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エッセイ | 印象に残る水泳選手

 以前もどこかで書いたことがあるが、幼稚園の年長から中3まで、ほぼ毎日スイミングスクールに通っていた。小学生の頃はオリンピックに出れたらいいな、と思ったこともあった。結局は、県の代表として、関東大会に出ただけで終わった。現役最後の頃は、水泳が楽しいと思えなくなっていた。

 今、世界水泳がテレビで放映されている。全体的な日本選手レベルが上がっている。私が水泳をやっていた頃は、平泳ぎ・背泳ぎでは、何人か世界と戦える選手がいたが、現在ではフリーやバタフライでも世界と戦えるような選手が出てきてすごいな、と思う。


 ところで、水泳に限らず、どんなスポーツでも、当時どんなに破られないであろうと思われていた記録も、何年か経つと、必ずその記録を破る選手が出てくる。そうすると、特にタイムを競うスポーツの場合、昔の選手より今の選手のほうが「すごい!」と思いがちである。

 確かに記録だけを見れば、たいていの場合、今の選手のほうが昔の選手より、身体的にも技術的にも上なのだが、そういう発展があるのは、先人の試行錯誤の土台の上に立っているからである。

 そこでこの記事では、すでにもう記録は破られてしまっているけれども、現在の水泳選手の礎になった選手を振り返ってみたい。「昔はすごかった!」と思うのは年をとった証拠かもしれないが、この選手がいなかったら、今の選手はなかったと思えるような、私の印象に残っている、私の中の伝説上の水泳選手を挙げてみたい。


🇷🇺サルニコフ選手🇷🇺

『泳ぐ精密機械』


 サルニコフ選手のことは、以前記事にしたことがある。

 1500mの世界記録を何度も塗り替えた選手。泳ぐとき、選手は自分の記録を知ることはできないのだが、サルニコフ選手は、最初から最後まで、100mのラップタイムをほぼ正確に刻んでいった。
 
 ソ連がボイコットして出場できなかったロサンゼルス・オリンピックを挟んで、五輪連覇を果たしている。



🇷🇺ポポフ選手🇷🇺


 オリンピックで何度か金メダルを獲得した選手であるが、私の印象に残っているのは、いわゆる「高速水着🩳」が登場してからも、「フェアではない」と言って、従来型の水着で試合に臨んだというエピソード。

「(ハイテク水着は)有力選手や経済的に余裕のある選手だけが着用できるものであり、着用したくてもできない選手がたくさんいる。そのようなものに頼るのはフェアではない。少なくとも、世界中の選手に行き渡るようにならない限り私は着用しないよ。」という考えを示していた。

上の記事(↑)より引用

🇺🇸マット・ビオンディ選手🇺🇸


水泳選手には、得意な泳法がひとつあり、その種目にかけるのが一般的だが、ビオンディ選手は、「万能型」の先駆的な存在。


🇯🇵長崎宏子選手🇯🇵


水泳が盛んではなかった秋田県出身であるのも関わらず、長年に渡り、日本女子平泳ぎを牽引してきた。

日本選手権水泳競技大会の200mで優勝、オリンピック参加標準記録を上回り、すでに政治的問題から日本の不参加が決まっていたモスクワオリンピックの代表メンバーに選ばれた。出場していれば夏季五輪では日本人初の小学生五輪選手(冬季は1936年ガルミッシュ=パルテンキルヒェン大会に小学6年で出場したフィギュアスケートの稲田悦子がいる)となっていた。同年から水泳日本選手権の200m平泳ぎで8連覇、100m平泳ぎでも翌年から7連覇を達成した

記事より引用

女子平泳ぎというと、バルセロナ五輪・平泳ぎ200mで金メダルを獲得した、岩崎恭子選手が有名だが、長崎選手の存在は岩崎選手にとって非常に大きかったと思っている。



🇯🇵千葉すず選手🇯🇵


女子フリーの選手。元日本記録保持者。

シドニーオリンピック直前の選考会である日本選手権で五輪A標準記録を突破して優勝したが、代表選考から外されたため日本人として初めてスポーツ仲裁裁判所に提訴したもののオリンピックに出場することはできなかった。

上の記事(↑)より引用

 一時期、千葉選手の言動は、ワイドショーを賑わしたことがある。
 五輪派遣の選考方法に疑義を唱えて、日本人としてはじめて「スポーツ仲裁裁判所」に提訴した。
 結局、千葉選手はオリンピックに派遣されなかったが、その後の選考基準の明確化につながった。

 現在では、世界大会・オリンピックの前に、選考大会における派遣条件が明確に示されるようになった。千葉選手の功績は大きい。




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