心が不純なときに聞く外国語・カタカナ言葉 | инк教養講座🙄
今日の写真
まずはじめに、今朝撮った写真をご覧ください。紅葉に癒されたら、以下の文章をお読みいただければ。。。
言葉の恣意性
言葉というものは、「音」と「意味」(映像、心象など)とが結び付いたものです。
例えば「おにぎり」ならば、
「o-ni-gi-ri」という音と
「🍙」という映像とが頭の中で結び付くことにより、認識されます。
抽象的な言葉の「悲しい」には、
「ka-na-shi-i」という音と
「😭」(今までにあった悲しいこと)という心象が結び付いています。
「音」と「意味」というものは、本来、恣意的なものです。
「恣意的」とは、例えば、
日本語ならば、「いす(椅子)=🪑」ですが、
英語ならば、「chair(チェア)=🪑」となるようなことを指します。
「🪑」が「いす」になったり「チェア」になったりすることは、「音」でイメージされるものが話す人々の間で同じものならば、「🪑=タコ」でも「🪑=サクラ」でも良かったことを示しています。このことを「言葉の恣意性」と言います。
言葉の数≫音の数
言語学の教科書的な説明は、上に書いたような感じなのですが、「音」が似ていると、その音に似ている全く別なものを連想してしまうことがありますね。
人間が言葉で表したいことが、無数にあるのに対して、人間が発声することができる音には限りがあります。
日本語では、基本的に音の数は「50音」だけです。それに比べて、現在日本語にある言葉の数は、少なく見積もっても数百万語以上あるでしょう。
限られた音の数で、様々なことを言い表すわけですから、当然音が似ている言葉は数知れず。似ているどころか、同音異義語のように全く音が同じ言葉さえ存在しています。
なにが言いたいのかというと、意味が全く異なる言葉であっても、人間の調音上の制約より、似た音を使わざるを得ないから、見当違いの変なことを連想してしまうということが起こり得るということです。
だいぶ前置きが長くなりましたが、さっそく本論に入ろうと思います。
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします