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映画「沈黙-サイレンス-」は考える事を沈黙させない

原作:遠藤周作の小説「沈黙」を、監督:マーティン・スコセッシで映画化した映画「沈黙-サイレンス-」を5日観てきました。
とても深く、いろいろと考えざるを得ない奥行きのある傑作。そしてそれは監督による実写化の功は勿論のことではありますが、(大きな脚色などがなければでありますが)原作が突きつけた部分ではないかと感じます。
「どうせ幕府のキリスト教を弾圧する様子がエグく描かれてるだけの映画でしょ?」と思っている人も多いかもしれないですが、そんな次元で終了してしまう映画ではなく、もっと先の、「信仰とは何か(何であるべきか)?」や「何が正解なのか?」「どうあるべきなのか?」といった哲学的な部分にまで容赦なく疑問を突きつけてきます。

とはいえ、映画が明確な分かりやすい答えを用意してくれている訳ではありません。主人公の宣教師やその他の宣教師、教徒たち、それぞれがそれぞれの答えを見つけて選択していきますが、強いメッセージ性がある映画でもない。
僕自身、明確な答えが出た訳ではありません。とにかく考えてしまう。
この映画を観た人間は、人によって大きく感じ方が変わってくる事が推測されます。
キリスト教徒、仏教徒、その他の宗教信者、無宗教者、日本人とその他の国の人間、安直な思考の人、台詞の行間を読む人など、それぞれでおそらく感想が違ってくるのではないかと考えられます。
ボーっと観ていると「幕府の者は血の通った人間ではない!」で終わってしまうのですが、映画を観て個人的に感じたことを、どうでもいい個人的なミニエピソードを挟みながら書き留めておこうと思います。
メニューは以下のとおりです。
(※本記事は無宗教者の僕が記述するため、宗教を信仰されている方にとっては顔を歪めるような部分もあると思いますが、特定の宗教を非難するような記述はいたしません。また、その意図もありません。読まれる前にご注意ください。)

ミニエピ1:当時であんなに英語ができる日本人がいたの?
ミニエピ2:簡単な英語がちょと聞き取れるようになった!
ミニエピ3:PG12の年齢制限とはどの程度の表現か?
感想1:「ではお主は我が国の事を分かろうとした事があったのか?」
感想2:違いと共存

ミニエピ1:当時であんなに英語ができる日本人がいたの?

この映画は英語の台詞がほとんどです。
主人公たちキリスト教の宣教師はもちろん、幕府の人間も、はては隠れキリシタンの村人までも英語で会話します。
日本人同士の会話はもちろん日本語ですが、主人公たちに話しかける時、日本人はみんな英語で会話します。
うーん……グローバル社会の現在ならともかく、当時で村人レベルでまでそんなに英語ができたのか、ちょっと疑問…(^^;)
ただ、本映画は時代考証なども含めて日本制作陣が協力しているので、そこまで調べていて、本当に隠れキリシタンたちも英語ができたという記録がある……のでしょうか。
誰か知っている人がいたら教えてください。

ミニエピ2:簡単な英語がちょと聞き取れるようになった!

凄くどうでもいい事ですが、今まで映画を観てきて、洋画で初めて部分部分の台詞が聞き取れた事に自分で驚きました。
もちろん割と簡単な単語と文章の台詞だけですが、ヒアリング能力ゼロのため、英語が聞き取れるという事は今までありませんでした。当然スピードラーニングもやっていません(笑)
おそらくTwitterでたまに英語で文章を組み立ててつぶやいたりする事があるので、それを繰り返しているうちに、ヒアリング練習していなくても、ゆっくりとした簡単なレベルの英語はある程度は認識できるようになったのかもしれません。
でもストーリーが入ってこないと困るので、すぐに字幕に集中するように切り替えてしまいました。

ミニエピ3:PG12の年齢制限とはどの程度の表現か?

