見出し画像

【前編】ぼくらは、「多様性」を使うべきでは無い。

 お久しぶりです。東武太郎です。
 社会問題や日々の疑問について感じることを書き留めようと思っていたのですが、最初の投稿からかなりの時間が経ってしまいました…。
 怠惰な自分に呆れている今日この頃です…。

 さて早速ですが、今回は、「私達は、「多様性」という言葉をどのように用いるべきなのか?」という論点で語ろうと思います。
 その上で、端的に私の結論を言いますと、

「私達は、そろそろ『多様性』という言葉から卒業すべきだ」

ということです。

 誤解して欲しくないのですが、決して、「多様性」という言葉や思想を否定しているわけでも、それによって救われた人々を否定しているわけでもありません。むしろ、「多様性」の功績を肯定的に捉えています。逆に、私は、「多様性」という思想を踏まえて、「『多様性』のその先」へ進むための提言をしようと思っています。

 「急になんの話?」、「過激派の方?」などと思われるかもしれませんが、私なりに思うところがあったので、優しい目で読んでいただけると嬉しく思います。もし間違いや指摘すべき点等あれば、コメントで教えて頂けますと幸いです。


1.「多様性」はなにをもたらしたか?

 昨今、「多様性」という言葉が、ダイバーシティやインクルージョンなどといった文脈で世間を賑わせていますよね。ここ2、3年で急激に広まった「『多様性』を尊重すべき」という風潮はとどまるところを知らず、今やほぼ毎日、あらゆるメディアで目にするようになりました。
 これらの風潮は、外国人の受け入れや女性の活躍、ジェンダー平等、障害者福祉等へ多大に貢献しているように見えます。実際、私の知り合いや家族にも、LGBTQや身体障害、外国籍など、様々なハンデを抱えた人がいますが、彼らはそのハンデを感じさせないほど活躍しており、その効果を身をもって実感しています。

 また、この風潮は企業にも良い影響を及ぼしていると感じています。労働環境の改善やワークライフバランスの尊重、女性管理職の増加等、目に見える効果として現れています。まだまだ発展途上で、世界的に遅れていると批判されることもありますが、企業の確実な進歩には目を見張るものがあるでしょう。
 私自身、就活を現在進行形で体験していますが、実際に働きやすさを改善している企業が目に見えて多いように感じますし、「10年前と比較して、個人個人を重んじる傾向が強い」と、働いている社員さんのお話を伺うこともあります。
 
 以上のように、社会的にも、企業的にも、「多様性」という言葉、思想は確かな効果をもたらしているようです。

2.「多様性」は氾濫危険水位に達している

 では、以上のような効果を肯定的に捉えているのなら、「なぜ私は『多様性』という言葉を卒業すべきだ、と言ったのか?」、と疑問に感じますよね。

 実のところ、「多様性」という言葉は、あと2~3年ほど必要なのではないかと考えています。
 しかし、裏を返せば、「多様性」という言葉は、あと2~3年ほどでお役御免であるということにもなります。

 私は、現状、「多様性」という言葉のもたらす利益は多分にあると考えていますが、しかし、「多様性」が引き起こす弊害が、「多様性」のもたらす利益を上回ってしまうのではないかと危惧しているのです。
 そのような考えを持つに至った「きっかけ」を以下に述べたいと思います。 

2.1 きっかけとしての「トランスエイジ」

 きっかけは、とある「ABEMAニュース」に遡ります。読者の皆さんは憶えているでしょうか。「【トランスエイジ】なぜ年齢ありき社会に?自認する心の年齢って何だ?非公表の若新雄純と考える」という動画です。
https://youtu.be/mixifNHJmrs?si=9SQGHNumwKhKufwa

 この動画は、年齢によって自動的に背負わされる役割や思考に異を唱える方が、自認年齢(トランスエイジ)という概念を用いている、ということを紹介するものです。
 私は、動画を見るまで「トランスエイジ」という概念すら知らなかったのですが、この動画での議論を聞いた際、「多様性」という言葉の危険性を認識するようになりました
 なぜなら、私には、「トランスエイジ」という概念が、「多様性」をいい加減に自分勝手に用いたものだと感じられたからです。

2.2 「トランスエイジ」はなぜ受け入れられないのか?

