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自分のネガティブをちゃんと受け入れて、ちゃんと吐き出して、日々ちゃんと生まれ変わる。【今日、カレーとシチューどっちがいい?(銀色夏生著)】

私にとって、(そんな深刻でもなくとも)何か辛いとか気分が落ち込んでる時1番寄り添ってくれると感じるものは、
誰かがこの世界のどこかで自分と同じように痛んでいて、
その痛みをちゃんと外に吐き出している、という事実です。
(いつものことながら突然)
この世のどこかで私の他に誰かも同じように痛んでて、
「今は痛いね、でも大丈夫なはずだよ、一緒に頑張ろう」
と言ってくれたら、どれだけ救われるか分かりません。

銀色夏生さんのエッセイ、「今日、カレーとシチューどっちがいい?つれづれノート⑱」を読みました。
(これが18巻だと知ったのは読み終わってからでした、、、はい涙)

このエッセイが魅力的だと感じたのは、うまくいかないとか、
何故だか明るい方向に向かえない、とか、
そんなどんよりとした気分を、銀色さんが正直に書いているから。
ネガティブな現象や感情に嘘をつかず、自分の苦しみとか痛みから
逃げない人が書いた文章だからこそ、本書はすごく魅力的に感じました。
私はネガティブなことをそのままネガティブなこと、と認めるのがすごく苦手で、
すぐに捻じ曲げてなんかすごくポジティブで美しいこととして捉えようとしてしまうんですよね。
でもそれを続けていると、
ネガティブな出来事によって私は痛んだり、悲しんだり、怒ったりしていたはずなのにその感情に蓋をすることで、
知らない間に自分の中に負の感情が溜まるばかりで、いつしか吐き出し方がわからなくなってしまう
んです。

私が痛みを吐き出せないのは、わりと激しめな完璧主義だったからだと思います。
いい子街道から道を外れちゃいけない、誰かに自分の本音を打ち明けるのはめんどくさい展開になるからしない、
というスタンスで生きてきたことで、人を困らせるような感情や展開を隠し続けて、心に限界がきてしまった、という流れになります。
でも、世の中定義できないことだらけ、とういか自分のことすら多分死ぬまで定義出来ないと思うんです。
だから、いつも順調でなきゃいけない、いつも元気で病んじゃいけない、じゃないと負け組になっちゃうみたいな定義こそまじで意味が無いというか、自分いじめ以外の何物でもないとつくづく思います。
だから私も自分だけじゃなくて、他人いじめも絶対したくない、って思います。
「こうすべきだよ」「皆こうしてるのになんで出来ないの?」
「なんでいつも元気ないの?」「やる気がないんじゃないの?」
とか、その人にしかわからないことが山ほどある、というか、その人にしかわからない、
その人にすらわからないことでしかその人の世界は成り立っていないのに、私が私の人生の中だけで手に入れた私にしか当てはまらない(私にすら当てはまっているか分からない)答えとか人生のヒントを誰かに押し付けるなんて…絶対いやだ。

生きることが楽しいとか、生きることがつらいとか、そういうことはもうその時その時の印象でしかなく、わかったようなことは言えないなってことだけがわかる。

「今日、カレーとシチューどっちがいい?つれづれノート18」(銀色夏生 著)

言ってることがわかるって、人の気持ちを理解できるってことで、それは人の身になって考えることができるってことだ。
(中略)
ただ単純に、嫌な気分になったからって文句を言ったり、人を責めたり、運が悪かったと思ったりして深く考えない人は、たぶんいつまでも人のことがわからず、世の中もわからず、人も世間も嫌なことだらけで生きるのは大変だと思ってしまうだろう。
でも、どうしてあの人はあんなことを言ったのかなとか、そうしなきゃいけない理由があったのかもしれないとか、いろんな方向から考える人は、たぶんところどころでハッと気が付くことがあるのだと思う。とても悲しいことがあったあととか、苦しい立場にいてわかっているけど仕方がなかったとか、人にはいろんな事情がある。どうしようもない反応をしてしまう時もある。
そういうような、なんか、人というのを決まりきった固まったものとしてとらえずに、いつもゆらいでいる不安定なものだと、夕日が空に見せる変化の激しい夕焼けの景色や台風の庭で豪雨と強風にあおられる木々を見るような気持ちで、人のさまざまな姿を眺められる人って、…人の身になって考えることのできる人なのだと思う。

「今日、カレーとシチューどっちがいい?つれづれノート18」(銀色夏生 著)

人の心の中の苦しさって、実は誰にもわからない。不幸なことがあったから悲しいだろうとか、お金持ちだから幸せだろうとか、人は勝手に思うけど、実は違う。人の心の中はその人にしかわからないものがある。それをあえて表そうとしなければ、誰にもわかりっこない。話しても、本当には人もわからない。
(中略)
苦しさって…。悪いものや悪いことや外の不幸が、人を苦しくさせるんじゃないんだ。苦しさって言うのは、自分の中の葛藤みたいなものだよね。精神的な、自分との戦いみたいなもの。その戦いは、日常生活の中で誰にも見分けられずに起こっていて、普通の暮らしをしながら、ひとりで戦い続けなきゃいけないんだよね。

「今日、カレーとシチューどっちがいい?つれづれノート18」(銀色夏生 著)

銀色さんが言うように、苦しさって、外の世界によってもたらされるものじゃなくて、自分が前に進もうとした時に自然発生してしまうものなんだと思います。
だから苦しんでいる、というのは、自分が進化しようとしている、ということだから、
昔の私みたいに苦しむことを恐れなくていいんだって、思います。
むしろ楽しめるようになったらいいなと。
(それはレベル高いけど)
でも、いくら苦しみの先に新しい世界があるよと言われたとしても、逃げたくなる時だってあると思います。
そんな時は、迷わず全然逃げましょう、逃げましょうぞ!笑
この世界はゲームでも漫画でもなく、歴史物語でもないんだから、逃げていいんです、というか逃げるが勝ちです。
だってこの世にはチャンスが無数にあって、何度だって挑戦できるんだから。
(1回しか無いチャンスなんて、それは勝負ごとが好きな誰かが勝手に設定したもので、そんなチャンスにしがみつく必要は無いしこだわる必要ないっしょ!)
いくらだって、自分の尊厳を、命を、心を守るために逃げればいい、
次に繋がる逃げをすればいいんです。

苦しんだり、逃げたり、悲しんだり、痛んだり、色々あるけど、
全部素敵なことに変える力が人間全員に備わっていると思います。
むしろ、それと向き合えないと、いつまでも自分の中に溜まっていって、
いつしか自分の循環が止まってしまって、動けなくなって、自分で自分を壊しちゃう。
でも、それと向き合う中で逃げたくなったら、すぐ逃げて、
元気が出たらまたそれが出てきたタイミングで向き合って…
それがマイペースに、自分を大切にする方法なんじゃないかって思います。
2021年の暮れに、いい本と出会えました。


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