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【おはなし】 100万円と元気な身体

「先輩、僕は会社を辞めることにしました」

いつものように3時のおやつタイムを職場の屋上で過ごしていると、派遣契約の後輩が私に宣言した。

「そうか・・・。キミはまだ続けてくれると思っていたから、オレは残念だよ」

「派遣の営業さんからも、ここの職場の部長さんからも契約の更新依頼があったのですが、僕は決断しました」

「来週までは考える時間が欲しいと聞いていたよ。まだ3日も残っているじゃないか。いつもうじう悩むキミらしくない気がするな」

「ええ、た〜っぷりと悩んだ結果、辞めることにしたんです」

「そうか・・・」

私が彼に仕事を振ると、彼は気にしなくてもいい細かいことをあれこれと考え出してはときどき手が止まっているのを見かけていた。

私たちの席は隣同士に位置しているのだが、四国と九州くらいに適度な距離が離れているため、ある程度のプライバシーは守られている。お互いのパソコンの画面をのぞきこむためには、椅子から立ち上がり5歩くらい歩かないと隣の島には到着しない。そのため彼がときどき仕事で使っているノートに何か別の書き物をしているのを私はなんとなく気づいていたのだが特定することはできていない。

彼は私に質問するとき、ある程度まとめてから聞きにくる。100均で売ってそうなバインダーにルーズリーフを1枚はさんだ状態でボールペンを持ちながら私の島まで歩いてくる。まるでゴジラが大陸を移動するみたいに彼の歩幅は広いから、私はパソコンの画面を見られないようにする反射神経が鍛えられたりもしている。

「聞いてもいいかな?」私は彼に質問する。

「ええ。聞かれなくてもわかってますけど、決断した訳が知りたいんですよね」

「そのとおり」

「欲しかったものが手に入ったので新しい暮らしをはじめるんです」

「具体的にいうと?」

「100万円と、やわらかい肉体です」

「100万円くらいの貯金じゃあ、先行きが不安だろうに」

「先輩、なんにもわかってないんですね・・・」

「すまん。教えてくれ」

「いいですか。耳の穴かっぽじってよーく聞いてくださいよ」

「わかった」

「僕みたいにボーナスもない手取り15万円の派遣社員が100万円を貯めるのがどれくらい大変なことか理解してないです」

「しかもキミは一人暮らしをしてるんだったな」

「そうです。家賃やら光熱費やらも支払うと、ほとんどお金は残りません」

「そんなに切り詰めた暮らしをしていたのか」

「そうですよ。知らなかったでしょ?」

「ああ、すまない」

「僕の暮らしはべつにいいんですけどね。そういう弱い立場にいるひとがいるということは理解している方がいいと思いますよ」

「ああ、肝に銘じるよ」

私はタバコの煙を空気中に吐き出しながら考える。

ボーナスのない契約だとは聞いていたが、手取り15万円だと私は笑って暮らせないかもしれない。このタバコを買う金だって切り詰めないと難しくなる。

そうか、だから彼は毎日、値引きシールの付いてるお弁当を食べていたのか。1週間も続けてカツ丼を食べていたときには、何かの願掛けかと思っていたのは私の勘違いだったわけだ。

「金が貯まったのは理解した。もうひとつのは、なんだ?」

「やわらかい肉体です」

「ふむ・・・。別の角度から頼む」

「ヤナギって植物あるじゃないですか」

「ああ、風の強い日にゆらゆらしてる植物だな。まるで80年代のディスコで踊るロン毛のお姉さんみたいに」

「・・・。ヤナギのすごいところはですね、根っこがしっかりとしてるんですよ」

「ああ、軽く声をかけるとカンタンにいなされてしまうんだ。彼女は芯がしっかりとしていたよ」

「・・・。僕のこと、ヤナギくんって陰口たたいてましたよね?」

「相変わらず地獄耳だ」

私は短くなったタバコを灰皿に押しつけて揉み消すと、もう一本取り出して新しく火をつけながら思い出していく。

休憩時間の彼は毎日読書をしている。

自席に座ってコーヒーを相棒に静かに読むスタイルではなく、壁に向かって立ちながら読むスタイル。方角は調べたことはないがある種の信仰に近いものだと私は理解していた。たしか、なにかの宗教では決まった時間にお祈りが必要だったはずだから。

しかも彼の読書スタイルはじっと立っているのではなく、片足を曲げたり伸ばしたりと変化する。膝をお腹の前に折り曲げて立っていると思ったら、次の瞬間には、かかとをおしりにくっつけて片足で立ちながら読んでいる。さらに次の瞬間には足を交差させて体を捻った体勢で読んでいる。

