ことばと本質 ─大統領とテロリスト─ (エッセイ)

学校での《いじめ》が大きな問題になると、 ── その多くは取り返しのつかない犠牲者が出た後で ── 《いじめ》事案を担任教師が学校に連絡したかどうか、あるいは学校から教育委員会に届けられていたかどうか、など「責任の所在」に関して報道されます。
文部科学省もこの問題はきわめて重要と考えているらしく、「学校におけるいじめ問題に関する基本的認識と取組のポイント」というHPには、《いじめ》という言葉が97回も出てきます。ぜひ一度ご覧ください。

このページには、
「《いじめ》はどこにも起こりうるもので、適切に対応する必要がある」
という、実に《間抜けな(失礼、『適切な』)情報》しか書いてありません。
でも、
じゃあ、《いじめ》って何?── は別のページに《定義》されています。
こちらは、平成25年度からの定義(という表記がまたお役所ですが)として、

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍してい る等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な 影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該 行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/06/26/1400030_003.pdf

── わけわかんねえ。

私は、《いじめ》の最大の問題は、きわめて広い範囲の事案に対して、この《いじめ》という、曖昧な言葉を使うことだと思っています。

《いじめ》 ── などというわけのわからない言葉を玉虫色に使っているから《事実関係の確認》に踏み込まないで、
「……たぶん、《いじめ》には該当しない……」
というような判断の延長に、悲劇が起きるのではないでしょうか。

《事実関係を確認》することにより、暴行、傷害、強制わいせつ、窃盗、恐喝、名誉棄損、人権侵害(始まりは大抵これ)などという言葉を適切に使って《表現》することが、《何が起こっているのか》を正確に伝えることになるのだと思います。

《いじめ》という言葉は、極力使わない方がいいのではないか。

この話は下記の記事に、
言葉って本当に大事》
と書いたことがあります:

それは、使う言葉によって、《本質》が見えなくなってしまうことがあるからです。

たとえば(本題に入ります)、
・政敵や自分に都合の悪い情報を流す人びとを毒殺する。
・相手に恐怖を植え付けるために徹底的に町を破壊し、無差別に市民を殺戮する。

こんなことを行う首謀者を、私たちは躊躇することなく、
《テロリスト》
と呼ぶことでしょう。
上に、《最悪の》と付加するかもしれません。

「9.11アメリカ同時多発テロ」の首謀者は《テロリスト》として指名手配され、それを匿ったグループも(一時的に、ですが)壊滅させられました。

ところが今回、その《テロリスト》は、たいそう立派な「肩書き」を持ち、それを匿った(というよりその指示で動いた)グループも立派な名前と権力を持っているようです。

でも、我々一般大衆は、
《事実関係の確認》
から判断して、アタマの中で
《適切な言葉》
を使うことができる。

せっかく《言論の自由》がある国に住んでいるのですから。
当たり前だと思っていましたが、テロリストやそのお友だちが支配する国々を見て改めて思いました ── とっても《貴重》なことなんですね。

ということで、少し表記を変更したのが:


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