この映画はPG12の年齢制限があります。
興味があるけどグロいのはやだなあ…と思っている人もいるのではないかと思います。
「ちょいグロ程度なら平気だけど、正視できないくらいのドグロはダメだな~…」という不安を抱えている人もいるのではないでしょうか。
または、「そもそもPG12って何? R12じゃないの?」っていう人もいるかもしれませんね。
PG12とは、「12歳未満は保護者の同伴が必要」という年齢制限です。保護者がいれば問題ありません。
とはいえ、じゃあ3歳の子に見せても良いのかというと、それは規則に関係なく普通に倫理的問題が問われるケースだと思われるので、「保護者の判断に委ねる」という解釈ではないかと思います。
ああ、この子は見せても大丈夫、と判断できた保護者の方が観せてあげてください。(とはいえ12歳未満でこの映画に興味を持つ子は相当渋い趣味を持っている子だと思いますが…(^^;))

それで実際、どの程度の表現があるのかという点ですが、R15ですらないという事でも大体表現の度合いが察しがつくと思います。
それでも表現のレベルが気になって観に行けない!という人のために、少しだけネタバレします。
ネタバレ見たくない人は、スクロールして飛ばしてください。
以下がPG12に該当するシーンです。




















刀で一瞬の斬首。首が転がる。血の噴水などはなく、ただ首が転がります。
そのあと、首の無くなった体を幕府の人間が引きずって片付けます。




















基本的に拷問のシーンなどは見ていてしんどいのは確かですが、ビジュアル的に痛い表現は基本的にありません。
せいぜいが以上のシーンくらいですが、とても短い表現で描いているので、ちょいグロ程度なら大丈夫という人は問題ないと思います。

感想1:「ではお主は我が国の事を分かろうとした事があったのか?」

映画の途中までは幕府による徹底的なキリスト教のあぶり出し、弾圧の様子が描かれ、幕府の恐怖と忌まわしいイメージが描かれるので、大抵の観客は「血も涙もない幕府」というイメージを持つのではないかと思いますが、浅野忠信さん演じる通辞役が出てきてからストーリーの向かう方向に変化が出てきます。
上の見出しの台詞は(細かいところは違うかもしれませんが、こんなニュアンスの台詞で)通辞役が登場した時の台詞です。
信徒たちの信仰の自由を奪って弾圧していると非難する主人公と、それに対する反論をぶつける通辞役。
ここで見ている僕の中にも「気づき」が生まれる。別の角度に違う視点が生まれたような感覚。
この場の議論を切り上げた通辞役は「全く傲慢な奴だな」と言って去っていく。

おそらく大半の日本人も、かつて幕府が行ったキリスト教の弾圧に対して「残虐な圧政」というイメージを持っている人がほとんどではないかと思います。
異教だからと言って信仰することさえ奪うのか、その為に命を奪う事までするのか――と。
確かに聞こえは悪いし、残虐なのは事実であり間違いはない。
しかし主人公の言い分は「キリスト教は素晴らしい」「なぜキリスト教を認めない? なぜキリスト教を信仰してはならないのだ?」というキリスト教側の視点で主張しているとも取れます。
裏を返せば「なぜ仏教ではダメなのだ?」という反論も成り立ってしまう。幕府の考え方はそこにある。

ここで当時の日本を俯瞰してみます。日本の主な宗教は仏教と神道(しんとう)です。
(念のため神道が分からないという人にざっくり説明すると、お寺は仏教、神社は神道です。宗教のルーツが違いますが、僕も詳しくはありません。でもとりあえず日本の国教は神道であるという事くらいは覚えておいた方がいいと思います。)
この2つの宗教で成り立っていた国に、「キリスト教の素晴らしさを世界に広めよう!」として宣教師がやってきました。
彼らの布教によって日本国内に信徒たちが生まれました。言ってしまえば均衡が崩れ始めたとも言えます。
国としての存続を危ぶんだ幕府が異教に侵食される様に危機感を募らせたのではないかというイメージがなんとなく浮かんできます。

