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令和の子どもたちが失った小さなこと

=令和の子どもたちが失った小さな事=

今の若者は知らないが
昭和の時代のプラモデルは接着剤でくっつけた。
セメダイン(接着剤)という名前を子供でも知っていた。

今のプラモデルはパチパチとはめるだけだから
組み立て感がない。

大袈裟にいうと「巧緻性」という点において、日本人の細やかさが
失われた、一つの原因だと思う。

自動車のプラモにもゴジラのプラモにも
マブチモーターが入っていて、電池を入れて走らせた。

自然に電気の知識も頭に入った。

今のプラモは動かない。

こんな些細なことがと思われるかもしれないが
実はこんな些細なことの積み重ねが人を
創っていくのだ。

毎日、毎日「予定帳」を小学生は書く。
この積み重ねが計画的な人間を創る。

外国ではそう言ったことがないので、まるで計画性がない。

その日暮らしだ。

これはとりも直さず、小さい頃からの
ほんの些細なことの繰り返しの影響だ。

・靴のかかとを揃えて脱ぐ。

・かさは巻いて傘入れに入れる。

・雑巾は絞って4つ折りにして畳んで拭く。

・椅子は立ち上がったら入れる。

・鉛筆をきちんと削り(シャープペンでなく)

・明日の準備をする。

・教科書を整えノートをカバンに入れる。

・毎朝、ラジオ体操をする。

あえてPDCAと言わなくても
学校教育はP計画D実行C評価A改善を
昔から子供たちに躾けてきたのだ。

しかし今や一人一台のパソコン、タブレットに予定が「配信」されて
帰ってくるまで見ないし、親も見ることはない。
やがてITが子供の「計画性」も奪っていくだろう。

子供の「何を育てたいか」でなく「ITを使わなければ」が先になってしまった。

こんな些細な仕草や習慣が
人間を創っていく。

これは僕が外国で暮らしてみて
初めて実感した日本人の素晴らしさだ。

ミャンマーでの会議の後、椅子を元に戻すのは
日本人だけでミャンマー人はしない。
だから会議後のテーブル周りはごちゃごちゃだ。

これは「ミャンマー人が」というより習慣の違いだ。

小さい時からの「しつけ」(身が美しいとかいて躾)が
されてないからだ。

今までは日本では普通のことだったが
なるほど、こうした些細な日常の差が
決定的に違う大きな差となっていくのだ。

そういう意味において
「昭和時代」の習慣とは貴重だったと
言わざるを得ない。

便利だからとか面倒だからとか
どうでもいいじゃないかと
言ったことが、やがて大きな差となっていく。

小さな差がやがて遠くへ行けば行くほど差が広がるのだ。

最初は同じでも差は絶対に縮まらない

しつけや礼儀、習慣とは
人生の基盤なのだ。

それは今では「不適切だ」と感じるかもしれない。

しかし昭和の「不適切」は必要な不適切だったと
うすうす令和の人間も気づいているのではないだろうか。

幼児脳科学の世界では
3歳までの子供は誉めて育て、3歳から就学前の6歳までの
子供は「しつけて育てる」のが良いとされているのは
常識となっている。

しかしそれを知らない日本人は多い。

もっと人間の成長を脳の成長とともに理解してほしいと思う。

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