見出し画像

彼女達のピアノ 第4話

第4話 『彼女の常識』

 ドタバタという単語が擬音語か擬態語か分からない私ですが、彼女が慌ただしく帰ってきた様子は、まさに「ドタバタ」と表現するのに相応しいと思いました。そして、彼女は一息付く間もなく、前置きもなく、荒々しく、攻撃的な口調で言いました。
「何でアタシが二時に帰ってこないといけないのよっ!」

 その怒声を受けた奥様は、対照的に冷静で物静かな雰囲気を醸しております。全身から、ゆとりさえ感じます。そして、丁寧な口調で説得するかのように答えました。

「仕方ないでしょ? 予定通り、着付けを二時と四時に予約しましたから。私が着付けに行ってる間、あなたがいないでどうするつもりかしら?」



 結論から言いますと、これは、あるお客様宅での調律中に、私の背後で始まった義姉妹の口論の記録なのです。
 簡単にバックボーンを説明いたしますと、そのお客様は、ご主人が会社を経営されており、敷地の三面が道路に接しているという、かなりの大邸宅にお住まいなのです。成人したお子様が二人、そして、礼儀正しい親切な奥様の四人家族です。
 一見、何の問題もありそうにない、理想的で幸せそうなご家族なのですが……どういった事情かは定かでありませんが、ご主人の姉と思しき人物が同居するようになったのです。
 そして、その女性は、とてもこのご家族の身内とは思えないぐらい、粗野で下品な人物なのです。おそらく独身で無職、気が荒く、わがままで短気で非常識でデリカシーが無く……いうのは言い過ぎかもしれませんが、いや、でも当らずも遠からずなのです。

 その日の口論は、近々行なわれる法事のことで、奥様と義姉がもめていたようです。経緯をまとめますと、
①どうも義姉は、法事のことを忘れていて、友人と遊ぶ約束をしてしまったようです。
②奥様は、法事の日の夕方に着付けの予約を入れました。
③法事は夜に行うのですが、日中から来客がある為、奥様と義姉、二人とも家を空けるわけにはいかないという判断の元、奥様が二時、義姉が四時に、近くの美容院に予約を入れたそうです。
④義姉は、遊ぶ約束があるのに、二時に帰ってきて留守番をするなんて、我慢ならない様子。
⑤奥様は、法事より大切な遊びなんてあるわけがないし、そもそも、何ヵ月も前から決まっていた法事を忘れ、遊ぶ約束を入れること自体があり得ない話だと主張。

 大雑把なバックボーンは、以上です。
 では、口論の続きをどうぞ。時々挟まれる『』は、私の発言です。



「だから、言ったでしょ? アタシね、その日は別の用事を入れてあるの」
「用事って、遊ぶ用事でしょう? 法事は何ヶ月も前から決まっているのに、どうしてその日に予定を入れたの? 忘れてたとしても、キャンセルするべきじゃない?」
「はぁ? 今更キャンセルなんて、そんな非常識なこと出来るわけないじゃない」
「どうして? あなたのお父様の三回忌でしょ? 何も一日中ずっと家にいろって言ってるわけじゃないのよ。私は朝から忙しいのですけど、あなたは好きにしてていいわ。まぁ、どうせお昼前まで寝てるんでしょうけど。ただ、二時に帰ってきて留守番して欲しいの。それに、あなたも四時には着付けに行ってくれないと困るわ」
『掃除機と絞った雑巾を一枚、お借り出来ますか?』
「あ、はいはい、お待ちくださいね。今準備します」

「分かってますよね? 何ヵ月も前から決まっている、あなたのお父様の三回忌です」
「だから、四時の着付けには出先から直接行くって。それぐらいはちゃんとするわ」
「じゃあ、私が着付けに行ってる間、誰が家の番をするの?」
「そんなこと、アタシの知ったことじゃないわ」
『ピアノを使っていて、何か気になることとか不具合などはございませんか?』
「そうねぇ、今年から下の子も社会人になりましてね、ほとんど弾いていないのですよ」
『では、いつも通りな感じで、一通りチェックさせていただきますね。何か問題など見つかりましたら、声掛けさせていただきます』
「えぇ、よろしくお願いしますね」

「知ったことじゃないって……呆れたわ。どうしてあなたはそんなに無責任なの? 身内の法事の方が、友達との約束なんかよりずっと大事じゃないの?」
「アンタはクソ真面目だから、人間関係の大切さを知らないのよ。今頃になってやっぱりその日はダメなんて、普通、言えるわけないでしょ? そんな常識もないの?」
「いいえ、常識のある人なら、普通は冠婚葬祭を優先するわ。人間関係の大切さって、あなたの口からよく言えたものね。もし分かってるのなら、それこそ法事が優先になるじゃないの。まぁ、価値観なんて人それぞれだからね、あなたが何を優先に考えるかなんて私は知らないわ。特にあなたは人一倍、変わってるからね。でも、あなたの常識は世間一般の非常識です。法事は優先してくれないと困ります」
『すみません、ちょっとご覧いただけますか?』
「はい、どうされました?」
『この部分、少しカビが生えちゃってます。あまり使われていないとのことですけど、今までこんなことはなかったので、多分弾かなくなって閉め切っていたのが良くなかったかもしれませんね』
「あら、イヤだ。これ、全部カビなの?」
『はい、そうですね……今日はアルコールで拭き取りますけど、あまり弾かれないようでしたら、中に専用の除湿剤を入れておきましょうか? 有料になりますけど』
「そうですね……えぇ、ではお願いします」
『ただ、根本的な解決にはなりませんので、乾燥している日は、時々で構いませんので、蓋とか屋根とか開けてみたり、少しでもいいので、音を鳴らしてあげたりしていただけますでしょうか?』
「忘れそうですけど、気にするようにしますね」