だから幕府は力で以って信仰――魂までも封殺しようとする。
もちろん、そこに行動を正当化できる理屈はありません。人命を奪う権利もありません。
幕府は信徒たちの命と引き換えに、宣教師たちに棄教を迫ります。
信仰する事にある意味は何なのか? 信仰とは何なのか? 葛藤にもがく宣教師。

誰が正義で誰が悪なのかとも言えない。
そもそも正義とは何か?
悪の定義は何なのか?
正義と悪は分けられるものなのか?
観客に至っては、そういったレベルにまで引きずり込まれていく事もあるはず。
(そして、もしボーっと観ていれば「幕府はク●野郎!」で終わってしまう;)

感想2:違いと共存

以下は映画そのものの感想ではないですが、映画を観て現実の状況にも通じる部分などあったので、それも書き留めておこうと思います。
この幕府の異教弾圧の構図は、言ってしまえば、健康を守るために体外から流入した異物を排除しようとする図とも取れます。(※僕がキリスト教をそのように解釈している訳ではありません。)

もし、(特例を除いて)外国人が入国できないサウジアラビアなどに密入国して仏教を布教しようとすれば、この幕府のキリスト教弾圧という構図と同じような事になっていてもおかしくないかもしれません。
イスラム教で構成されている国に勝手に入ってきて、「仏教ってすばらしいよ! みんな仏教を信仰しようよ!」と仏教を広げようとすれば、サウジアラビアそのものの存在が根幹から揺るがされかねない。
そのままにすれば国が崩壊して、全く違う国に成り代わってしまう事も考えられる。
それに恐怖を覚える人もいるでしょう。(王族は特に。)

自分という存在が何なのかという情報が確立していないと、人は不安になってしまう。
例えば記憶を失ったとして、自分はどこの国の人間なのか分からない、これだけでも自分が分からなくて不安になる。
人は自分のアイデンティティーを求める生物です。宗教に入っている人にとっては、信仰もアイデンティティーの一部だったりする。だから生活習慣も文化も宗教色が多くを占める事があります。

映画のネタバレは避けたいので詳しくは書きませんが、劇中「キリスト教は日本に根づかない」といった台詞があります。
違う文化、価値観を持つ国に「この宗教素晴らしいよ!」と勢い込んで行って広めようとしても、それはある意味独善的も言える。
白地の紙に黒い液体を注いで黒く染めるのは簡単ですが、黒字の紙に白い液体を注いでも白く染めるのは難しい。(まあ、この例えでは紙と液体の成分次第とも言えますが…(^^;))

「じゃあ、異教を放っておいても良いのでは?」という疑問も生じますが、それは現在の時代の思考でもあり、急にパワーバランスが崩れた場合のある意味当然の反応とも言えます。
現在の日本は多文化が入り混じっていますが、それでも初詣に行ったり、最近で言えば節分もあったりと、従来の日本文化が残っていて、それを日常のように習慣化しています。
仮にこれから1~2年で日本で急激にイスラム教徒が増えたと仮定してみます。ちなみに何故イスラム教で例えるのかというと、イスラム教への入教はものすごく簡単だからです。宗教の中で世界一信徒が多い理由でもあります。
で、短期間のうちに急激なスピードで日本人がイスラム教化していったと仮定します。仏教に入っている人も多いですが、日本人のほとんどは無宗教者なので入教はとても容易です。
その信徒の増え方を見て、「日本がイスラムに侵食される!」と焦りを覚える人がたくさん出そうな気がします。
恐ろしい話、幕府の異教弾圧みたいな事が、政府レベルではないでしょうが民間人レベルで起きるかもしれません。
そして「日本をイスラムから守れ!」と、古い時代のようにまた過激派が誕生する――そういう未来予測も立ちます。

誤解のないように強く主張しますが、イスラム教が危険な宗教という訳ではありません。(むしろイスラムで教えられるのは慈愛の精神で、教典を過激解釈する一派が原理主義者、過激活動を行う原理主義者がテロリストです。イスラムフォビア(イスラム恐怖症)の人はこれらの区別をせずに一緒くたにしています。ユネスコが国際平和財団との共同声明で世界の宗教を比較研究した結果イスラム教が最も平和的な宗教という声明を発表した例もあります。)


