあいだ。

奥の部屋——とは言っても扉でしきられているわけではない——でいつの間に着替えを済ましていたモデルの女性は「お先に失礼しますね」とわたしに声を掛けてくれた。「飲み終わったら、椅子の上に置いておいてください」
でも、とわたしは彼女を見上げた。

「給湯室はあの奥にありますが」と彼女は先ほど自分が着替えを済まして出てきた部屋の入り口を視線で示した。わたしのその部屋を見た。「澁谷さんはあの部屋を人に見られるのを嫌がるので」

「わかりました」とわたしは応えた。

「よろしくお願いします」そう言って、彼女は澁谷氏のほうへ向き直った。「明日は何時に来ましょうか?」

澁谷氏は頬杖をついたままかたまっていた。

「わかりました。連絡をください。連絡がなければ11時頃に伺いますね」
そう言ってモデルの女性は去っていった。



玄関の扉越しに車のキーロックが解除される音が鳴った。

「玄関前に停められていた車は、モデルの方のお車なんですね。てっきり澁谷様のものかと思っていました」とわたしは言った。澁谷氏はなにも応えなかった。それでもよかった。突如、ふたりきりになってしまった空間に順応するために、わたしはかれに話し掛ける必要があった。「車のキーロックがはずれるときに、今みたいに、ファンファンって音が鳴ることがあるじゃないですか、わたしはあの音を聞くとですね、まれに、それが犬の鳴き声のように聞こえることがあるんですね。澁谷さんはありませんか?……わたしの感性が変わっているだけかもしれませんけれどね、それが犬の鳴き声のように聞こえてしまうのは、ファンファンって音が犬の鳴き声に似ているというわけではなくてですね、どちらかというと、停められている車が犬に似ていると感じるからなんですね、どういうことかと言いますと、主人を律儀に待っている犬のように見えることがある、ということです。お待ちかねの主人の姿が見えて、嬉しくてワンワンと鳴く犬みたいに」

どんなふうに応答するべきかわからなかった、僕は相手が話し終えてから数秒間動きを止めた。呼吸することによって膨らみ萎む胸部と腹部、そして背部以外はなるべく動かさないように努めた。そして数秒の間が過ぎ去ったのち、僕はやっと動き始めた。アトリエの入り口の方まで歩いていって鍵を締めた。大抵、僕はこんなふうにして返事をすることを回避する。自分の代わりに、沈黙に返事をしてもらうのだ。


今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。