作品と「目が合う」瞬間
積ん読は、いい。
なにせ「本と目が合う」瞬間がある。部屋の一角できれいに重なる本の背表紙と、「あっ、」と目が合う瞬間が。
不思議なもんで、そうしたアイコンタクトから始まる読書の旅は、その時その瞬間に自分が探しているものを教えてくれたり、欲していることばをくれたりする。
先日もそんな読書体験があった。読んだのは、吉田秋生先生のマンガ『海街diary』だ。
全9巻のこの作品、実は7巻までは読んだものの、残りの8, 9巻がなかなか読めずにいた。それは、読み終わりたくないという名残惜しさと、この濃厚な物語のフィナーレは最高のコンディションで迎えたいというナゾのこだわりがあったからだ。読むにしても、初夏か、少なくとももう少しあたたかくなってからかな、と思っていた。
そんな折、先週末にこの『海街diary』の続きが無性~~~に読みたくなった。理由はない。ただ、積ん読になっていた背表紙が、やたらと目に入ってくるのだ。あの時たしかに、作品と目が合っていた。
そうして読みはじめた物語も終盤。読んでみればなんと3月の物語なんである。3月13日に読んだのだが、9巻にいたっては3月10日から14日あたりの出来事でまさに「今」なのだ。なんともいえぬタイミングの妙に身震いしたほどだった。
『海街diary』最終巻には、この季節ならではの別れと出会いが描かれていた。ひとつの季節が終わり、また新しい季節が訪れんとするときの、なんともいえぬゆらぎに、わたしの心も共鳴するように揺れ動かされた。海のように果てしなく広がる世界と、主人公・すずたちの限りなく希望に満ちた未来に心が踊る、すばらしい最終巻だった。……考えすぎだとは思うが、これをこの時期に読めたことに、何かの因果がある気がしてならない。
こういう、作品と「目が合う」瞬間をちゃんとつかまえるために積ん読は欠かせない。本を買っておくことや、それを積ん読にしておくことは、伏線を張る行為に等しい。
「積ん読の量に読む量が追いついたらおしまいだ」
そんなことを誰かがTwitterでつぶやいていたが、たしかにそうだ。積ん読はしといてなんぼだ。
本当は買ってすぐに読めばいいのだが、こうして長々とそれっぽい言い訳をしながら、いつか来るかもしれない「あっ、」に備えて、今日も買ってきた本をきれいに重ねている。
積ん読は、いいぞ。
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