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食べるって、幸せで不気味で怖くて楽しい。【ウマし(伊藤比呂美 著)】

なんだかすごく独特な本を読んだ。
「ウマし」(伊藤比呂美著)である。

著者である伊藤さんの食体験が描かれた作品なんだが、なんとも独特でめちゃくちゃ面白く、一気に読み込んでしまった。

言ってしまえば、他人の食生活日記みたいなものなのに、すごく興味深い。
(エッセイって本当に奥深いですよね、なんで他人の日記がこんなにおもしろいんだろ)
表現に人柄が表れていて本当に面白い。
その人の世界観がにじみ出ているというか、その人自身が持つ味自体が染み出ているみたいな…。
例えばきのこ。
きのこに対してこんな風に書いている。
(実際にはトリュフ入りのかき卵とか言う超絶高級そうな一品を食された時の感想なので、料理の上品さと体内に入れた時の野蛮さの対比が面白い)

その料理を食べてる時、その強烈な、体臭みたいな香りに何か思い出しそうになり、いや、男のことではない。
(中略)
落葉やら何やらといっしょに、ヒトの死体が一体埋まっている。どうも知ってる男である。髪の毛も目玉も性器も精液も、何もかもがそこで朽ちている。
そんなイメージだ。きのこのうまみとは、あるいは香りとは、肉の代替品というよりも、何世代か昔に食べたヒトの死体の味を思い出させるからこそ、無闇に惹かれるんじゃないかと思った。

…そんなことある?
きのこ食べてそんなことある?
きのこ食べてそんなグロいことを思ったことはないよ…。
ましてやトリュフなんて「わーすげートリュフとか食ってるワイ!」以外の感情は生まれない。
(知性どこ)
また、2〜3年前くらいに流行ったコンブチャについてもこんな記述をしている。

びんの中には形成された株、つまりきのこ体のようなもの(きのこみたいだがきのこではない)がぬらぬらと漂っている。
(中略)
しばらく夢中で作っていたが、やがて飽きた。
数ヶ月ほったらかしていたら、大びんの中の株がどんどん育った。
ぶ厚くなま白く、ぬるぬらりとものすごい形相になった。
不穏だった。あたしは持て余した。
しかし処分のしかたがわからなかった。
これだって「いのち」である。ゴミ箱に捨ててはいけないと思った。
それである日意を決し、手を洗って身を清め、心静かに株を取り出して庭に埋めた。
お産の胞衣を埋めるのはこんな感じか、いや生き物を生きながら埋めるのはこんな感じか。
作るときの何十倍も薄気味が悪かった。
それ以来、コンブチャは、飲みも作りもしておらない。

なんだか、伊藤さんの食体験というのは生と死の匂いがぷんぷん匂い立つような生臭さがあるというか、生臭さとは違うな、なんか、めっちゃワイルドだ。
でも、なんとなくわかる気もする。
食べ物を捨てなくてはならない時の、「食品ロス」してしまった以外の部分で自分の心のどこかが痛んでいるあの感覚だ。
食べ物を粗末にしてしまったことと同時に強烈に感じる、申し訳なさや罪悪感。
そして、人間によって食べ物化された生き物がそれでもなお成長し続けるという様に感じる恐怖。
伊藤さんの食体験が面白いのは、食事が持つ明るくて幸せボケしたようなやわらかい雰囲気ではなく、ワイルドで、野暮ったくて、率直で、土臭いようなイメージだからのような気がしてきた。


食事というのは、人生において幸せを表す役割を持っていると思う。
ほかほかのご飯、ぶりぶりに新鮮な野菜、あったかいお味噌汁、甘くて懐かしい味のするおやつ。
考えただけで幸せな気持ちになる。
でも、それは元はと言えば人間が食べ物に加工した生き物なのであって、食べた後に生き返ってお腹の中で暴れ出したっておかしなことではないように思える。
ある日、きのこやにんじんの芽が腕からにょきにょき生えてきたっておかしなことではない気がする。
そう思うと、不気味ではあるのだが、実は、私の体に住んでいるのは私だけはなく、私の体というスペースを使って皆で生きてるんじゃないかとかいう訳わからない面白い空想がふくらんでくる。

最後に、なんだか私の中に強烈に響いた伊藤さんのエピソードを引用したい。

あの頃とくによく食べたのが「日清焼きそば」。
水を少なめにそれを作り、ごわごわの麺の上に卵を割り入れ、ぐちゃぐちゃにかき混ぜ、火の上でさらにかき混ぜ、すべての水気をカラカラに飛ばして出来上がり。
親にも友人にも食べさせられない、あたしだけの味だった。
十三や十四や十五、ぱんぱんに張りつめたふくらはぎ、もたつく乳房、慣れない月経をもてあましていた頃だ。
自信なんかこれっぽっちもなく、自分が誰だかもわからなかった。
(中略)
久しぶりに食べたくなって、(中略)思春期の卵入りぐちゃぐちゃカラカラ焼きそばを作ってみた。
ところが。
それは食べ物としては、ただただ不気味なだけだった。
食べても食べてもなくならない。
油じみた炭水化物がすごく重たい。
あたしは、いまだに無頼に生きたいと思ってるし、生きてるつもりである。
でも肉体は確実に古びていて、若かった肉体が生々しく無頼を欲していたときにむさぼり食ってたものには、もう魅力を感じなくなっていたのである。

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