光のその影で
絵画が好きだ。
まったく詳しくはないし、熱心に展示会に通うわけでもないけれど、タイミングが合うとだいたい「絵」に心を動かされがちだ。
いま東京に遊びにきていて、
「ゴッホ・アライブ」なる没入型の展覧会に行ってきた。
ゴッホの絵を、大きくプリントして展示したり、動画にして音楽とともにスクリーンに映したり、とにかくにぎやかな展覧会だった。
とてもにぎわっていたし、華やかでたのしかった。
まあでも正直、
本物の絵が好きだなあ、
とも思った。
ゴッホ・アライブの会場には、本物の絵画は飾られていない。
そもそもコンセプトというか主軸・目的が違うのだから、当たり前なのかもしれない。
ただ、華やかな映像にうもれながら、わたしはどうしようもなく本物の絵画が見たくなっていた。
こういう、キャッチーでポップなイベントって、とにかく「人間」が見える。
場所とりに躍起になる人たち、撮影したくて一箇所からまったく動かない人たち、目の前の風景じゃなく画面に夢中になるまなざし、アートがデザインにおとし込まれてポップに人の手にわたってゆく様。
おもしろいことに、観客がスマホをかかげるタイミングって、不思議なくらいにそろう。
かわいらしい花の絵が映ったとき、
つよい青や赤の鮮やかな絵が映ったとき、
映像が激しく派手になったとき……。
何に群がり、何につまらないと思うのか、何なら「伝わる」のか、何が見向きもされないのか。
その人間の興味関心のわかりやすさは、見ていて残酷だとすら思った。
いやそんなとこ見てないで映像見とけよ!って話なのだけれど。
絵画。
絵画と向き合うとき、わたしの中で少なくとも2つの波が立つ。
1つめの波は、目の前の作品・作家への感動。
そして次なる波は、最初の波を俯瞰しはじめて自分自身との対話へとつながってゆく。
絵画はただただ、額縁におさまって、壁に貼りついて、照明をあびて、そこで待っていてくれる。
わたしがニヤけようと、涙を流そうと、上の空でボーッと眺めようと、隅々までなめるように釘づけになろうとも、遠くにいても近くにいても、ただそこに在る。
そんな作品たちを通して、わたしは何十年・何百年の時代を旅するし、外国の彼の地をたゆたうし、見たことのない風景を見るし、作家に出会い、わたしに出会う。
絵画はわたしを「ひとり」にさせない。
置いていきもしない。
「ゴッホ・アライブ」を体験して、とにかく絵画が恋しくなった。
映像はどんどん進んでいくし、絵は動画となって映ったり消えたりするし、音楽は「ここは陽気/切ないですよ」と提示してくるし。
そこに、油絵の凹凸、光と影の立体感、額縁の重厚感、待っていてくれる余裕、好き勝手に楽しんでいい余白、静寂のたたずまいなど、もはや無かった。
いや、とてもポップで色彩豊かでにぎやかでたのしかったのだけれど、ひしめく大勢の人間たちの中で、孤独を感じた。
世の中だと思った、
社会だと思った。
いや、たのしかったけどね。
人間、人間〜、と思いました。
こういう記事を書いてしまうわたしもまた、結局、人間なのだけれど。
こんな書き方をして誰かを傷つけていたら、ごめんなさいね。
それぞれに、それぞれの良さがあるし、合う・合わないの相性もあるし、タイミングもあるよね。
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