日本は信仰の自由を認めています。
これは先の映画の台詞にもあるように、日本に仏教と神道以外の宗教は根付かないという自信と推測があるからのように思えます。
クリスマスとか普通にやっていますが、大半の人間は別にイエス・キリストの誕生を祝う気もない、単なるクリスマスの名を騙ったお祭りであったりもします。
どんなに無宗教者でも、パーセンテージで見れば多くの日本人の根幹には日本的な文化があり、異教文化は根付かないでしょう。
でもだからといって他の宗教を排外する必要はないはず。

もちろん、日本文化で形成された国で他の宗教に合わせる必要はない。
他宗教で禁止されている食材を一緒になって食べないとか、そこまでする必要もない。日本は性的な文化が強すぎると言われたりもしますが、だからといって過剰に配慮する必要もない。(宗教に関係なくモラルの問題で抑制すべきという場合は論じる必要があると思います。これは別問題。)
とはいえ。
とはいえ、それでも。
一日数回の礼拝の時間を認めなかったり、フランスの政教分離などのようにイスラム教徒の女性のヒジャブ(髪を隠すためのスカーフ)を禁止にしたり剥ぎ取ったり、といったこういう扱いは過剰に感じます。
先にも述べたように宗教はアイデンティティーにも関わる要素なので、そうでない人の感覚とはとてつもなく大きな開きのある一大事だったりします。「それくらいの事で…」と思う事でも、当人たちにとっては「それくらいの事」ではなかったりする。その部分の気持ちは汲み取ってあげる心の広さはあって良いのではないかと感じます。
「ここは日本だ、合わせられないなら出て行け!」――なんてのは、いくらなんでも暴論。
ここまで行くと、他宗教に合わせるかどうかではなく、助け合いの精神があるかないかという心の問題に感じます。

僕は無宗教者で、生涯、どの宗教にも入らない。これは予測も含めてです。
宗教で教えられる慈愛や平和のような精神は宗教という括りでなくても成り立つので、宗教は不要と考えています。正直、宗教は争いの火種にしかならないのではとさえ感じています。(不快に思われた方がいたらゴメンナサイ;)
でも宗教を無くす事はできない。規模からしてもそれは完全に不可能でしょう。
だったら寧ろ宗教を認めたほうがいい、人に迷惑をかけない限り信仰の自由を認めて共存する事の方が平和に繋がる……というのが僕の考えであり、映画を観てその考えがより強くなりました。

子供の頃、外国人は希少な存在で、映画でしか見ない外国人を見かけると何か別物のような存在で凄く興味があり、じっくり見てみたいけど失礼かなと思って見たくても見られない――みたいな、そういう異質な存在でした。
今は日本に住んでいる外国人も、観光客も、ビジネスパーソンも珍しくないほどに沢山いて、過去最高記録を更新したりしています。
世界のグローバル化は避けられない。長い間、日本人と日本文化だけで構成されていた国はこれからもっと形を変えていく。日本人以外も、他宗教者も、もっと増えていく。
そのニュースを見た海外の人たちの中では、「せっかく良い文化が残っているのに、日本が変わってしまわないか不安だ」という懸念もあります。
もちろん多少、違う文化も入ってくるでしょうが、伝統文化が潰える事にはならないはず。
だったら日本で生活する外国人の人たちにとっては、他宗教の人たちにとっては、どこまでいってもここは日本であり、そのままでは異世界であったりもする。

人はアイデンティティーを保たないと不安です。
「自らやって来ておいて…」といった言い分もあると思いますが、彼らのアイデンティティーを保つ手伝いをしたり配慮したりするくらいは人として有りではないかな、と僕は考えます。
もちろん、前述のように何から何まで合わせる必要はない。何事も領分がある。
折り合いを付けるのも難しい場面もあると思いますが、助け合いとか、気遣いとか、そんな心の面で互いを思いながら互いに共存していければいいんじゃないかな、と僕は思ったりします。

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