「ほら、アンタがジメジメした性格だから、ピアノにカビが生えたんじゃないの?」
「はいはい、そうですね、気を付けますわ。で、あなたの実の親の三回忌、何ヶ月も前に決めた予定通りでよろしいわね?」
「ホント、イヤな女。もっともらしいこと言っておきながら、結局はアンタが困るだけでしょ? それが気に入らないだけじゃないの? アンタが困るから帰って来いって言ってるだけじゃない。アタシは全然困らないんだけど。ちゃんと四時に着付けに行くし、そのまま帰って来るから。どうして、それがいけないの?」
「はい? 私は何も困りませんけど? あなたのご家族とご親族の皆様が困るのです。その結果、恥を掻くのは私じゃなくて主人ですよ。私、おかしなこと言ってる? じゃあ、主人に全て説明して、お出迎えの人がいなくなる時間が出来るけど、それでもいいのか聞いて確認してみますね」

「もう、マジ鬱陶しいな。分かった分かった。しつこ過ぎるって。二時に帰ればいいんでしょ?」
「どうしてそういう言い方するの?」
「何が? 別に普通じゃん」
「全然普通じゃないです。どうして自分が悪いのに、人にあたるの? 法事を忘れるなんて考えられないわ。仕事が忙しい人ならまだしも、仕事も家事もしない人が、法事ぐらいしか予定ないのに……」
「ホント、ゴチャゴチャ煩いな! もういいじゃん、折角友達と会うのに、ランチ食べてすぐサヨナラになるけど、二時に帰ればいいのでしょ? ネチネチとしつこいよ」
「どうして、そうすぐに怒るの?」
「フンッ、別に怒ってないじゃん。アンタって、ホント陰湿でくどい人ね」

「じゃあ、あなたが二時にする? 出先から直接行けばいいでしょ? で、そのまま帰ってきて、入れ違いで私が四時にしましょうか?」
「何言ってるの? バカじゃない? そんなことしても一緒じゃん」
「一緒じゃないでしょ?」
「一緒だって言ってるじゃん。どうせ途中で抜けないといけないんだから、おんなじことじゃん」
「もういいわ。結局は、何をどうやっても気に入らないのでしょ? 勝手にすればいいじゃない。主人にも話すけど、あなた、いっそのこと法事を欠席する? 要は、法事なんかよりも遊びたいだけでしょ? だから、何も協力しないし、一人で拗ねて怒って、はっきり言って迷惑だわ」

「だから、何回も言ってるじゃん。二時に帰ってきて、アンタの予定に合わせてあげるって言ってるでしょ?」
「いい加減にして! 私の予定に合わせるですって? 何馬鹿なこと言っているの? どうしてそんな恩着せがましい言い方するの? あなた、少しでも法事の段取りのこと、考えたことあるの? 何もしないで全部人任せのクセに、予定を合わせてあげるって言い方、おかしいでしょ? 大体、五十過ぎてるクセに仕事もしないで人のお金で遊び呆けて、人の家に住ませてもらいながら、よくそんな口利けるわね。この際だから言わせていただきますけど、私はもう限界なの。主人に、早く追い出すようにお願いしていますから。私にとっては義父ですけど、あなたにとっては実のお父様でしょ? 実の親の三回忌も渋々出席する人なんて、主人はどう思うかしら? 部屋探しでもしといてくださいね」
「ちょっと、何ムキになってるの? ごめんなさいって。言い過ぎたわ。ついカッとなってしまっただけじゃない。ちゃんと二時に帰ってきて、お客様を丁重にお出迎えさせて頂きますって」
「もぉ……」



 調律中、この口論が延々と繰り広げられました。今、調律しないといけないの? せめて、他の部屋でやってよ……と思いつつ、ずっと聞き耳を立ててしまったことは否定しません。
 三回忌を自宅で盛大に行い、親族のお出迎えの為に着付けまでするなんて、お金持ちって大変なのだなぁと、感心しました。

 ちなみに、その日の調律は、自己記録を更新するかのようなスピードで行い、そそくさと『戦場』を後にしました。何とか、戦火に巻き込まれることはなく、流れ弾にも当らずにすみました。
 戦場ジャーナリストの偉大さを実感しました。


第1話へ