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未成年を読み比べる




はじめに


 同じ本を2冊買うこと。
 「無駄じゃない?」と思う人もいるかもしれない。
 私もまったく同じ本を買うことは殆どないけれども、海外文学の翻訳は敢えて同じ作品を2冊あるいは3冊買うことがある。
 
 普通に読書するだけならば、どちらか気に入ったほうを選べば良い。しかし、複数の翻訳を読むことは、小説の書き方や読み方を考える上でかなり勉強になる。


 この記事では、ドストエフスキーの「未成年」の二種類の翻訳を掲げてみたいと思う。


元々は勉強のために買ったわけではなかった


 ドストエフスキーの作品は、その多くが新潮文庫に収められている。

 私はかつて、新潮文庫でドストエフスキーの作品を読み進めていたが、「未成年」は収録されていなかった。そこで、五大長編小説の中で「未成年」だけ、岩波文庫を購入した。そのあとで、しばらくしてから新潮文庫にも「未成年」が収められるようになってから、新潮文庫版も購入することになった。

 本棚に並べるとき、「同じ出版社の本を並べたほうがきれいだから」という素朴な理由で二種類の「未成年」を買ったのだが、期せずして読み比べる楽しさを知った。

 岩波文庫の米川正夫訳も、新潮文庫の工藤精一郎訳も、優れた翻訳だが、雰囲気が微妙に異なる。

 内容を知るだけなら、例えば、前半部分は米川訳で読んで、後半部分は工藤訳で読んでもいい。けれども、途中で異なる翻訳に乗り換えて読むことは何か違和感がある。最初から最後まで、同じ訳者の翻訳で読みたいものだ。


 こんな前置きは、無用なものかもしれないが、書いてしまったものは仕方ない。このまま残したまま、投稿することにしよう。

 ではさっそく、両者の翻訳を掲げる。
 いずれも「未成年」の冒頭部分の翻訳である。



米川正夫訳による冒頭


ドストエフスキー
米川正夫(訳)
岩波文庫

 とうとう我慢がしきれないで、わたしは自分の実生活における第一歩の記録を綴ることに決心した。もっとも、こんなことはしなくてもすむわけなのだが・・・・・ただ一つ断言しておきたい。わたしはたとえ百歳まで生き延びるとしても、もう二度とふたたび自叙伝めいたものを書きはしない。実際、羞恥の念を感ぜずに自分のことを書こうというには、思いきって醜い自己惑溺に陥らなければならない。ただ一つ自分に対するいいわけは、自分がこれを書くのは、ほかの人たちと目的を異にしているという点である。つまり、読者の讃美が目的ではないのだ。

(米川訳「未成年」岩波文庫[上]、p5)


工藤精一郎訳による冒頭


ドストエフスキー
工藤精一郎(訳)
新潮文庫

 わたしは自分を抑えきれなくなって、人生の舞台にのりだした当時のこの記録を書くことにした。しかし、こんなことはしないですむことなのである。ただ一つはっきり言えるのは、たとい百歳まで生きのびることがあっても、もうこれきり二度と自伝を書くようなことはあるまいということである。実際、はた目にみっともないほど自分にほれこんでいなければ、恥ずかしくて自分のことなど書けるものではない。ただ一つ自分を許せるとすれば、みんなが書くような理由から、つまり読者から賞讚をえたいために、書くのではないということである。


(工藤訳「未成年」新潮文庫[上]、p6)


どちらを好むか?


 原文のロシア語を見ていないから(見てもわからないだろうけど)何とも言えないが、おそらく米川訳のほうが原文に忠実に訳されている。私には工藤訳のほうが頭に入りやすいが。。。

 物語を楽しむなら工藤訳を選ぶが、ドストエフスキーの原文により近いのは、米川訳だと思う。

 好みとか目的によって、どの翻訳を選ぶのかを考えたほうが良さそうである。両方読んで、両方楽しむのもいい。

 自分で小説を書くとき、どのような文体を選ぶのかは、とても大切。翻訳から学ぶことは多いように思われる。同じ内容を書くにしても、これだけ違うのか!という発見が面白い。

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします