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彼女達のピアノ 第1話

【あらすじ】

 ピアノ調律師の仕事を通じて、過去に出会った「彼女達」との思い出の数々。楽しい話、感動したエピソード、少し不思議な出来事、イラッとした体験……今となっては、全てが貴重な思い出になっています。
 沢山の人と出会い、調律師と顧客としてピアノを介した関係を築き、様々な経験を重ねてきました。そんな調律師の体験談を、幾つかピックアップしてお届けしようと思います。
 全て、実際に調律師として働いている私自身が体験したエピソードから、特に印象に残っている女性顧客とのやり取りを元ネタにしております。
 なので、作中の「私」は作者です。身バレ防止程度に、部分的にフェイクを交えておりますが、大筋はほぼノンフィクションのまま、エッセイ風に綴った一話完結のエピソードを『連作ショートショート集』としてまとめてみます。

第1話 『彼女の記憶』

 年齢を重ねるということは、未体験ゾーンに足を踏み入れることと同じなのかもしれません。予めその世界を学び、イメージすることは出来ても、予め体験しておくことは決して出来ないのです。
 そして、それは、人生に限った話ではないでしょう。あらゆる動物も植物も……もっと言えば、国も街も海も山も科学も音楽も、みんな一緒なのです。
 勿論、ピアノも。



 もう、何年も前の話です。当時、お世話になっていたアマチュア合唱団の選抜メンバーが、某老人ホームにて、慰問コンサートを行うことになりました。幸いなことに、施設にはアップライトピアノが一台あるそうで、当日はそのピアノを使うことになりました。ボランティア活動にとって、ピアノのレンタル費や運送コストが不要なことは、何よりの経費削減になる為、ありがたい環境と言えるでしょう。
 そして、そのピアノの調律を、私が担当させていただくことになりました。

 実は、ご依頼を頂いた時は、ネガティブな想定ばかりが頭を過ぎりました。それは、過去の体験に基づいているのですが……こういった施設に設置してあるピアノは、様々な事情があり、メンテナンスが充分に行き届いていないケースが圧倒的に多いのです。
 ただでさえ、初めて手掛けるピアノは、定期で担当しているピアノと比べ、時間が余分に取られてしまうことが多いのですが、それが施設のピアノとなると……当日の限られた時間だけでは、厳しい予想しか出来ませんでした。
 ろくに音も出せない(かもしれない)状態のピアノを、短時間でコンサート仕様にまでセットアップすることは、実質的には不可能です。従って、「最低ラインをどこまで引き下げるか」という、スタートからして非常に後ろ向きなスタンスで取り組まざるを得ない、何とも悲しい作業になる可能性が高いと思ったのです。

 しかし、このピアノの場合は、良い意味で予想を裏切られました。なんと、十分過ぎるぐらいに、使用可能なコンディションを維持していたのです。過去のメンテナンス履歴を見ても、ほぼ毎年、念入りに手入れされていることが確認出来ました。
 ピアノの保守に費やす予算と、何より所有者の熱意が不十分なことが多い介護施設のピアノとしては、非常にレアなケースと言えるでしょう。こういった環境下で、ここまでキチンと保守管理されているピアノは、少なくとも、私は後にも先にも見たことがありません。
 では、何故この施設では、ピアノのメンテナンスに注力してきたのでしょうか? 担当の職員にお話を伺ったところ、非常に「面白い」お話を聞かせていただくことになりました。



 これは、その施設に入所されている方で、もう百歳に近い、あるおばあちゃんの話です。担当者の話によりますと、その方は全く年齢を感じさせない程に足腰はしっかりしているのですが、早くから認知症を患っており、既にご家族のことも全く理解出来ておらず、時に会話も困難なことがあるそうです。
 ところが、そのおばあちゃんは、毎日のようにフラッと一人でホール(食堂兼談話室みたいなところ)にやって来るのです。そして、一目散にピアノの前に来ては、ピアノ椅子に腰掛け、鍵盤蓋を開け、おもむろにピアノの演奏を始めるのです。

 どうやら昔は、この地域ではそこそこ名の知れたピアニストだったとのこと。
 ピアノと共に歩んだ人生は、歳を取る毎に余分な贅肉を削ぎ落とし、不要なモノを捨て、あらゆる欲を失い……そして、認知症になり、少しずつ記憶も失われていったのでしょう。
 砂時計の砂が落ちていくように。

 しかし、奇跡的に零れ落ちることなく、最後に残されたモノが、ピアノだったのではないでしょうか。
 おばあちゃんにとってピアノを弾くという行為は、立ったり座ったり、歩いたり食べたり眠ったり……といった、本能に近い行動へと昇華されていたのかもしれません。家族も忘れ、想像すら出来ない人生も真っ白に塗り直され、それでも最後に、ピアノを奏でることだけは綺麗な形のまま残されていたのでしょう。
 いつしか切り離せなくなった習慣なのでしょうか、若しくは、ほとんど本能とも言える行動なのでしょうか、無意識にピアノと向き合っている感じなのだそうです。そして、考えなくても自然と指が動き、美しい音楽が紡がれる……そこに、おそらく理性はないのかもしれません。

 何とも切なくて、悲しくて、そして、何故か少しだけ嬉しくて……話をうかがっているうちに、様々な感情が交差し、私は自然と涙が溢れ出ました。
 施設の方によると、そのおばあちゃん、時々演奏を終えると、近くにいる職員に訴えかけてくるそうです。

「でら音狂っとるが。はよ調律しやぁ」

 どうやら、耳は遠くなっても、音楽的な聴力はまだまだ健在のようです。そのおかげでしょうか、こういった施設に置いてあるピアノとしては、過去に見たことがないぐらいの良好なコンディションが保たれていたのでした。

 おばあちゃんはピアニストとして、どのような人生を歩んできたのでしょうか。
 どこでキャリアを積み、どのような演奏をしてきたのでしょうか。

 そういった、野次馬的な関心が芽生えたことは否定しませんが、でも、もう過去なんて詮索すべきではないとも思いました。きっと、おばあちゃん自身にとっても、今となってはどうでもいいことでしょう。そう、わざわざ砂時計をひっくり返す必要なんてないのです。
 それに、多分……今はおばあちゃんもピアノも幸せに違いない、いや、そうであって欲しい……私は、シンプルにそう願いました。


【彼女達のピアノ】
〜目次〜

第1話 『彼女の記憶』
第2話 『彼女の哲学』
第3話 『彼女の理由』
第4話 『彼女の常識』
第5話 『彼女の説明』
第6話 『彼女の秘密』
第7話 『彼女の信念』
最終話 『彼女の決意』


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