 「多様性」という言葉には、様々な危険性がありますが、「トランスエイジ」をその代表例としてお話しします。少しわき道にそれますがお付き合いください。読み飛ばしてもらっても大丈夫です。

 まず前提として、「年齢」によって役割や思考を強制される、という問題に対しては、私も違和感を感じています。そして、この問題が露呈するのは、主に、学校教育や、動画内のジャッキーさんのような労働の場面です。やはり人それぞれ習熟度合いや特性が違うのですから、各人に合わせるべきですし、画一的に、「~~歳なんだから、○○しなさい!」というのはある種、暴力的だとさえ感じます。

 しかしながら、「年齢」によって画一的に役割や思考を強制される、という暴力的事態を修正するにあたって、「トランスエイジ」のような概念を用いる必要は無いと私は考えています。なぜなら、[①]「年齢」という概念は時間的、生物的な事実以外のなにものでも無いですし、加えて[②]「ジェンダーとセックス」の関係で言うところの「ジェンダー」にあたるような、自認する概念が存在しないからです。

 [①]まず、年齢とは「出生から何回誕生日を迎えたのか」をしめす数でしかありません。これは皆さん同意していただけると思います。

 [②]また、動画内で言われるような、「自認年齢?」などといった概念は存在しません。確かに、現在、社会で言われるような「性自認」は実在します。これは、身体的性(セックス)と精神的性(ジェンダー)とを分けた際の、「精神的性は何なのか?」を問えば明らかになります。この性自認に関しては医学、心理学的に研究が進んでおり、「客観的」に精神的性、性自認を証明することが可能です。この、「客観性」が故に、社会的にも性自認を尊重する風潮ができていると言えます。
 対して、「自認年齢?」はどうでしょうか。私の理解では、「自認年齢?」は「性自認」と異なり、「客観的」に判断する手段がありません。「性自認」は、先述の通り、精神的性を科学的に問えば明らかになります。しかしながら、「年齢」は人間の精神や社会の構造に由来するものでは無いので、自認する性質のものではありません。強いて言うのであれば、我々が自認するのはライフステージ(幼児、子供、青年、大人、老人等の精神的段階)等で、確かに、それらは社会的にある程度大まかな年齢と結びつきますが、何度も繰り返しますが、直接自認するものは「年齢」ではないでしょう。以上のように、「年齢」とは「出生から何回誕生日を迎えたのか」という、行政文書に記録される数字でしかなく、自認する年齢など存在しないのです。

 長い昏睡状態から復活した人等は、突然与えられる「年齢」に違和感を覚えても仕方がないと思いますが、しかし、それでもなお、その人は行政上に記録された「年齢」を揺ぎ無く持っています。脳の発達が遅れている人や身体の発達が健常者より遅いなどといった場合でも、「年齢」は当然のごとく時を刻んでいます。本当に、例外など存在しないのです。
時間概念が異なる世界や、パラレルワールド、あるいは未来や過去から来た人は、話は別ですがw) 

2.3 「トランスエイジ」という「カナリア」

 以上、長々と述べてきましたが、「トランスエイジ」をめぐる論争はネットでも話題となり、「多様性もここまでくると流石に受け入れられない」といった声が多く寄せられたように思います。私も、すぐ上で述べたような考えを持っていたので、この意見に賛同していました。

 私は、本記事の1章で見たように、

社会的にも、企業的にも、「多様性」という言葉、思想は確かな効果をもたらしている

[本記事、1章末尾より]

と、「多様性」を、現状の社会をより良い社会にする上で、必要な言葉、思想であると認識していました。
 しかしながら、「トランスエイジ」という話題は、私に「多様性」という言葉に対する危機感を持たせました。いえ、むしろ、「トランスエイジ」は私たちの抱いていた微かな違和感を表出させた出来事と言っていいかもしれません。「多様性ってどこまで許容されるの?」「多様性を免罪符のように使われても…」等のように、この危機感には、皆さん薄々気づいていた事だと思います。


「多様性」はその登場時点から危険性を孕んでいたのであり、「トランスエイジ」はその危険性が、その不完全さが、溢れてしまったことを知らせる事件、「カナリア」だったのです。

【後編へ向けて】

 前編では、①「多様性」の効用は多分にあったこと、そして②「多様性」はそれ以上に危機感を抱かせるような危険性を孕んでいること、以上の2点を述べてきました。

 後編(次のnote)では、「多様性」という言葉がどのような危険性を孕んでいるのか?なぜ「多様性」を濫用してはいけないのか?という点を深堀したいと思います。
 また、「多様性」を使わないとして、「多様性」がもたらしてきた利益、効用をどのように維持発展させるのか、についても、素人考えですが提言したいと思います。

 それでは…また…

この記事が参加している募集

#自己紹介

231,067件

#新生活をたのしく

47,926件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?