「キミの変な読書スタイルには、肉体改造の意味があったのか?」

「ドクショサイズのことですね」

「ん? すまん、別の角度から頼む」

「えっとですね、読書とストレッチを兼ね合わせているので、ドクショサイズと僕は呼んでるんですよ」

「なるほど。そういう意図があったのか」

「ええ。誰もなにも聞いてこないから説明する機会が今までなかっただけです」

「聞けないだろう」

「ええ、そういうご時世ですよね」

「触らぬ髪に、なんたらというやつだ」

「さっきの80年代のディスコとかかっているわけですね」

「オレはロン毛のお姉さんが好きでねぇ」

「知ってますよ。いつもの居酒屋のママさんも仕事中は髪の毛をくくってますけど、解くと先輩の大好きなセミロングですもんね」

「よく見てるなあ」

「ええ、先輩から盗んだんですよ」

「ほう? つまりそれは」

「おっと。もう休憩時間が終わりますね。続きは、いつものお店ということで」

「ふむ。もちろんキミのことだからすでに・・・」

「はい。予約済みです」

私はまだ残っているタバコをもみ消すと、彼と一緒に職場に戻っていった。




「いらっしゃいませ。あら、いつものコンビで登場なのね」

仕事を無理やり定時で終わらせた私たちを迎えてくれたのは、お世話になっている居酒屋のママさん。

「いつものように奥の半個室を用意してますよ。どーぞごゆっくり」

「ありがとうございます」

私がママにあいさつを終えると、後輩の彼はさっさく注文をお願いした。

「とりあえず、生ふたつと枝豆をお願いします」

「今日は揚げ出し豆腐もおすすめよ」

「じゃあ、それもお願いします」

「はい。すぐにお持ちしますね」

ママさんは厨房で睨みを効かせている大将にオーダーを告げると、冷蔵庫を開けて冷えたグラスを取り出す姿が見えた。

私はママの姿を盗み見ながら用意されている席へと歩いていく。白い割烹着を着て髪を結んでいるママは今日もセクシーだ。

靴を脱いで座敷に座ると、ほどよいタイミングでママがビールを持ってきてくれた。

「お待たせしました。生ビールふたつと枝豆です。追加のご注文はまた呼んでくださいね。今日はナポリタンもおすすめです」

「じゃあ、それもください」

「シメのタイミングでお持ちしますね。ごゆっくりどーぞ」

どうやら今夜の私には注文する権利がないらしい。後輩の彼とママのふたりで料理が決まっていくのは複雑な気分だ。

私は次にママが来たときのために頭の中で料理を決めておく。アヒージョにしようか。男ふたりで注文するのは恥ずかしい気もする。定番の鳥の唐揚げが無難かもしれない。

「先輩、先に乾杯しましょうよ」

「ああ、そうだったな」

私は冷えたグラスを持ち上げる。手の冷たい女性は心があったかいと聞いたことがある。きっとママの心もあったかいのだ。

「音頭、お願いします」

後輩の彼が私を急かす。

「そうだな・・・。キミの新しい船出に乾杯」

ガチン

お互いのグラスを合わせると私はビールを飲んでいく。この泡のやわらかさはママの肌の感触に近いのだろうか。喉の奥に突き刺さる苦味は棘のある女を象徴しているみたいで私の心を惑わせる。

