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彼女達のピアノ 第2話

第2話 『彼女の哲学』


 哲学……と口にすることはあっても、私にはプラトンやソクラテスを語るほどの知識や教養はありません。なので、『概念的思考を通じて多様な主題について検討し研究する、学問の一分野』(Wikipediaより)としての哲学は、本題ではありません。

 人生哲学なんて言葉もありますが、ここで取り上げたい哲学はまさにそんな感じ、日常会話に出てくるようなライトな意味合いでの「哲学」です。
 昔、ある先生に「人生哲学の『哲学』って、どういう意味なのでしょうか?」と聞いたことがあります。その時、先生は、以下のようにご教示くださったのです。
「哲学なんて難しいものじゃない。誰が何と言おうが、これだけは絶対に譲れないもの、それがその人にとっての哲学だよ」

 今思うと、「哲学」とは、その人固有の「ポリシー」や「ステイタス」に近いニュアンスがあるのかもしれません。或いは、「こだわり」なんてものにも通じるのかもしれません。
 でも、学問上の哲学と同じく、それは必ずしも真理ではないのです。



 さて、ここからが本題です。
「哲学」というタイトルが、あまりにも大袈裟で仰々しく感じるくだらないお話です。

 お世話になっている楽器店の社員調律師の矢野さん(仮称)が、産休に入った時の話です。彼女のお客様は、基本的には他の社員や嘱託調律師に振り分け、代理で対応することになったのですが、末端調律師の私にはほぼ回ってくることはありません。しかし、中には女性調律師をご希望されるお客様もいらっしゃり、そんな方だけは私に依頼がきました。
 そして、あるお客様宅へお伺いすることになったのですが、矢野さんに予定組みしたことを報告しますと、わざわざメールで連絡をくださりました。実は、そのお客様は、ある一点だけに関して要注意人物だったのです。
 メールには、次のように書かれていました。
「このお客様、水拭きは絶対に禁止ですので気を付けてください!」

 詳しく話を伺いますと、矢野さんの前に担当していた男性調律師が、そのお客様のピアノを水拭きしたのですが、翌日ぐらいから、蝶番からすごく不快な雑音が出るようになったとのことです。勿論、クレームになり、蝶番を交換したそうですが、翌年から調律の担当は矢野さんに代えられ、男性調律師不信になり、また水拭き恐怖症にもなったそうです。
 でも、現実的な話として、水拭きしたぐらいでそんなに雑音が出るなんて、まず考えられないことです。もちろん、可能性はゼロではありませんが、私は直感的に、おそらくサービスのつもりで酸性の研磨剤で蝶番を磨いたのではないかな? と思ったのです。
 いずれにせよ、余程のことがない限り、水拭きで雑音になることはありませんし、気を付けて拭けばまず大丈夫です。それに、外装はワックスで仕上げるにせよ、その前に水拭きで綺麗に拭いた方が良いですし、内部の掃除や鍵盤のお手入れにも雑巾は必要です。
 しかし、そのお客様にとっては、水拭きこそ諸悪の根源、水拭きは敵、水拭きは悪魔……というのが大袈裟でないぐらい、タブーな行為だと思い込んでしまっているそうです。

 しかしながら、当時、まだ若かった私も、かなり頑固なひねくれ者でした。調律に伺って、外装のお手入れをしないなんて、私の中では許し難いことでした。それこそ、絶対に譲れない「哲学」だったのです。
 何も聞かなかったことにして、濡れ雑巾を借りてみようと思いました。



 さて、いよいよ当日を迎えました。
 時間通りにお客様宅に到着し、簡単に挨拶を済まし、ピアノのコンディションを確認し、軽く問診を行い……そこまでは、初めてのお客様に対応する際の、通常のルーティンを問題なくこなせました。
 そして、何食わぬ顔で、「まずは掃除から始めたいので、掃除機と濡れ雑巾をお借り出来ますか?」と聞いてみました。

「え? 濡れ雑巾ですって?」
「はい。外装や鍵盤を拭きますので」
「あの……矢野さんから聞いていないのかしら? うちは水拭きは結構ですので」
「えっ? どうしてでしょう?」
「どうしてじゃなく、もう本当に水拭きはしないでください」
「何も問題は……」
「だから水拭きは結構です」
「でも……」
「水拭きはしないでください」

 とまぁ、全く話になりませんでした。
 ろくに説明も聞いてもらえず、頑なに拒否。よほど嫌な思いをしたのでしょうか、トラウマや恐怖症を通り越して、もはや憎悪の念すら感じました。
 その後、作業が始まっても疑いの目を向けられていたのか、見張られている気がしました。一通りの作業を終えても会話をそそくさと切り上げられ、水拭きの安全性を説明する機会もないまま、お別れとなりました。



 それから、四年後のことです。
 矢野さんは二人目を身籠り、また産休を取ることになった為、水拭きおばさん宅の仕事が再び回ってきたのです。つまり、リベンジする機会を得たのです。
 正直、嫌な思い出しかありません。
 水拭きの件はともかく、お客様と信頼関係が築けているとは思えず、まぁ平たく言ってしまえば、「嫌な客」なのです。

 しかし、矢野さんは、「あの人、随分と変わったよ」と言っていました。
 矢野さんも、最初は嫌なお客様だと思ったそうですが、毎年伺うに連れ、年々警戒心が薄れてきたのか、良い人になってきたそうです。全く会話がなかったことがウソのように、今では世間話やら子育ての話やら、長々とお喋りしているそうです。

 そして、いよいよお客様と再会する日がやってきました。
 私と会うのは、四年振り二回目のはずなのに、とても明るく気さくにお出迎え頂きました。しかも、息子のことを色々と質問され、子育てについて色々とご指南頂き、ずっと担当しているお客様のように親しくお話が出来たのです。
 これはチャンスと思い、白々しくお願いしてみました。
「掃除機と濡れ雑巾をお借り出来ますか?」

 一瞬の空白の後……「あ、うちはね、水拭きは結構ですので」と言われました。
「金属は拭きません。外装と中だけなので……」と言い掛けている途中に、「いえ、ホント、水拭きはやめてください」と被せてきました。

 ということで、結局、今回も水拭きは出来ませんでしたし、その安全性を説明することも諦めました。リベンジする筈が、見事な返り討ちにあったのです。
 でも、人間関係としては、少しは改善出来たかもしれません。
 矢野さんのお客様ですので、私はもうお伺いすることはないかもしれませんが、少なくとも今では「嫌な客」ではありません。

 それにしても、たかが水拭きで……。
 客観的に見ると、間違った知識に基く単なる思い込みに過ぎないのですが、このお客様にとってはそれだけじゃなかったのです。ピアノは水拭きしてはいけない……それこそ、誰が何と言おうが絶対に譲れない「哲学」だったのでしょう。
 これは、正誤や善悪や真偽では無いのです。理屈や理論を超越した彼女の譲れない「哲学」ですから、覆えすことは非常に困難でしょう。

 私も、それなりに頑固なこだわりがある方だと自認していましたが……どうやら、今回も完敗でした。


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