グビ グビ グビッ

「プハー」

私よりも先に飲み干した彼がグラスをテーブルに置いて枝豆を食べはじめた。

「なんの話が聞きたいんでしたっけ?」

後輩の彼が私にたずねる。

「なにが聞きたかったのか忘れてしまったな」

私は少しだけ中身の残ったグラスをテーブルに置いた。

「じゃあ、思い出したら聞いてください」

「そうしよう」

「先輩は、次に僕が何をするのか知りたいんじゃなかったでしたっけ?」

「聞いてもいいなら教えてくれ」

「かまわないですよ。僕は新しいことをはじめるんです」

「具体的には?」

「そこは、ナイショです」

「どうして?」

「言葉にして空気中に解き放ちたくないんですよ」

「ふむ、なにか深い理由がありそうな含みだな」

「なんか僕の場合はですね、ひとに喋っちゃうとそれだけで満足しちゃうんですよ。だから誰にも言わずにこっそりと始めたいんです」

「そうか。秘密主義もいいかもしれない。キミの場合、ある程度の金と健康な身体があれば選択肢が多くて迷いそうな気もするが、そこは大丈夫なのか?」

「そうですね。目的地がブレさえしなければ、歩む道も出会うひとたちも個性的な彩になりますから」

「でも100万円じゃあ、オレは不安になるけどな」

「そこは、考え方次第ですよ」

「たとえば?」

「もしも今の僕たちが90歳のおじいさんだとしたら、100万円と健康な身体が手に入ったらどう思いますか?」

「少し考えてみるよ」

私は彼の問いを頭の中で整理してみる。

90歳のお年寄りだと歩くことがつらいかもしれない。膝に痛みを感じたり出かけたいと思う意欲だって低下しているかもしれない。

それに、90歳のおじいさんを相手にしれくれる若い女性はいないだろう。私が恋心を抱いたとしても、相手は老人介護としか見てくれない。

この座敷から立ち上がるのだって苦労するかもしれない。ふらついた私に手を差し伸べてくれた女性。肌と肌が触れ合っても私たちの感情は混じり合わないはずだ。

「90歳で100万円と健康な身体があっても、世界を冒険するのは難しいだろうな。足腰が痛くなくても体力だって残り少ないだろうから、1億円くらい持ってないと不安だな」

私は枝豆に手を伸ばしながら答えた。

「その点、今の僕たちは、まだ若さを残していますよね」

「ああ、ディスコで踊り狂う女性を知ってる世代だもんな」

「僕は先輩より若いですけどね」

「たいして変わらんだろう」

「いやいや。僕の方が一世代、ヤングですから」

「言葉のチョイスは同世代だけどな」

「先輩に合わせてるんですよ」

「そりゃどうも」

「わたしだってまだまだヤングですよ。今夜は何の会なんですか?」

揚げ出し豆腐を運んできたママが会話に参戦した。

「今日はですね、彼の退職の前祝いなんですよ」

私は急に現れたママを見て少し緊張しながら答える。

「あら、コウハイさんが新しい職場に移動されるんですね」

「それが、ナイショみたいなんで教えてくれないんですよ」

「あらあら、それは気になりますねぇ。おビールのおかわりをお持ちしますね。追加のご注文はどうしますか?」

「アヒージョと鳥の唐揚げをお願いします」

「わたしもアヒージョ好きなんですよ。あとでおじゃましようかしら」

「ええ、ぜひ来てください」

「じゃあ、お言葉に甘えますわね」

ママは2人分のグラスを下げていくと、間もなく新しい生ビールを注いで持ってきてくれた。

「では、また後ほど」

そういってママは引き下がっていった。

「先輩はいつまでこの職場にいるんですか?」

揚げ出し豆腐を小皿に乗せながら後輩の彼が質問をはじめた。

「そうだな。オレは定年まで居座るだろうな」

「もう、冒険はしないんですか?」

「そういうわけではないが、むかしほど若くない」

「先輩、バカなんですね」

「ん?」

「いつだって、今が一番若いんですよ」

「ふむ、時の流れには逆らえないということか」

目の前の男は新しい旅に出ようとしている。そんな彼を見ていると、自分も新しいことをはじめたくなるから不思議なものだ。

「いい加減に、アタックしたらどうなんです?」

「まだ早い」

「そうやって、もう1年経ちますけど・・・」

「そんなに経つのか」

「ええ、ちょうど僕の派遣期間も1年になりますし。ぼやぼやしてると他の男にママさん取られちゃいますよ。それでもいいんですか?」

「よくはないが、ちょっとな・・・」

「先輩って、いいトシした大人なのに恋に奥手なんですね」

「リスクマネジメントに長けていると言ってくれないか」

「現状維持はマイナスと同じですよ」

「それはビジネスの理論だろう」

「恋だってそうですわよ」

アヒージョと鳥の唐揚げをお盆に乗せてママが運んできてくれた。そしていつものように、ちゃっかりと新しい瓶ビールとグラスも忘れずに。

ママは先に私にビールを注ぎ終えると後輩の彼にも注いでいく。私はママが持っていた瓶を受け取りママのグラスにもビールを注いだ。

私たちはいつものように3人で祝杯をあげる。

「コウハイさんの新しい船出に」

乾杯の音頭をとってくれたママは、私よりも後輩の彼の近くに座っている。私の席が九州で彼が四国だとしたら、ママは空飛ぶ天空の島かもしれない。

後輩の彼が職場を去ると、私は1人でこの店に通うことになるだろう。タイミング的にもちょうどいいかもしれない。

「コウハイさんがいなくなって、寂しくなりましたね」とママはいうだろう。

「私が毎日のように来るから、寂しさなんて忘れさせてあげますよ」と私は強がるだろう。

「あら、そんなこと言って。わたしの手も握ってくださらないに」

「ゆっくり歩みたいんですよ、私たちふたりの時間を」

厨房で睨みを効かせている大将に私は勝てるだろうか。どうやら修行が必要だ。

明日から私も壁に向かって昼休みを過ごそう。後輩の彼をマネて、心と身体を鍛えるために。




おしまい




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